[2-2.1]秦の統一と始皇帝

2-2.秦、漢

世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。このブログから世界史を深めてくれると嬉しいです。「問い」の設定や記事の最後にはパワーポイントもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!

※1記事で教科書0.5~1ページほどの文量です。実際の授業は記事複数分に相当すると思いますので、MQ、SQの設定などは各自で自由にアレンジしてください。

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はじめに

グシャケン
グシャケン

前回はこのような内容でした。

グシャケン
グシャケン

今回からまた中国文明へと戻ってきました。今回はついに約500年続いた春秋・戦国時代に終止符が打たれます。

どのような国が統一し、どのような政治を行ったのか?ここから長期にわたる「中華帝国」の始まりです!

MQ:始皇帝はどのように中国を統治したのか?

今回の時代はここです!

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「大王」から「皇帝」へ

当時中国は戦国時代(前403~前221)にあたり、7つの大国が覇権を争っていた時代でした。この7つの大国は「戦国の七雄と呼ばれてましたよね。

戦国の七雄

春秋・戦国時代についてはこちら!

をご覧ください。

秦の躍進

この「戦国の七雄」のうち、西に位置するが前4世紀に頭角を現すようになります。

秦は7大国の中では、もともと中心地だった都市からは離れた辺境国家でした。なので発展も遅れていたんです。

領土は小さいですが、もともと周の首都があった韓などのほうが栄えていたんですよ。

韓で大国に囲まれてかわいそう。なんだか弱そう。

と思っていたなら間違いです。もともとの首都があり大国に囲まれていたからこそ、各国の特産物が集まりやすく経済が発展していたんです。日本の東京だって面積だけで見れば最弱に近いですからね。(笑)

話を戻しますが、秦は他国に追いつくために国外の人材を積極的に登用していきました。それによって国力を増大させたんですね。日本の明治政府も外国人を誘致して富国強兵に励んでいました。

なかでも国力を上げた改革が商鞅(しょうおう)による「商鞅の変法」です。

商鞅

変法の主な内容はこちら

商鞅の変法

・氏族集団の小家族化・・・男子が2人以上いる家は分家しなければいけない。→自作農の増加

・実力主義制度・・・軍功をあげれな血統に関係なく報酬や位を授かれる。→競争による人材強化

・法の強制・・・上記の政策を推進するため。

商鞅の変法

これらの改革によって秦は国力を上げることができたんですね。商鞅は反対派に殺害されてしまいますが、これら法家の考えはその後の始皇帝にも受け継がれていきました。

法家などの諸子百家についてはこちら!

秦の統一と始皇帝の誕生

他の6大国は秦に対して、共同して秦に対抗する合従策個別に秦と同盟を結ぶ連衡策をおこなうなど、自国防衛の政策をとりますが、強大化した秦の前では苦戦を強いられました。

そして秦王である(せい)の時代に、6国は征服され前221年に中国は統一されました。約500年にも及んだ春秋・戦国時代が終わり、秦によって中華は統一されたんです。

秦の中国統一

この秦による統一までの過程を描いたのが大人気漫画『キングダム』です。フィクションの部分もありますが基本的には史実に基づいて描かれています。ぜひご堪能あれ。

出典:週刊ヤングジャンプ公式サイト https://youngjump.jp/kingdom/comics/

秦王の政は統一後、新たな君主の称号である「皇帝」を名乗り、史上初の皇帝である始皇帝として中国全土を統治しました。

始皇帝・・・死後に付けられた呼称。ちなみに自称は「(ちん)」だった。

始皇帝 出典:『詳説世界史B』山川出版社

●「皇帝」の意味とは?

統一以前、各国の君主は「大王」と呼ばれていました。

しかし、秦の大王であった政が各国を併合した際に、大王よりも上の立場が必要となり、「光り輝く神」という意味で「皇帝」と名乗ったそうです。

子孫にも「皇帝」と名乗らせることを決めていたらしく、その後も中国王朝では君主が「皇帝」と名乗るようになったんですね。秦の政は最初に皇帝と名乗ったことから始皇帝と呼ばれているんです。

では始皇帝は中国統一後、バラバラだった7国をどのように統治したんでしょうか?

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郡県制

始皇帝はまず、郡県制(ぐんけんせい)と呼ばれる統治政策をおこないました。

これは中国国内を36の「郡」に分けて、その中にさらに小分けにした「県」をおき、中央から官僚を派遣して中央政府からの命令や政策を迅速に各地に伝えて普及させるための制度です。

SQ:郡県制はそれまでの封建制と何が違うのか?

なんでわざわざ区画を引き直したんですか?

秦が決めたルールを普及させるためですね。

ルールがバラバラだと混乱して秩序が乱れちゃいますから。

「戦国の七雄」はそれぞれ法や統治法がバラバラだったため、統一後に混乱が起きないように秦のルール(法)を各地域に普及させる必要がありました

秦の官僚制度

今の日本でいう都道府県にわけてその中に市や町があるというイメージですね。

以前までは地方は諸侯に統治させる「封建制」がとられていました。これだと地方は諸侯任せになってしまうので、中央の命令や政策が普及されにくい仕組みになっていました。それが7か国にもなるとなおさら大変ですよね。

なので、始皇帝はバラバラだった各国をいち早く一つにまとめ上げるために、統治権を中央政府(秦)に集中させることでこの問題を解決しようとしました

まさに中央集権化です。

SQ:郡県制はそれまでの封建制と何が違うのか?

封建制は地方を諸侯が統治するため、ある程度の地方自治がおこなわれていた。それに対して郡県制は地方を郡と県に分割して中央から官僚を派遣して統治するため、統治権が中央政府である秦に集中していたのが特徴であった。

郡県制

この郡県制は現在の日本の統治機構にも共通するところがありますね。この制度はこの後の中国王朝にも引き継がれていきます

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貨幣・度量衡(どりょうこう)・文字の統一

つぎに国の運営で必要なことは何ですか?

うーん、いろいろあるけど経済の安定化も大事だよね。お金もそうだけど、モノを作るときの基準も合わせないと使い勝手が悪くなるからね。あとそれらを記録する文字も統一しないと不便だよね。

戦国時代の頃は7大国それぞれが貨幣を鋳造してお金のやりくり、つまり経済をまわしていました。

青銅貨幣 出典:『詳説世界史探究』山川出版社

青銅貨幣についてはこちら!

しかしこれでは、もとの7か国をまたぐ度に両替が必要でした。もうすでに1つの国家なのに両替が必要なのはめんどくさいですよね。

なので、モノの取り引きが円滑になるよう、貨幣は秦で使われていた円銭である半両銭(はんりょうせん)に統一されました。日本でも江戸時代では各藩で藩札を作っていましたが、明治になって新貨条例を出して「円、銭、厘」に統一してましたね。

半両銭・・・重さ半両(約8グラム)であるため半両銭と呼ばれた。円形で中央に四角の穴が空いている青銅貨幣

半両銭 出典:『詳説世界史探究』山川出版社

SQ:円銭のメリットとは?

今では当たり前のように日本でも使用される円銭にはどんなメリットがあるのでしょうか?

それはその形状に注目してください。

SQ:円銭のメリットとは?

他の青銅貨幣に比べて、円銭は中央に穴が空いているため、単位ごとにまとめやすく、他と比べてかさばらないという特徴がある。

なので秦では貨幣経済が他よりも発展して経済力が大きかったのではないでしょうか。

円銭の実用性

貨幣以外にもモノを作る基準である、「長さ」や「重さ」、「車輪の幅」などの度量衡(どりょうこう)も統一されました。

ちなみに「車輪に幅」まで統一されたのかというと、当時の一番モノや人を運べる交通手段は馬車でした。なので各国の主な道には馬車が走りやすいように道に車輪の幅にあわせた溝が作られていたんです。これによって安定して走行できたんですね。

これも各国で幅がバラバラだったため、統一されたんです。今でいう高速道路の道幅や速度設定がそうですかね。

お金のやり取りや命令の伝達に使われる「文字」も小篆(しょうてん)というものに統一されました。1つ1つの漢字も当時は国ごとに書き方が違っていたんですね。500年の分裂期は伊達じゃないですね。

貨幣・度量衡・文字の統一
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焚書・坑儒

これらのような、秦の始皇帝のやり方に全国を統一していくと、、、

もと被征服の民
もと被征服の民

秦のやり方には気にくわねえ

こんな人たちも当然いたことでしょう。そりゃいきなり「ああしろ、こうしろ!」とやり方を変えられるわけですから始皇帝のやり方に不満を持つ人たちも出てきます。

特に拒否反応を見せたのはインテリ層である学者たちです。もと6国(秦以外)の学者ほど秦の制度は受け入れ難いものだったのでしょう。

そこで始皇帝は政策が円滑に進むように、旧制度の思想を統制していきます。

その思想統制でおこなわれたのが焚書(ふんしょ)坑儒(こうじゅ)です。

焚書

秦以外の歴史書や儒家などの諸子百家の書物などを焼却した。

※医薬・占い・農業に関する書物は対象外(←実用的だから)

坑儒

儒学を支持する学者や、始皇帝の政策に対して不満をもらす学者460人余りを生き埋めにした。

※生き埋めにされた学者の中に儒学者が含まれていたので「坑儒」と呼ばれる。

焚書・坑儒
焚書・坑儒
焚書・坑儒

これらの政策には丞相(行政の最高顧問)であった李斯(法家)からの提案にもとづいて行われたといわれています。

儒学者
儒学者

君主が民に徳をもって統治する徳治国家が一番だ!

その他学者
その他学者

始皇帝のやり方は無理がありませぬか?

李斯(法家)
李斯(法家)

うち(秦)は法治国家でやろうとしているのにうっとうしい!

まあ、こう思うのも無理はないでしょう。違う価値観が広がると政治しずらくなりますからね。始皇帝らが国の秩序安定を目指した結果、このような残忍なことも行われました。

約500年ぶりの統一王朝の運営って大変そう、、、

始皇帝の「兵馬俑(へいばよう)

始皇帝に関する遺跡といえば兵馬俑ですよね。これは始皇帝陵(墓地)の近辺から約8000体もの兵士や軍馬をかたどった陶器の像が見つかったことからそう呼ばれています。

しかもすごいのが、すべて実寸大で作られていて、顔の表情や着ている甲冑(かっちゅう)もそれぞれ違うんです。始皇帝を守る精鋭たちがモデルだったといわれています。

始皇帝陵の兵馬俑 出典:『詳説世界史探究』山川出版社
兵馬俑 出典:『詳説世界史探究』山川出版社

これらの像は始皇帝を守る存在として作られ、リアルに作られているからこそ、当時の隊列や部隊長の特徴も描かれていて当時の軍の様子を知ることができます

これらの兵馬俑から始皇帝の権力の強大さと、それを守るのがいかに難しかったのかがうかがえますね。

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外征

始皇帝は統一後、内政を充実させるのに集中したいところでしたが、ある外敵たちがそうさせてくれませんでした。

それが北の匈奴と南の南越(または百越)です。

これらは戦国時代から度々、中国文化圏に侵入し戦国の七雄(秦、趙、楚など)とも交戦していました。統一後もそれらの侵入に頭を抱えていたんですね。

そこで始皇帝は目の上のたんこぶを取るために、それぞれ北と南に30~50万規模の大遠征をおこないました。

北の匈奴は後退させることに成功し、再度の侵入を防ぐために戦国時代から各国が築いていた、対匈奴の防壁をつなげて修築した長城の建設をしました。

これが後世も増築が続き、現在の万里の長城になっているんです。みなさんのイメージする長城は明(14~17世紀)に造られたものです。秦の長城は簡易的なものでした。

長城

南の南越(百越)も撃退に成功し、南海郡などの3郡を置いて領土を拡大していきました。

秦の対外政策
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まとめ

MQ:始皇帝はどのように中国を統治したのか?

A:内政は郡県制を敷いて中央集権化をおこない、貨幣や度量衡、文字などを統一して経済の安定化を図った。一方で国家に批判的な思想や人は、焚書・坑儒などを行って高圧的に統制した。同時に北の匈奴を後退させ長城を築き、南に進出して郡を置くなど外征による国家の領土拡大にも努めた。

今回はこのような内容でした。

今回は始皇帝の統治についてやってきましたが、次回はこの統治によって現れる副作用とその後についてやっていきます。

やはり統一王朝は一筋縄ではいきませんね。秦はなんと統一後14年という短い期間で滅びてしまうんです。

そしてその反省をいかして新たなる王朝が建てられることになります。それではお楽しみに!

今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!

「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク

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