世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。復習や予習の際に使いやすい内容になっています。「問い」の設定や記事の最後には使用したパワポもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!※あくまで1例なので、「MQ」や「SQ」、スライド等は自由にアレンジしてください。
はじめに
前回はこのような内容でした。
今回は劉邦が統一した漢王朝(前漢)がどのような統治をおこなったかをみていきます。それではみていきましょう!
MQ:前漢の政治はどんな変化をたどったのだろうか?
今回の時代はここです!
劉邦(高祖)の統治
漢王朝を建てた劉邦(高祖)は、破壊された秦の都であった咸陽(かんよう)の近くに、新しい都として長安(ちょうあん、現在の西安)を建設しました。人口は25万人弱だったそうですが実際は50万人ほどいたのではないかという説もあります。
国の運営にあたっては秦の制度の多くを引き継ぎました。まあ、ある程度完成されて浸透しているものを使うと混乱も少ないですからね。
ですが、当然すべてを引き継いだわけではないんです。もともと秦の政策への不満が積もって、反乱を起こしてできた王朝ですから。
SQ:漢の劉邦が変えた秦の政策とは?
旧6国は秦の統一政策の何に最も不満があったのでしょうか?
秦を含めた旧7国は、戦国時代からそれぞれのやり方で富国強兵をおこなっていたんですよね。なので国のルール(法)もぞれぞれのやり方で統治されていました。
それが秦によって統治されると、
これからは全て秦のやり方で統一する。守らないものは厳罰に処す。
うちにはうちのやり方があったから、秦のやり方はやりずれなぁ。
慣れたものを急に変えるのはみなさんも戸惑いますし、最初はめんどくさいですよね。旧6国の人々も同じ考えだったんです。特に元支配階級の人々は嫌だったでしょうね。
この統一政策を進めるために秦が行ったのが郡県制です。
この郡県制によって旧6国の人々は秦に管理・監視されるのに嫌気が差して反乱が起きました。
なので漢の劉邦は、同じ失敗をしないためにこの中央集権的な郡県制のやり方を変更しました。
その統治法が郡国制(ぐんこくせい)と呼ばれるものです。
郡県制によって不満が高まったので、劉邦はこの郡国制で中央集権を緩くしたんです。
具体的には、国土の3分の1ほどにあたる首都周辺地域は皇帝の直轄地として統治する郡県制を採用し、残り3分の2は一族や有力な家臣に諸侯王として分け与え、統治を任せる封建制が採用されました。
要は、「皇帝の近辺だけ固めて、それ以外はある程度の自由を与える。」ことで反乱を防止しようとしたんですね。「秦」と「周」の良いとこ取りみたいな統治法ですね。まさにハイブリット。
対外政策はどうだったのかというと、当時モンゴル高原では冒頓単于(ぼくとつぜんう)率いる匈奴が強大化していました。それに対して劉邦は対匈奴の大遠征をおこないます。
しかし、結果は冒頓単于の巧妙な作戦で大敗し、和議によって漢は皇族を人質として匈奴に渡したり、毎年大量の金品を送るはめになってしまいました。
どうやら対外的には劉邦はパッとしなかったようです。
呉楚七国の乱
前195年に劉邦が亡くなって高祖の名を送られたしばらく後、前154年に事件が起きます。
皇帝と諸侯王の対立が深まって起きた軍事衝突、呉楚七国の乱(ごそしちこくのらん)です。
時は第6代皇帝の景帝(けいてい)の時代です。官僚からの意見で封建制によって統治されていた諸侯王の領土を削減して皇帝の直轄領を拡大しようとしました。当時すでに皇帝に対して反発的で言うことを聞かない王がちらほら出てきていたんです。
統治を任せるとそれはそれで問題が起きますね。(笑)
この政策に対して諸侯は当然反対します。領土を削られるということは自分(諸侯王)の利益が減ることを意味します。人間失うことに対してはどの時代も嫌がるものです。
ということで、呉王を中心に6国の王を誘って漢王朝に対して反乱が起きました。これが呉楚七国の乱です。
一時、反乱軍は漢王朝の中心部まで迫るなど善戦し、皇帝が削減策を提案した官僚を処刑するなど歩み寄りもありましたが、反乱軍は進撃は止まりませんでした。
しかし、徐々に勢力が尽きていって敗走し始めます。約3か月が経つころには、反乱を起こした王たちは漢軍に追い込まれて戦死または自殺してしまい鎮圧されて反乱は終わりました。
SQ:呉楚七国の乱後、漢の政策はどのように変化したのか?
ではみなさん、周辺を封建制によって統治させたことで統制が効かなくなり、最終的に反乱が起きてしまいました。ではみなさんが皇帝ならここからどのように統治していきますか?
当時の皇帝はこうです。
やはり、こちらで管理・監視したほうがまだマシだな。
こうして、国と王はそのまま残しましたが、中央から役人を派遣して直接支配することで管理・監視を強化したんです。秦の郡県制ほどではありませんが、再び中央集権化を強化していきました。
そして第7代皇帝の武帝(ぶてい)の時代にさらに諸侯の領土削減と分割をすすめて、完全な郡県制を完成させたんです。秦の急進的な改革と違って徐々に郡県制に移行したことで事なきを得たんでしょうね。
そしてこの武帝の時代に漢王朝の最盛期が訪れることになります。
武帝の統治(対外政策)
武帝はわずか16歳で即位しました。当時は呉楚七国の乱は平定されて比較的安定した時代でした。
しかし、そのような時代に武帝は積極的に外征をおこなって領土拡大に努めて王朝を最大領域に拡大しました。
SQ:なぜ武帝は領土拡大に努めたのか?
なんで平和な時代に領土拡大をおこなったんだろう?
それには大きく2つの要因があると考えられます。
国内が安定したことで、外の脅威に対して集中して対処することができるようになったため。
国内が治安が不安定だと、そこに労力を割かなければいけないので外まで見る余裕がなくなってしまうのです。国内が安定していたからこそ軍を外に向けることができたんです。
困窮した人々の生活を向上させるために、新たな農耕地を獲得するため。
国内が安定すると人口が増えて、土地や食糧に困窮する人々がでてきます。こうした人々が増えると治安が悪化し反乱の種になりかねません。
こうした困窮した人々を満足させるためには、国外に新たな領土を拡大して食糧生産を上げる必要があったのです。
まとめるとこんな感じです。
では具体的にどのような対外政策をおこなったのかみていきましょう。
匈奴撃退
劉邦(高祖)が負けて以来、和議に従って匈奴に貢納をおこなっていた漢ですが、武帝の時代に反転攻勢にでます。
武帝が注目したのは、過去に匈奴によって西に追いやられた月氏族の大月氏という国でした。この大月氏と同盟を結んで強敵匈奴を挟み撃ちにしようとしたのです。さっそく同盟を結ぶために張騫(ちょうけん)が派遣されました。
張騫は道中に匈奴に捕まって捕虜になって脱走したりなど、スリリングな旅を経て大月氏に到着しました。そして同盟を進めると、
今はもう匈奴と戦うつもりはない。
なんと同盟を断られてしまったんですね。仕方なくその旨を伝えるために漢に戻ろうとしますが、その道中でも匈奴の捕虜になってまた脱走するなど、困難を乗り越えて無事に漢に戻ってくることができました。
文章ではあっという間に感じるかもしれませんが、張騫が出発してから帰ってくるまでになんと13年かかってるんです。めっちゃ時間かかりましたね。皇帝はもう諦めていたでしょうね。(笑)
大月氏との挟撃は失敗に終わりましたが、漢の大規模な攻勢もあり匈奴を後退させることに成功します。
しかも、張騫が西を調査したことで中央ユーラシアのオアシス地域の情報も入り、隊商の交通路を押さえてタリム盆地一帯まで支配を広げることができました。
張騫の努力も無駄ではなかったんですね。
南越と朝鮮支配
秦末期に混乱に乗じて南越国(なんえつこく)が南で独立していました。
武帝は南越国で内乱が起こったのをみて、10万の兵を討伐に向けました。内乱の混乱もあり、南越国は前111年に滅ぼされます。
そして日南郡など、9つの郡を設けて支配を広げました。この後、ベトナム周辺は中国に100年以上支配されることになります。
同じく朝鮮半島にも衛氏朝鮮(えいしちょうせん)という国家がありました。秦の末期に朝鮮半島に亡命した衛氏一族が作った王朝で朝鮮半島初の国家とされています。
、武帝は匈奴と手を組まれるのを恐れて衛氏朝鮮を攻めます。粘り強く抗戦しましたが2年に及ぶ包囲に力尽き、前108年に滅亡しました。
朝鮮半島には楽浪郡(らくろうぐん)など4つの郡が置かれました。楽浪郡は数百年のわたって晋の時代まで朝鮮支配の拠点として使用されました。現在の北朝鮮に首都である平壌周辺の地域ですね。
このように武帝の時代に積極的な対外政策をおこなったことで漢の領土は最大に達しました。
武帝の統治(人事制度と経済政策)
人事制度(郷挙里選)
前にも述べましたが、武帝は中央集権化を進めて郡県制を完成させましたね。
この中央集権を充実させるためには、官吏(かんり=役人)の働きが重要でした。
もともと役人は位の高い官僚の子弟や裕福家系の人が登用されていました。まあ要は内輪で決めていたんですね。しかし、国土が拡大するにつれて、さらに人材が必要になっていき役人の数が不足していきます。そこで、、、
地方から優秀な人材を見つけて登用しよう。
ということで取り入れらえたのが郷挙里選(きょうきょりせん)です。
郷挙里選とは郡や県のさらに下の行政区分であった「郷」や「里」から優秀な人材を選び、地方長官から中央政府に推薦するという制度でした。要は各地方からの国家公務員の指定推薦です。
あとの後漢の時代まで続き、20万人に1人の割合で選ばれて毎年200人が推薦されていたそうです。狭き門ですね。(笑)ちなみに推薦で重視されたのは「親へどれだけ孝行しているか」だったそうです。儒教的な考え方ですね。
初めて内輪ではなく、地方から役人を登用するという国家公務員試験(推薦制)が実施されたことは画期的でした。地方から中央に出世できるドリーム街道が開けたわけです。
SQ:郷挙里選のデメリットとは?
初の地方からの国家公務員推薦は優秀な人材が登用されるという画期的な内容でした。しかしこれには欠点もあったんです。
この制度は地方長官からの推薦で登用される制度でしたよね?なので誰が選ばれるかは地方長官次第なんです。
なので自然と地方長官に気に入られた人や、地方の有力者の子弟が推薦されることも少なくなかったのです。のちのちこれによって「門閥貴族(もんばつきぞく)」と呼ばれる地方有力者が官職を独占する状態になっていきました。
これが反省されて徐々に現在の公務員試験(試験、面接)の形になっていくことになります。
経済政策
武帝は積極的に領土拡大をおこなっていました。しかし、戦争や開墾が続くとある問題にぶつかります。
戦争でお金が足りない。
財政難に直面したんです。どの時代のどの国でもこの問題はつきものです。海外から支援してもらったり、国債(借金みたいなもの)を買ってもらって対応することが多いですね。
では武帝はこの財政難をどのように乗り切ろうとしたんでしょうか。
それは生活インフラの国有化です。少し難しい言い方になっちゃいましたね。(笑)
簡単にいうと国民の生活に欠かせないモノを国が独占して販売したんです。それが塩・鉄の専売でした。これによって国家財政を充実させようとしたのです。
SQ:『塩鉄論』禁耕から、鉄の専売による効果とはどんなものだったのか?
まず当時は農耕に鉄が使われていたことがポイントですね。
そうです。だからこそ鉄を国家管理にして、全国で規格も統一しようとしたんですね。
でも規格を統一したことで各地域の特徴に合わなくなり、耕作が困難になってしまったんですね。農民が嘆いていたことが記録からよくわかります。
同じ国だからなんでも統一すればいいという訳ではなかったんですね。
武帝はこの塩・鉄の専売だけではなく、物価を調整するための均輸(きんゆ)や平準(へいじゅん)なども行いました。
各地の特産物を国が買取り、他地域に輸送して販売して物価を均一にする政策。
(ある特産物が不足する地域では値段が上がるため高値で売れる。←国家の利益)
価格が低い産物を買取って貯蔵しておき、価格が上がった時に売り出して物価の水準を一定にする政策。
(あるモノが多いときは値段が下がるので買い入れ、不足した際は値段が上がるため高値で売れる。←国家の利益)
これら二つの政策は表向きには、地域や時期によって物価が激しく変動しないためにおこなわれました。物価が上がりすぎると消費者の生活が苦しくなって、物価が下がりすぎると生産者の生活が苦しくなりますからね。
ですがこれはあくまで表向きです。
本当の狙いはカッコ書きにしましたが、「物が安い時に仕入れて高い時に売って利益を出す。」です。まさに投資の考え方ですね。
これらの政策によって武帝は対外政策による財政難を乗り切ったんですね。うまい。
まとめ
MQ:前漢の政治はどんな変化をたどったのだろうか?
A:秦の郡県制を改めて封建制と組み合わせた郡国制を敷いたが、諸侯王の反乱をきっかけに徐々に中央集権化していき、武帝の頃には再び郡県制に戻した。中央集権を強めた武帝は積極的に対外政策をおこない領土拡大に努めた。それが原因となった財政難は塩・鉄の専売や均輸、平準などの物価調整策などを用いて立て直した。
今回はこのような内容でした。
中央集権化を強めた前漢でしたが、地域の実情に合わなかったものも多く、次第に儒教に基づく徳治的な考えが広がっていくことになります。
その中で新たなる国家を建設しようとする人物が現れます。お楽しみに!
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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コメント
初めまして、新しい学びをいつもありがとうございます。
パワーポイントのダウンロードが「前漢の政治」に関してはできないのでできるようにしていただけると嬉しいです。
こちらこそありがとうございます。
パワポについてはご迷惑をおかけしました。修正したのでよろしくお願いします。
パワポの内容についてはご満足していただけているでしょうか?
ありがたく勉強させていただいております。
本当にありがとうございます。