世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。復習や予習の際に使いやすい内容になっています。「問い」の設定や記事の最後には使用したパワポもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!※あくまで1例なので、「MQ」や「SQ」、スライド等は自由にアレンジしてください。
はじめに
前回はこのような内容でした。
今回は漢の時代(前漢→新→後漢)の文化をみていきます。「漢人」や「漢字」など、中国文化には「漢」の文字が多く使われます。それはこの漢の時代の文化に強い影響をうけているからにほかありません。
ではいったい漢の時代の文化とはどのようなものだっかのか?みていきましょう!
MQ:漢の長期政権は中国文化にどのような影響を与えたか?
今回の時代はここです!
豪族の進出
SQ:豪族はなぜ政界まで進出するに至ったのか?
漢の社会の中心は豪族たちといっても過言ではないでしょう。後漢はもともと豪族連合からできましたし、豪族が官職を独占していましたからね。
春秋・戦国時代以降は、氏族集団から小家族の単位で農耕をおこなうようになって、鉄製農具や牛耕などが普及しました。
あ~、これで生活が便利になったのかな~。
もちろん生活や生産の質は向上しましたが、それだけでは見解が狭いといえるでしょう。考えてみてください、鉄製農具や牛耕は当時では最先端の農業技術です。
現在、どの家庭でも最新式の家電などの機械を買うことは可能でしょうか?
最新はお高いからうちには無理だね~
こうなるご家庭のほうが多いのではないでしょうか。おそらく漢の時代の農家(小家族)も同じ状況だったのではないでしょうか。一般的な農家には鉄製農具や牛耕を導入する余裕(費用)はなかったのです。
なので従来の旧型の農耕(手作業、木製農具)だと、自然災害や国の労役なども重なって自作農で生計を立てるのが困難な農民たちがでてきます。貧困化ですね。そういった農家は自分たちの土地を売って身寄りを見つけるしかありません。
そこで登場するのが豪族です。豪族とは先祖代々、大土地を所有している一族なので資産が多く、農民が手放した土地を買い集め、没落した農民を雇い、最新技術(鉄製農具、牛耕)を導入して農地と生産を拡大しました。
こうして漢の時代には豪族のもとで奴隷や小作農となる農民が増加して、豪族は彼らから手数料(小作料)をいただくことで資産をさらに増やし、強大化していきました。
小作農・・・他人の土地を借りてそこを耕作すること。地主(豪族)に手数料(小作料)を払うことで土地を借りて生計を立てた。
そのような状況で始まったのが郷挙里選(きょうきょりせん)でした。これは官吏(官僚)の登用法で、地方の有力者から推薦をうけた者を官吏として登用する政策でしたね。
地方の有力者とは誰か?
そうですね、有力者とはまさに豪族のことです。豪族も人間です。可愛がっている親族や愛弟子を推薦することが多くなります。
結果、豪族が官吏として登用され政界にも進出したわけなんです。
学問
儒学の官学化
秦の時代に採用された法家にかわって、漢の時代には儒学(じゅがく)が採用されるようなりました。
漢の初期は、厳しすぎた秦の法家にかわって比較的ゆるい統治(郡国制)にあわせて黄老思想の政治が重要になりました。
そして武帝の時代になると儒学の考えが重要視されて、国学として研究されるようになります。これに影響を与えたのが董仲舒(とうちゅうじょ)と呼ばれる人物です。
この董仲舒は幼少期から勉強熱心で、3年間も庭に降りてこなかったといわれるほど儒学を学んでいたそうです。そのかいあって官吏として登用されて、武帝に儒学の重要性を説いたという人物なんです。
これによって前漢では儒学の経典を整理し、官吏たちの教養科目にもなるなど儒学は官学(国が指定した学問)となっていきました。
経典・・・教義をまとめたもの。
儒学では『易経(せききょう)』、『書経(しょきょう)』、『詩経(しきょう)』、『礼記(らいき)』、『春秋』を経典として「五経」とよばれた。
後漢時代に入ると郷挙里選で儒学が重要視されるなど、儒学の研究や教育はさらに進んでいきました。
中でも鄭玄(じょうげん)によって大成された訓詁学(くんこがく)が盛んになりました。
訓詁学とは簡単にいうと、「儒学の経典を正しく解釈をしよう。」というものです。経典は当時から数百年前に書かれたものです。日本でも平安時代に書かれたものは、現代文とは読みが違い、解釈が曖昧なことがありますよね。
この文はこういう意味じゃないのか。
いや、そうじゃなくてこういう意味でしょ!
このように後漢でも学者によって解釈が異なって論争になっていました。
その古典を正しく解釈して考えを統一しようとした運動が訓詁学でした。
歴史書の編纂(へんさん)
儒学の訓詁学が発展していったなか、統一国家をささえる思想や技術を守るために歴史書の編纂も行われました。
中国の歴史書の基本を作ったのは前漢の司馬遷(しばせん)が書いた『史記』と呼ばれるものです。漫画『キングダム』もこの『史記』をもとに書かれているんですんよ。
この『史記』は、みなさんが学校で習った歴史ような時代順で書かれたものではなく、主に王や皇帝の年代記である「本紀」とその臣下の伝記である「列伝」で構成される紀伝体(きでんたい)で記された歴史書なんです。
要は、各偉人の「伝記」を項目ごとにまとめたもの。みたいな感じですかね。
この紀伝体は後漢時代の班固が編纂した『漢書』によって定着していきました。
ちなみに年代順で記された歴史書は編年体と呼ばれます。これが編纂されるようになったのは、司馬遷が生きていた時代から約1000年後(北宋時代)の話です。
その他学問
中央では、官吏たちに必要な数学(税や戸籍の管理のため)や暦を作るための天文学(月や星の動きから時期を特定)の研究もされていました。
そしてそれらを記録するために発明・改良されたのが紙です。
漢以前は木簡・竹簡が使われていましたが、かさばったり費用がかさむなどの問題があったので低価で管理しやすい素材が求められていました。
前漢時代に紙が発明されて、後漢時代に宦官の蔡倫(さいりん)によって製紙法が改良されたことで記録の管理が容易になっていったのです。
グローバル国家「漢」
SQ:中国では「漢」の文字がなぜ多様されているのか?
漢の時代には外部との交流も盛んになりました。
西域
匈奴を討つために大月氏との同盟のために向かった前漢時代の張騫(ちょうけん)や、その後西域の経営(支配・管理)をおこなった後漢時代の班超(はんちょう)らによって西方の事情が伝わりました。
オアシス地帯を支配したことで、「オアシスの道」や「草原の道」を利用した隊商交易から西の文化が漢王朝に伝来しました。
この時代にインドから仏教なども伝わりました。
2世紀半ばには、当時ヨーロッパを支配していたローマ帝国から使者が訪れるなどグローバル化が進展しました。中国では大秦王安敦(たいしんおうあんとん)の使者として記録されています。
大秦王安敦・・・「大秦王」はローマ皇帝、「安敦」はマルクス=アウレリウス=アントニヌスとされている。全訳すると「ローマ皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌス」。
東域
日本が歴史書に登場するのも漢の時代です。後漢の『後漢書』東夷伝の中に、光武帝の時代に日本人(倭人)の奴国を臣下として封建して「漢倭奴国王(かんのわのなのこくおう)」と記された金印を与えた、という記録が残っています。
倭人・・・日本の呼称で「背丈が低い人」など卑下する意味をもつ。後に「和」に差し変わっていく。
冊封体制
漢は日本のように周辺の王朝(または首長)を臣下として封建して、皇帝を中心とした周辺を統合する体制を築きました。これを冊封体制(さくほうたいせい)といいます。
冊封される側としては、
大帝国の漢のバックアップがあれば緊急時は安心できるな。
このように漢王朝との安全保障の目的で臣下になって、自国を安全に存続させようとしたんですね。
理想国家「漢」
このようにして長期王朝を築いた漢王朝(前漢~後漢)の体制は、そのあとの中国王朝の理想とされました。
中国の約9割を占める民族を「漢人」といいますし、使用言語も「漢語」や「漢字」などと「漢」の文字が多様されています。
これは儒学を基本として冊封体制を築いた「漢」を後の中国王朝が理想としたからなんですね。
まとめ
MQ:漢の長期政権は中国文化にどのような影響を与えたか?
A:政界で儒学を官学化し、皇帝が中心となって周辺を統合する冊封体制を築くなどの政策がその後の王朝に影響を与え、中国文明の基礎となった。
今回はこのような内容でした。
その後の王朝も、この「漢」の体制や文化を基礎としてブラッシュアップしていきながら中国文化は発展していくことになります。
次回はその漢王朝(後漢)が崩壊したあとの群雄割拠の時代(三国志など)をみていきます!お楽しみに!
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男・橋場 弦(2022)、『詳説世界史探究』、山川出版社
・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男(2017) 、『詳説世界史研究』、山川出版社
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