世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。復習や予習の際に使いやすい内容になっています。「問い」の設定や記事の最後には使用したパワポもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!※あくまで1例なので、「MQ」や「SQ」、スライド等は自由にアレンジしてください。
はじめに
前回はこのような内容でした。
今回は、今までみてきた魏晋南北朝時代に、周辺諸国の朝鮮や日本はどんな影響をうけたのか、についてやっていきます。
それではみていきましょう!
MQ:魏晋南北朝時代は、朝鮮や日本の国家形成にどんな影響を与えたのか?
今回の時代はここ!
朝鮮半島や日本への文化流入
SQ:なぜ魏晋南北朝時代に朝鮮半島や日本へ中国の文化が流入したのか?
漢の時代まで、中国でもっとも人口が多い地域は華北でした。しかし、魏晋南北朝時代に入ると、人々が周辺へと移動していき、中国文化圏が拡大していったんです。
なんでこの時代に中国文化圏が拡大したんですか?
いい質問ですね。魏晋南北朝は戦乱の時代でした。特に華北地域は五胡(遊牧民)が入ってきたりと混乱しましたよね。その混乱を避けるように人々が周辺に移動していったんです。
魏晋南北朝時代は、五胡の進出によって国々が乱立する戦乱の時代が長く続きました。それに嫌気がさした人々が、戦乱を避けるように周辺に移動していったことで、周辺地域にも中国文化が広がっていきました。
特に南の江南地域では、移住した人々によって開発や文化が発展しました。
この時に、南だけではなく、東の朝鮮半島や日本列島へ移住した人々もいました。これによって朝鮮半島や日本にも中国の文化が流入して中国文化の影響のもと、国家が造られていきます。
朝鮮三国時代
高句麗
朝鮮半島では、前漢の時代に楽浪郡など4つの郡が置かれて直接支配をうけていました。
前1世紀に郡の1つが衰退したことで、それに付け込んで半農半狩猟のツングース系の部族連合国家として建国されたのが高句麗(こうくり)でした。
その後、後漢の時代に侵攻をうけて後退しますが、中国本土で三国時代が始まり、晋によって統一後、五胡の進入によって、中国は本格的に混乱の時代を迎えました。
この時に、高句麗は直実に勢力を拡大し、五胡十六国時代に挙兵、4世紀初めには、支配が衰えた楽浪郡や帯方郡を滅ぼして朝鮮半島北部を統一しました。
最盛期を築いた広開土王(こうかいどおう)は、朝鮮半島に進出してきた倭国(日本)勢力を撃退したりと、領土拡大に貢献して記念碑が建てられています。
新羅と百済
高句麗によって楽浪郡や帯方郡が滅亡したことで、間接支配をうけていた朝鮮半島南部でも統一国家形成の動きが出てきます。
1~4世紀ごろまで、朝鮮半島南部では韓民族が多くの小国を建てる分立状態が続いていました。
この小国分立状態を、西の馬韓、南の弁韓、東の辰韓という大きく三つに地域に分かれて、三韓と呼ばれています。
そのうち、12ほどの小国があった辰韓を新羅(しんら、しらぎ)が統一し、50ほどの小国があった馬韓を百済(ひゃくさい、くだら)が統一しました。
南の弁韓は、小国分立状態が続き伽耶(加羅)諸国と呼ばれるようになります。この伽耶諸国は日本のヤマト政権が進出していた地域でもあったんです。
ちなみに、この伽耶諸国は日本のヤマト政権が進出していた地域でもありました。伽耶諸国には、日本でも見られる墳丘の遺跡が発見されるなど、文化交流があったことが示されています。
日本が古代より、閉鎖的な文化を歩んでいたと思っていたなら、改めておきましょう。
これら朝鮮半島での3国がしのぎを削り合う戦乱は、さらに日本列島への人材や文化の流入を促進させました。
この時代に、中国や朝鮮半島から来た人たちを日本では「渡来人」と呼んでいました。この渡来人たちによって、当時の最新の技術や文化が伝えられ、中国の影響を受けながら日本文化が造られていきました。
邪馬台国、ヤマト政権
邪馬台国
中国での魏・呉・蜀の三国時代の頃、日本では小国分立状態が続いていました。それを大きく統一へと進めていったのが、女王卑弥呼(ひみこ)で有名な邪馬台国(やまたいこく)です。
邪馬台国の卑弥呼は、中国の魏に使節を送り「親魏倭王」の称号と大量の銅鏡を授かり、冊封をうけて主従関係を結びました。
SQ:なぜ卑弥呼は魏から冊封をうけたのか?
当時、日本列島は小国分立状態でした。邪馬台国が30国あまりを従える大国であったとはいえ、従わず激しく争っていた敵国も相当数いたことでしょう。
そこで目を付けたのが、中国の大国「魏」でした。魏は呉との闘争を有利に進めるために邪馬台国に興味を示していました。
邪馬台国からすると、中国本土の大国がバックにつけば、その権威を利用して国内統一をスムーズに行えると考えたのです。魏からもらった銅鏡も権威を示すツールとして使用されました。
ヤマト政権
4世紀に入ると、大和地方(現在の奈良県内)を中心とした豪族連合であるヤマト政権が現れて、統一が進められます。
ヤマト政権・・・日本の「古墳時代」にあたり、各地に巨大な前方後円墳が築かれた。
5世紀に入ると、周辺の豪族との闘争を有利に進めるために、5人の王(倭の五王)がこぞって中国の南朝の宋に使節を送るなどして、政権を拡大しようとしました。
朝貢(ちょうこう)
このように、朝鮮半島や倭国(日本)の国々は、中国王朝の権威を借りて勢力を拡大するために、積極的に冊封体制に加わり、朝貢(ちょうこう)と呼ばれるものをおこなっていました。
周辺諸国が中国王朝に使者を送って貢物をすること。中国の皇帝は、貢物を上回る返礼品をすることで権威を示し、お互いの外交関係(主従関係)を確認していた。
日本(邪馬台国、ヤマト政権など)は、この朝貢貿易によって、中国の先進的な文化を取り入れていたんですね。権威づけ以外にも、交易による経済的利益を目的としたものもありました。
日本では古墳時代から室町時代にかけて断続的に朝貢貿易が行われた。
SQ:中国王朝が朝貢をおこなうメリットとは?
中国王朝にとって朝貢は、権威を示すために貢物を上回る返礼品が必要だったため、経済的な負担は少なくありませんでした。
じゃあ、なんで毎回赤字になるとわかっていて、朝貢をおこなっていたんですか?
それは、魏晋南北朝という時代の特徴からみれば理解することができます。
魏晋南北朝は、名称のとおり北朝と南朝に分かれており、加えて北朝は遊牧諸民族との抗争もありまっした。とにかく常に周辺の敵国との抗争があったわけです。
なので、各王朝は少しでも敵国より優位に立てるように、周辺諸国を味方につけようとしたわけなんです。
そりゃ背後に敵ができると、それだけで注意を払わないといけないんで、思い切った行動ができなくなるんです。
三国時代の魏は呉の背後、南朝の宋は北朝の背後として倭国(日本)や朝鮮半島諸国と朝貢をおこなっていました。交易で赤字になろうと地政学的優位を優先していたんですね。
まとめ
MQ:魏晋南北朝時代は、朝鮮や日本の国家形成にどんな影響を与えたのか?
A:戦乱による人々の移動などによって、朝鮮半島や日本に中国の先端的な技術や文化が流入し、国家が形成された。中国王朝は抗争を優位にするために、それらと朝貢おこなうことで、冊封体制を築いていった。
今回はこのような内容でした。
次回は、長く続いた魏晋南北朝時代に終止符をうち、世界最強のグローバル国家の礎を築く王朝が登場します。
それではお楽しみに!
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男・橋場 弦(2022)、『詳説世界史探究』、山川出版社
・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男(2017) 、『詳説世界史研究』、山川出版社
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