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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回は新国民国家の誕生として、「イタリアの統一」についてみていきます。イタリアはどのような条件が重なって、統一が実現されたんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:イタリア統一はどんな条件のもとで実現したのか?
イタリアの分裂期
みなさんが地図で見るイタリアは、長靴の形をした一つの国です。
しかし、19世紀半ばまでのイタリアは、まったく別の姿をしていました。
北から南まで、大小さまざまな王国や都市国家が並んでいたんです。

まさに「国家のつぎはぎ状態」だったんです。
この分裂状態は中世以来続いていたんですが、近代に入るとナポレオン帝国による支配が一度それを壊します。
しかし、ウィーン体制になるとまた元に戻るという“揺り戻し”が起こります。
そこから、各地で自由主義運動が起きて、イタリアでもオーストリアなどからの支配を脱して、統一しようとする運動が活発になります。

しかし、イタリアではその後、統一運動がなかなか進展しなかったんです。
SQ:なぜウィーン体制下のイタリアでは、統一運動が進みにくかったのか?

ではなぜ、ウィーン体制下のイタリアでは、統一運動が進みにくかったんでしょうか?
ナポレオンの時代に、一度は統合されたイタリアでしたが、ウィーン会議で再び細かい国家に分割されてしまいました。
北・・・オーストリアの直接支配
中央・・・教皇領
南・・・ブルボン家の両シチリア王国
こうして、イタリア半島の広い範囲がオーストリアの勢力圏に組み込まれることになりました。
こんな状況だったので、自由主義運動や民族運動が起きても、オーストリアは軍事介入や検閲によって徹底的にこれらの運動を抑え込むことができたんです。
なので、蜂起が起きてもすぐ鎮圧されてしまい、運動が広がる前に潰されてしまいました。
ここにイタリアでの統一運動の最大の壁があったんです。
しかも当時は、小国に分裂していた影響で「イタリア人」という共通意識が弱かったので、地域によって温度差があったのも、統一運動の障壁になりました。
こうしたオーストリアなどによる「外からの圧力」と、各地域の温度差による「内の意識不一致」が重なったことで、イタリアでは統一運動がなかなか進まなかったというわけなんです。
ウィーン会議で細かく分割され、多くがオーストリアの勢力下に置かれたため、自由主義運動や民族運動は軍事力と検閲で徹底的に抑え込まれた。また、「イタリア人」という共通意識が弱く、地域ごとに温度差があったため、統一に向けた動きがまとまりにくかった。

マッツィーニと青年イタリア
しかし、こうした中でも、オーストリアによる抑圧からイタリアを開放しようとする人物が現れます。
それがマッツィーニという人物でした。

マッツィーニは弁護士として働きながら、秘密結社カルボナリに参加して活動していましたが、秘密結社ゆえに民衆の支持を得られず、蜂起を繰り返しては失敗していました。
マッツィーニ自身もフランスへ亡命して、

秘密結社ではイタリアは変えられない
と思うようになります。
なので、亡命先でマッツィーニは新しい活動を模索して「青年イタリア」という組織を結成しました。
これは、それまでの秘密結社とは異なり、
・公然と活動する
・明確な方針を掲げる
・民衆から支持を得る
という特徴がありました。
青年イタリアはこの理念をもとに、イタリアを一つの主権国家にすることを目指しました。

この青年イタリアの運動は後のイタリア統一運動の出発点となっていきます。

そんなタイミングで、ヨーロッパ全体を揺るがす1848年革命の波がイタリアにも押し寄せます。
シチリアでの蜂起をきっかけに、都市国家や公国で次々と憲法が制定されていき、ミラノやヴェネツィアでは反オーストリア蜂起が起こりました。
この激動の中で、マッツィーニは教皇が国外に逃げたのを見計らって、ローマで共和政を宣言し、「ローマ共和国」を成立させます。
そこにガリバルディの義勇軍も加わって、ローマは自由と統一の象徴になっていきました。

ガリバルディについては後で説明しますね。
しかし、教皇を支援するフランス軍が介入してきたことで、共和国はわずか数か月で崩壊してしまいました。
マッツィーニは最後まで抵抗しましたが、力及ばず再び亡命してして、イタリア統一は失敗に終わりました。

サルデーニャ王国の台頭
カヴールの改革
青年イタリアの統一は失敗に終わりましたが、ここで一つだけ“例外”がありました。
それがサルデーニャ王国と呼ばれる王国です。

この王国はスペイン継承戦争で領土を拡大して王国となった国でした。
ここだけは憲法を撤回せずに、立憲君主政を守り続けたんです。
この選択が、後のイタリア統一の中心となる大きな理由になっていきます。
そしてサルデーニャ王国では、1848年革命直後に即位したヴィットーリオ=エマヌエーレ2世のもとで自由主義改革が進んでいきます。

そして、その改革の中心となったのが首相のカヴールという人物でした。

カヴールは、鉄道建設や産業育成、財政改革など、近代国家に必要な体制を整えていきました。
さらに外交面では、イギリスとフランスとの関係を強めるためにクリミア戦争に参戦して、ヨーロッパでの存在感を高めていきました。

イギリスとフランスに接近した理由は、イタリアを支配するオーストリアと対立していたからでした。

こうして、サルデーニャ王国はイタリア統一に向けて中心的な役割を担っていくことになります。

ではなぜ、サルデーニャ王国はイタリア統一の中心になり得たんでしょうか?
SQ:なぜサルデーニャ王国はイタリア統一の中心になり得たのか?
先ほども説明した通り、イタリアの多くの国々は、1848年革命後に自由主義的な改革を撤回し、再び保守的な体制へ戻っていきました。
ところが、サルデーニャ王国だけは憲法を維持して、立憲君主政を続けました。
ここが、他のイタリア諸国と決定的に違う点でした。
その後、首相カヴールが本格的な近代化を推進して、
・鉄道建設・産業育成・財政改革 → 経済力と行政能力を備えた「近代国家」へと変貌。
・外交で英仏と接近(クリミア戦争への参戦) → 国際社会で「イタリア統一を担うにふさわしい国家」と認識される。
・オーストリアに対抗できる唯一の勢力 → 他のイタリア諸国には軍事力も外交力も不足していた。
つまり、
「国内の近代化」+「国際的な信用」+「軍事・外交力」
以上の三つを同時に持つことができたのことで、サルデーニャ王国はイタリア統一運動の中心になり得たというわけなんです。
唯一立憲体制を維持して近代化を進め、カヴールの外交によって英仏の支持を得たことで、オーストリアに対抗できる「実力と国際的信用」を備えていたため、イタリア統一の中心になり得た。

サルデーニャ王国の統一運動
カヴールの外交
カヴールはフランスのナポレオン3世に接近して、「サルデーニャがオーストリアと戦うなら、フランスが支援する」という密約を結びます。
こうしてフランスとタッグを組んだサルデーニャ王国は、オーストリアと戦って勝利します。

ちなみに、この戦いで戦場の惨状を目の当たりにしたデュナンという人物が、後に赤十字を創設しているんですよ。
戦争は順調に進んでいきましたが、なんとここでナポレオン3世が突然オーストリアと単独講和を結んでしまうんです。
理由は、フランス国内のカトリック勢力が「教皇領が脅かされる」と反発したのと、サルデーニャ王国が強大化しすぎることを警戒したからでした。
この予想外の講和に激怒したカヴールは辞任してしまい、結果としてサルデーニャ王国が得たのはロンバルディアのみで、統一には至りませんでした。

しかし、統一を諦められないヴィットーリオ=エマヌエーレ2世はカヴールを復帰させて、再び巧みな外交を展開していきます。
フランスにサヴォイアとニースを割譲する代わりに、中部イタリアで住民投票を実施して、サルデーニャ王国への併合を認めさせるという取引を成立させます。
この時点で、北部と中部の大部分がサルデーニャ王国の支配下に入ることになり、統一は大きく前進します。
しかし、南イタリアと教皇領は依然として別の勢力が支配していました。

ガリバルディの「千人隊」と南イタリア征服
そして、ここで統一運動を一気に加速させたのが、英雄ガリバルディでした。

彼は若い頃からマッツィーニに共感して、蜂起に参加しては亡命を繰り返すという波乱な人生を送っていました。
そして、体制を整えたガリバルディは独自の判断で義勇兵である「千人隊」を率いてシチリア島へ向かいます。

赤シャツを着ていたのは、亡命先の南米の港で売れ残っていた労働者用シャツをまとめ買いしたからという説があり、「革命の象徴」というより「在庫処分品」だった可能性があったんですよ。

ガリバルディ軍はシチリアを制圧していき、さらにナポリへ進撃していきます。
しかしその裏で、カヴールが「フランスが南部に介入するのでは」と危惧して、サルデーニャ軍を急いで南下させました。
ここで両軍が協議をすることになり、ガリバルディは共和派でしたが、最終的には征服地をヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上して、イタリア統一を優先させることにします。

この決断が、イタリア統一を一気に現実のものへと近づけました。

イタリア王国の成立と統一の完成
支配領土で選挙をおこない、ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世が国王に即位して、イタリア王国が成立します。

ただし、王号は「2世」のままでした。これは新国家がサルデーニャ王国の延長線上にあることを示すためで、憲法もサルデーニャ憲法がそのまま使われました。「サルデーニャ王国の拡大版」ていう感じですね。
しかし、まだ統一できていない地域もあったので、イタリア王国は統一運動を継続していきます。
ドイツ=オーストリア戦争(普墺戦争)ではプロイセンを支援したことで、ヴェネツィアを獲得し、ドイツ=フランス戦争(普仏戦争)では、フランス軍がローマから撤退したことで、ローマを占領することに成功します。
こうして、イタリア王国は首都をローマに移転して、現在のイタリアの形に近づいて、イタリア統一が達成されることになりました。

ローマを失った当時の教皇ピウス9世は、イタリア政府の法律を「悪魔の産物」とまで批判して、ヴァチカンに閉じこもりました。 この“ローマ問題”が解決するのは1929年のラテラノ条約まで続いたそうです。


統一の三傑
このイタリア統一は決して1人の英雄によって達成されたわけではなく、
・理念を掲げたマッツィーニ
・行動で道を切り開いたガリバルディ
・国家戦略を描いたカヴール
という3人の役割が重なって初めて実現しました。

彼らは現在でも「イタリア統一の三傑」として尊敬されています。

統一後の課題
こうしてイタリア統一を達成しましたが、実はまだ課題が山積みだったんです。
まず、領土の問題がありました。
トリエステや南チロルなど、イタリア語を話す人が多く住む地域では、依然としてオーストリア領のままになっていました。
これらの地域は「未回収のイタリア」と呼ばれて、イタリアに取り戻すことが国民の悲願になり、第一次世界大戦に参戦する大きな理由の一つにもなりました。

さらに、国内には深刻な南北格差がありました。
北部は工業化が進み、鉄道や工場が整備されていましたが、南部は農村が中心で、封建的な社会構造が色濃く残っていました。
統一国家として同じ方向を向くには、経済力の差があまりにも大きかったんです。
政治面では、教皇との関係が断絶したままになっていました。
ローマを占領してイタリア王国の首都としたことで、教皇は「ヴァチカンに閉じ込められた」と主張して、長期間に渡ってイタリア政府と対立することになりました。
そして、文化面でも課題がありました。
イタリア語と一口に言っても、地域ごとに方言の差が激しく、生活文化もバラバラでした。
なので、「イタリア人」という共通意識があまりなく、それができるまでには長い時間が必要になりました。

まとめ
MQ:イタリア統一はどんな条件のもとで実現したのか?
A:サルデーニャ王国の近代化と外交力を基盤に、ガリバルディの軍事行動やマッツィーニの理念、さらに国際情勢の変化が重なったことで、イタリア統一が実現した。

今回はこのような内容でした。

「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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