この記事で使用した教材は「note(グシャケン|note)」にてダウンロード可能です。PowerPointスライドやWordプリントのダウンロードは記事の最後に貼ってあるURLから!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!
はじめに

前回はこのような内容でした。


今回は、ドイツ帝国のビスマルクのよる内政についてみていきます。
MQ:ドイツ統一後に、ビスマルクはどのようにして国民統合を進めていったのか?
ドイツ帝国の構造
帝国の誕生
ドイツでは、ドイツ=フランス戦争(普仏戦争)のさなか、フランスの象徴ともいえるヴェルサイユ宮殿の「鏡の間」で、プロイセン王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝に就任しました。
こうして成立したのがドイツ帝国でしたね。
ドイツ帝国はプロイセンを中心にドイツの諸邦が連合する連邦国家でした。
皇帝はプロイセン国王が兼ねることになり、各領邦の政治制度はそれまでのものが維持されることになりました。

日本の江戸幕府と諸藩との関係に似ていますね。

政治構造
しかし、帝国議会の選挙は、当時としては画期的な男性普通選挙によっておこなわれ、自由主義的改革がおこなわれました。

1800年代前半から、プロイセンでは自由主義勢力が議会の多数派を占めてしましたからね。
とはいえ、帝国議会の権限は大きく制限されていました。
帝国議会は選挙で選ばれた国民の代表でありながら、政府を直接コントロールする権限をほとんど持っていなかったんです。
予算など一部では発言できましたが、政府の方針を左右するほどの力はありませんでした。
行政のリーダーである宰相(No.2)は、議会ではなく皇帝からの信頼で役職が保障されていたので、政策の決定も皇帝の意思が強く反映されることになりました。

これもプロイセンの伝統や、ビスマルクの鉄血政策によって、軍事や外交を中心とした政策を安定させるには、議会ではなく、皇帝と宰相による強力な指導体制が望ましいと考えられたからでした。
そして、このドイツ帝国の体制の中心にいたのが、宰相になったビスマルクでした。

連邦国家とはいえど、実際にはプロイセンの優越が圧倒的でした。
・人口・面積の約5分の3をプロイセンが占める
・プロイセン国王がそのままドイツ皇帝
・議会ではプロイセンが政策決定の票数を保持
・帝国議会は権限が弱く、政府は議会に責任を負わない
以上のことから、ドイツ帝国は連邦制を採りながらも、実際は「プロイセン主導の帝国」だったんです。

では、今までの内容を踏まえて、男性普通選挙という近代国家のシステムを導入しながら、議会の権限を制限したのかについて考えてみましょう。

SQ:なぜドイツ帝国は、男性普通選挙という先進的制度を導入しながら、議会の権限を弱くしたのか?
ドイツ帝国は、普仏戦争後に「国民国家」として統一したことを海外にアピールする必要がありました。
なので、男性普通選挙という先進的な制度を導入して、国民の代表を選ぶ仕組みを整えたんです。
しかし同時に、プロイセン王権による強力な国家運営を維持することを最優先に考えていました。

自由主義勢力が議会で力を持つと、軍事・外交の統制が乱れると考えられていたためでした。
なのでその結果、
・選挙は近代国家の象徴として採用
・議会の権限は最小限に抑え、実権は皇帝と宰相が保持
という「近代と伝統の二重構造」が生まれることになったんです。
国民国家としての正統性を示すために男性普通選挙を導入したが、プロイセン王権による強力な統治を維持するため、議会の権限を意図的に弱くした。自由主義勢力への警戒から、政策決定は皇帝と宰相が握り続ける体制が保たれた。

文化闘争
ドイツ帝国は、統一されたとはいえ、国内にはさまざなな課題が残っていました。
ビスマルクは、政府と対立する勢力を「帝国の統合を妨げる存在」とみなして、国民の多数派を団結させるために、あえて「敵」を設定する「否定的統合」という方法をとりました。
ドイツ帝国が成立した後、ビスマルクは国内統合を進める際に、まずカトリック教会の影響力を弱めようとしました。
カトリック教会は教皇と結びついていて、プロイセン主導の統一に批判的な姿勢を見せることが多かったからです。
とくに南ドイツのバイエルンなどではカトリック勢力が強く、北ドイツのプロテスタント中心の国家づくりに抵抗する動きもありました。
こうした状況で、ビスマルクは教育や婚姻・戸籍の管理を教会から国家(役所)に移すことで、カトリック教会を政治から切り離そうとしました。
これはビスマルクが「文化のための闘争」と言ったことから、文化闘争と呼ばれました。
ビスマルクは次々とカトリック教会の権限を制限する法律を制定していきます。
・出生・結婚・死亡の届け出を教会ではなく役所で行う制度
・聖職者の教育や任命を国家の監督下に置く仕組み

ちなみに、ビスマルクはこの闘争を、かつて神聖ローマ皇帝が教皇に屈した「カノッサの屈辱」になぞって、「断じてカノッサには行かぬ」と演説しました。

しかし、政府の弾圧が強まるほど、カトリック教徒の結束はむしろ強くなっていき、議会ではカトリック政党である中央党が勢力を拡大していく事態になっていきました。
なので、弾圧が難しくなったビスマルクは、カトリック勢力との対立を次第に縮小していき、国内統合のために中央党とも協力するようになっていきました。

国内の秩序を優先したんです。成立間もない国でしたから、海外にスキを見せるわけにはいかなかったんです。
ビスマルクは次第に「カトリック教会の反発」から「社会主義運動の台頭」へと課題を移していき、ドイツの社会主義を弾圧する政策へと舵を切っていくことになりました。

社会主義者鎮圧法
そして、次に標的となったのが社会主義運動です。
産業革命によって、工業化が進んだドイツでは都市に多くの労働者が集まるようになり、マルクス主義の影響を受けた社会主義運動が勢いを増していました。
そして社会主義者たちは派閥を超えて、世界初の労働者政党である、ドイツ社会主義労働者党(のちのドイツ社会民主党)を結成します。
この動きは、ビスマルクの支持基盤だったユンカー(地主貴族)や資本家層にとって大きな脅威になりました。

そのタイミングで、皇帝ヴィルヘルム1世が狙撃される事件が起こります。
ビスマルクはこの事件を巧みに利用して、社会主義者の犯行であるかのように宣伝して、国民の不安を煽り、社会主義を弾圧する法律を制定しようとします。
これによって制定されたのが、社会主義者鎮圧法でした。
この法律は、社会主義運動をほぼ完全に封じ込める強力なものでした。
・集会・結社の禁止
・出版物の禁止
・デモの禁止
・警察による活動家の追放権限
この法律によってドイツ社会主義労働者党は非合法になってしまい、活動は地下へ潜らざるを得なくなってしまいました。

皇帝狙撃事件は社会主義者の犯行ではなかったのに、ビスマルクは「社会主義者の危険性」を強調して、議会に圧力をかけて法案を通しました。 現代の政治でも「危機を利用して強権的な政策を進める」例がありますが、その典型ですね。

社会保険制度の導入
アメとムチ政策
しかし、ビスマルクは単なる弾圧だけでは国民の不満は解消できないと理解していました。
そこで、社会主義者鎮圧法と同じ時期に、労働者の生活を支えるための社会保険制度を導入しました。
災害保険や疾病保険、養老保険(老齢年金の原型)など、世界に先駆けて社会保障制度を整備していきました。

イギリスが20年もあとに、これを真似て国民保険を作りました。ドイツがどれだけ先進的だったのか、わかりますね。
ビスマルクは、こうして社会主義者鎮圧法で労働者の社会主義運動を徹底的に押さえつける一方で、労働者の社会保障政策を推し進める「アメとムチ政策」によって、民衆の不満を解消して支持を得ようとしました。

ちなみに、ビスマルクが社会保険を導入する際に、「社会主義者は労働者に未来を約束するが、私は労働者に“現在の利益”を与える」と言ったそうですよ。

自由貿易から保護主義へ
ドイツでは1870年代からの「大不況」をきっかけに、経済が低成長期に入りました。
ビスマルクは国内産業を守るために、自由貿易主義から保護貿易主義へと政策を転換します。
この保護貿易によって、鉄鋼や重化学工業などの国内産業が守られて、後のドイツ産業の強さにつながっていくことになります。
一方で、農業も保護するために穀物関税も導入して、資本家だけでなく、支持基盤であるユンカー(地主貴族)からの支持も得られる政策を実施しました。
否定的統合
SQ:ビスマルクはなぜ「敵」を設定することで国民統合を進めたのか?

ではこれまでのビスマルクの内政をみて、なぜあえて「敵」を設定して国をまとめようとしたんでしょうか?
ビスマルクは、カトリック教会や社会主義者など、ドイツ帝国の安定を脅かしかねない勢力を「ドイツ国民の敵」と設定しました。
そして、これらの“敵”に対抗ために世論として結集させることで、国民の一体感を高めようとしたんです。
このように、共通の敵を設定し、それを否定することで国民を統合する方法を「否定的統合」と呼び、ドイツ帝国を国民国家として確立するために使われました。
この方法は短期的には効果がありましたが、長期的には国内の対立を深める結果にもつながりました。

それでも、統一直後でさまざまな課題を抱えるドイツ帝国にとって、ビスマルクの政治は「強力な統合者」として必要とされたんです。
統一直後で利害も価値観も様々な帝国をまとめるため、共通の敵を設定して多数派を結集する「否定的統合」が、統合できる手段だと判断されたため。

まとめ
MQ:ドイツ統一後に、ビスマルクはどのようにして国民統合を進めていったのか?
A:統一直後の多様で不安定なドイツ帝国をまとめるために、「否定的統合」を軸に、弾圧(ムチ)と社会政策(アメ)を組み合わせて国民統合を進めた。

今回はこのような内容でした。

次回は、ドイツ帝国とビスマルクの2回目として「外交」をみていきます。国民国家をまとめるために、外交ではどんな政策をおこなったんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
PowerPointスライドは他の記事も合わせて「note」にてダウンロードし放題!ダウンロードは下のURLから!

このブログ「グシャの世界史探究授業」に関連するリンクを下にまとめました。気になるものがあれば、ぜひのぞいてみてくださいね。
【世界史イラスト:イラスト集】
【YouTube:グシャの世界史探究授業 – YouTube】
【note:グシャの世界史探究授業 教材ダウンロード|グシャケン】
【X:グシャの世界史探究授業 (@s_w_history) / X】
【ポッドキャスト(Apple):[聞き流し]グシャの世界史探究授業 – ポッドキャスト – Apple Podcast】
【ポッドキャスト(Spotify):[聞き流し]グシャの世界史探究授業 | Podcast on Spotify】






コメント