世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。復習や予習の際に使いやすい内容になっています。「問い」の設定や記事の最後には使用したパワポもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!※あくまで1例なので、「MQ」や「SQ」、スライド等は自由にアレンジしてください。
はじめに
前回はこのような内容でした。
今回は唐後半の変容を見ていきます。貴族中心の政治から次第に科挙官吏(官僚)の時代へと変わっていきます。それではみていきましょう!
MQ:武則天によって政治はどのように変化したのか?
今回の時代はここ!
格差社会の拡大
均田制の崩壊
律令制国家を整えた大帝国唐でしたが、その複雑な制度の維持には大きい負担もありました。
租税(租・調・庸)などと組み合わせた土地制度であった均田制は、全国で均等に土地を配分するというものでした。
これによって徴兵や納税が安定して管理しやすく、国の運営がスムーズになるはずでした。
しかし、実際は広大な領土に国有地である土地を均一に分配し、管理することは不可能だったんです。土地の地形に悩まされたり、土地に対して人が飽和したりといったさまざまな問題が起こったのでしょう。
当時、均田制をもとに徴兵された者を都市や辺境の守備にあてる府兵制(ふせいせい)も中心都市(長安・洛陽)周辺の農村にしか課されず、農民の間でも大きな不平等が生じていました。
このような不平等によって格差が広がり、多くの税を課される農民は生活が苦しくなって、土地を捨てて逃亡する人々も出てきてしまいます。
次第に均田制は機能しなくなっていき、8世紀にはほとんど行われなくなってしまいました。
唐王朝にとって均田制という整った制度は、机上の空論だったのかもしれませんね。財源を失って運営が大変そう、、、。
荘園の拡大
均田制が崩壊したことによって、各地では荒廃した土地だけが残ってしまいました。そこに目を付けたのが貴族などの上級官僚たちでした。
彼らは大土地所有を認められた特権階級であったために、均田制の崩壊にともなって私有地をさらに拡大させていきました。
獲得した土地は、均田制から逃れた没落農民に貸し出して耕作させる小作農によって、荘園化していきました。
これらによって人々の格差はさらに広がって、唐の財政も悪化していくことになります。
武則天(則天武后)
女帝武則天の誕生
そんな中、唐王朝の内部でも変化が起きます。
3代目の高宗は対外戦争によって唐の最大領土を達成しますが、病弱であったため政治は官僚たちに任せることが多かったみたいです。
そこに付け込んで政治の実権を握ったのが、皇后の武則天(ぶそくてん、則天武后)でした。
武則天は高宗の在位途中から実権を握り、背後の簾(すだれ)から皇帝を操って政治をおこなっていたことから「垂簾の政(すいれんのまつりごと)」と呼ばれたりもしました。
高句麗遠征を成功させたのも武則天が実権を握っていた時だったんですよ。
唐の皇族であった李一族を政界から排除したりと、唐の旧権力を徹底的に排除していき、自らの武一族を優遇していくようになります。
高宗の死後は2人の子どもが順番に皇帝となりますが、武則天は子どもたちを次々と廃位させて、最終的に自ら皇帝として君臨します。すごい権力欲ですね。(笑)
国号も周(武周)と改めて、ここに中国史上唯一の女帝が誕生しました。
武則天の周・・・古代の周王朝と被るため、区別するために武則天の方は「武周」といわれたりする。
武則天の政治
武則天は即位後、首都を長安から洛陽に移し「神都」と改称しました。
そこで取り組んだのが、科挙官僚の強化です。科挙に合格した優秀な官僚を積極的に側近に抜擢して官僚制の整備をしました。
SQ:武則天はなぜ科挙を強化して官僚制を整備したのか?
唐の建国以降、国を支えていたのは鮮卑族の血を引く李一族(李淵、李世民など)でした。
武則天の時代も李一族を中心とした上級官僚(貴族)たちが、政治で強い実力をもっていたんですね。
李一族ではなく武一族だった武則天にとって、この李一族は政治をおこなう上で「目の上のたんこぶ」のような存在になっていたんです。
なので武則天は旧権力(李一族)を一掃して、派閥に関係なく優秀な官僚を宰相(NO.2)などに登用することで、武一族の権力を盤石なものにしようとしたわけなんです。
なので旧勢力から離れるために首都も遷都したんでしょうね。
この武則天の政策によって政治の担い手は貴族から科挙官僚へと移り始めていきました。
武則天は旧勢力と距離を置く一環として、旧権力が保護していた道教も改めて、仏教への保護へと変えていきます。
各地に官寺(かんじ)を設置して仏教の布教に力をいれました。
官寺(かんじ)・・・国の監督下に入る代わりに、国から経済的な保障をうける寺院。
この政策は後継の皇帝にも引き継がれて、日本での国分寺制度のモデルにもなっています。
しかし、これらの急進的な仏教保護は、多くの寺院建立などで民衆の負担も大きく生活が困窮した人々も少なくありませんでした。
仏教的観点から家畜の殺生や漁業を禁止したりもしていたんですよ。そりゃそれを仕事にしている人たちは生活に困ったことでしょう。
まとめ
MQ:武則天によって政治はどのように変化したのか?
A:それまでの旧勢力を排除するために、科挙官僚を政治の中枢に登用し、貴族中心から科挙官僚中心の政治に変化していった。
今回はこのような内容でした。
武則天の時代は農民反乱もなく、比較的安定した時代でした。しかし、武則天の死後は王朝内で権力闘争が起きてしまいます。
それを安定させて唐後半の繁栄を築いたのが玄宗(げんそう)という皇帝でした。
その玄宗はどのような政治をおこなったのか。この時代は社会変化によってさまざまな制度が改められていきます。それでは次回もお楽しみに!
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
この記事で使用した授業スライドのダウンロードはこちら↓
・『世界史の窓』、世界史の窓 (y-history.net)
・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男・橋場 弦(2022)、『詳説世界史探究』、山川出版社
・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男(2017) 、『詳説世界史研究』、山川出版社
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