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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回は列強新体制の3回目として、フランスの第二帝政から第三共和政への移り変わりをみていきます。なぜ第二帝政から第三共和政へ、政体を大きく変えることになったんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:なぜ第二帝政から第三共和政へ、政体を大きく変えることになったのか?
第二帝政(ボナパルティズム)
ボナパルティズム
フランスでは二月革命の混乱の後、国民投票で96%という圧倒的な支持を得て、ナポレオン3世が皇帝の座に就く第二帝政が始まりました。
ナポレオン3世の統治は、国民投票によって民主主義を正当化しつつ、強力な皇帝権力で統治する独特の政治スタイルとして、「ボナパルティズム」と呼ばれました。
これは、選挙や国民投票を通じて国民の意見を確認しつつ、実際の政治は皇帝が主導するという、民主主義と権威主義が融合した体制でした。
権威主義から自由主義へ
第二帝政は、実は前半と後半で性格が大きく違っていました。
前半の1850年代は、皇帝の権威を維持するために、言論統制や政治活動の制限をおこなう「権威主義的な統治」の時期でした。
しかし、後半の1860年代に入ると、イタリア統一運動をめぐってカトリック教会と対立したことをきっかけに、ナポレオン3世は都市のブルジョワや知識人などの自由主義勢力に接近していきました。
議会の権限を拡大しながら、政治活動を緩和するなど、徐々に自由化を進めていきました。

SQ:なぜイタリア統一運動でカトリック勢力と対立すると、自由主義勢力へ接近したのか?

では、なぜ自由主義勢力に接近していったんでしょうか?
当時、オーストリアを弱体化させるために、イタリア統一運動を支援していました。
しかし、ローマ教皇領の扱いをめぐって国内のカトリック勢力から強い反発を受けてしまいます。

これはイタリア諸都市は教皇領も併合しようとしていたからでした。
カトリック教会からの支援を失ったナポレオン3世は、政権の安定を維持するために新たな支持基盤を必要としたんです。
その結果、都市のブルジョワ階級や知識人を中心とする自由主義勢力に接近して、議会権限の拡大や言論の緩和などの自由化政策を進める方向へ舵を切ることになったというわけなんです。
イタリア統一支援をめぐってカトリック勢力の支持を失ったため、政権の安定を保つ新たな支持基盤として自由主義勢力に接近し、自由化政策へ転換した。

第二帝政の経済発展
産業改革
第二帝政期は、フランス経済が大きく飛躍した時代でもありました。
鉄道網は20年間で約5倍にも拡大していき、それを支えるための新しい銀行制度も整備されていきました。
しかし、フランスの工業力は産業革命が起きた後もまだまだ未熟だったので、長らくライバル関係だったイギリスと英仏通商条約を結んで自由貿易へと転換します。
これによって、イギリスから安価で高品質な機械や石炭を輸入して、国内産業の近代化を進めていきました。

工業力でイギリスに劣っていることを自覚して、利用としたんです。

パリ大改造
そして、この時代におこなわれた改革で代表的なのが「パリの大改造」です。

現在のパリの広い大通り、整然とした街区、上下水道の整備などは、この時代に作られたものなんです。

実は、この「パリ大改造」には“軍事的な狙い”もあったんです。
二月革命の時に、蜂起した民衆によって細い路地にバリケードが築かれ、軍が苦戦した経験から、反乱が起きても軍が迅速に展開できるように、広い直線道路が設計されたんです。

なので、この都市整備は「対革命運動」でもあったんです。都市計画と治安維持が密接に結びついていた点は、近代国家の特徴をよく示していますね。

パリ万国博覧会
ナポレオン3世は、帝政を安定させるために国民の支持と海外からの評価を必要としていました。
そのタイミングでロンドン万博が開催されて、イギリスの威信と成功を目の当たりにして、フランスでも同じように「産業の力」と「帝国の栄光」を示す場をつくろうと考えます。
こうして開催されたのが、2度にわたるパリでの万国博覧会でした。
●1855年パリ万博
第2回目となったパリ万国博覧会は、クリミア戦争の影響で準備が遅れてしまい、一部が未完成でしたが、イギリスのヴィクトリア女王夫妻が来てくれたことで、フランス皇帝としての地位を国際的に認めさせることに成功しました。

ちなみに、ナポレオン3世は展示内容に全然満足してしなかったそうです。でもこの万博をきっかけに、英仏通商条約が後に結ばれることになったんです。
●1867年パリ万博
1867年の万博では、中東・アジア・ラテンアメリカの国々も参加して、名実ともに「万国」博覧会となりました。
会場周辺ではボルドーのワインやドイツのビール、トルコのコーヒー、中国の茶などが人気を集め、世界の文化が一度に味わえる場となりました。
機械ギャラリーでは機関車や大砲、電信機、ミシンなど最新技術が実演されて、産業の進歩を強く印象づけました。

ドイツのクルップ製の巨砲が有名ですね。


ちなみに、日本の徳川幕府もフランスから招待されて参加し、使節団が覇権されました。維新の足音は聞こえる幕末で、あの渋沢栄一も使節団に参加していたんですよ。

積極外交
ナポレオン3世の外交での目標は、ナポレオン1世の敗北後に低下したフランスの国際的地位を回復することでした。
そのため、ナポレオン3世は周辺諸国に対して、積極的な外交・軍事行動を展開していきました。
クリミア戦争
クリミア戦争では、南下政策を企てるロシアに対抗して、オスマン帝国を支援して参戦しました。
そして、戦勝後の講和会議では、主導的役割を果たして、フランスは「ヨーロッパの調停者」としての地位を取り戻したかに見えました。
イタリア統一運動の支援
イタリア半島ではサルデーニャ王国がイタリア統一運動を掲げてオーストリアと戦っていました。
列強のオーストリアを弱体化させるために、ナポレオン3世はサルデーニャ王国を支援して参戦します。
このイタリア統一運動を支援したことで、フランスは見返りとしてニースやサヴォイアを手に入れます。
当時のフランスにとって、これは大きな外交的勝利として、“ナポレオンの名にふさわしい成果”として国内でも評価されました。
しかし、ここで出てきたのが、ローマ教皇領の扱いでした。
イタリア統一派は当然ながらローマ教皇領も併合しようと考えますが、これはカトリック教会にとっては絶対に譲れない問題となり、対立が起こります。
長年“教皇の守護者”を自任してきたフランスにとって、教皇を見捨てるような姿勢は取れません。
しかし同時に、外交上の問題でイタリア統一を支援しているのもフランス自身だったので、「教皇を守る」と言いながら「教皇領を狙う統一派も支援する」という、矛盾した立場に陥ってしまいます。
結果、国内のカトリック教会からの支持を失い、新たな自由主義勢力に接近して、自由主義改革をせざるを得なくなったというわけです。

アジア・アフリカへの進出
アロー戦争(第2次アヘン戦争)ではイギリスとともに清朝を攻撃して、インドシナ半島にも進出しました。
そして、フランスを再びヨーロッパの中心に押し戻すために、軍事力だけでなく、技術力、資本力、そして国際的な影響力を示す“象徴的な事業”が必要になります。
そこに現れたのが、外交官のレセップスという人物でした。

彼はスエズ運河を建設する構想を提案しました。
地中海と紅海をつなぐスエズ運河は、アジアへの航路を劇的に短縮することができて、世界の物流を一変させる可能性を秘めていました。
ナポレオン3世は、この計画を「フランスの未来を切り開く鍵」として強く支持するようになります。

そして、このスエズ運河建設はイギリスにとっては、とても敏感になる事業でした。
イギリスはインドを支配していたので、もしフランスがスエズ運河の主導権を握ってしまうと、インドへの最短ルートをフランスに奪われることになったんです。
そのためイギリスは、「運河は砂で埋まる」「技術的に不可能だ」といった理由を挙げて国際的に反対し、建設を妨害しようとしました。
ナポレオン3世はこれに対し、調査団を派遣して技術的な安全性を証明したり、運河会社を国際化して“フランスだけの利益ではない”とアピールしたりすることで、イギリスの反対を徐々に弱めていきました。
結果、この外交戦が、フランスがヨーロッパ政治の中心で存在感を示す絶好の舞台となりました。

メキシコ遠征の失敗
しかし、積極外交は次第に破綻の兆しを見せることになります。
メキシコが財政難から、外国債の利息支払い停止を宣言したのを口実に、ナポレオン3世はイギリス・スペインとともにメキシコへ出兵します。

この背景には、スエズ運河に刺激され中米にも影響力を広げたいのと、アメリカが南北戦争で動けないだろうと踏んでのことでした。
しかし、イギリスとスペインはメキシコの風土病や抵抗に苦しみ、すぐに撤退しますが、フランス軍だけは進撃を続け、首都メキシコ=シティを占領します。
そして、フランスが新たなメキシコ皇帝として担ぎ出したのが、オーストリア皇帝の弟だったマクシミリアンという人物でした。

彼は温厚で学問好き、とくに植物学への情熱は有名で、メキシコの植物研究に没頭していたと言われています。

こうして新皇帝が即位しますが、メキシコ民衆からはまったく支持してもらえませんでした。
メキシコ軍はゲリラ戦で徹底抗戦を続け、地方の多くがメキシコ軍の支配下であり続けました。
フランス軍が占領しているのは都市部だけで、皇帝マクシミリアンの権威は“紙の上だけ”のものだったんです。
そして、戦争が長引くにつれ、フランスの財政は圧迫されていきます。
しかも、南北戦争が終わるとアメリカが本格的にフランスの干渉を非難して、撤退を強く要求しました。

アメリカ大陸にヨーロッパの新王朝をつくることは、モンロー主義に真っ向から反するためでした。
こうした状況から、ナポレオン3世はついに撤退を決断し、フランス軍は完全撤退します。
しかし、マクシミリアンは皇帝の地位にしがみついて残ったため、メキシコ軍に捕らえられ、処刑されてしまいました。
こうして、メキシコ遠征はフランスにとって多大な犠牲と出費をもたらしたうえ、最終的には完全な失敗に終わってしまいました。


ここからナポレオン3世の権威が揺らいでいくことになります。
ドイツ=フランス戦争(普仏戦争)
メキシコ遠征の後、スペインで革命が起こり、王位が空位になる事件がおこります。
このとき、プロイセンの宰相ビスマルクは、プロイセン王家の分家にあたる人物をスペイン王に推すことに成功します。

しかし、プロイセンの勢力がスペインにまで及ぶと、フランスは両側から挟み撃ちにされる形になってしまうので、ナポレオン3世はこれを許しませんでした。
ナポレオン3世は強く反発し、プロイセン王に圧力をかけて、新国王を候補から辞退させることに成功します。
ところがフランス政府はそこで満足せず、「今後も二度とスペイン王位に介入しない」という圧力までかけました。
この過剰な要求が、ビスマルクにとって絶好の“仕掛けどころ”になります。

この圧力に対して、プロイセン王はフランスの要求を拒否します。
その内容を受け取ったビスマルクは、王の報告電報を意図的に短くして、挑発的な文面に編集して公表したんです。
・プロイセン側では「フランスが王を侮辱した」
・フランス側では「プロイセン王がフランスを突き放した」
という印象が広まり、両国の世論は一気に開戦へと傾いていきました。
こうしてビスマルクの思惑どおり、ナポレオン3世はプロイセンに宣戦布告することになり、ドイツ=フランス戦争(普仏戦争)が始まりました。

プロイセン=フランス戦争ともいいますね。
戦争が始まると、ドイツ側はプロイセンだけでなく他のドイツ諸国も参戦し、「全ドイツ vs フランス」という構図になります。

軍事力の差は、ドイツ側が倍の兵力と最新兵器を持っていたことから歴然でした。
ドイツ軍が優位のなか、フランス軍は包囲されてしまい、ナポレオン3世自身が降伏して捕虜となってしまいます。

近代ヨーロッパで、国家元首が捕虜になるという事態は前代未聞でした。
こうして、フランス皇帝が捕虜になったことでフランス軍は降伏することになり、第二帝政は崩壊することになりました。

パリ=コミューンと第三共和政
パリ=コミューン
普仏戦争で敗北して、捕虜になった皇帝が退位して第二帝政が崩壊した後、パリでは臨時国防政府が成立しました。
一方、勝利したプロイセン軍はヴェルサイユ宮殿に入って、ドイツ帝国の皇帝戴冠式をおこないます。

フランス人からしたら屈辱的ですよね。
講和交渉を進めた臨時政権は、プロイセンに賠償金の支払いとアルザス・ロレーヌを割譲することを受け入れます。

アルザス・ロレーヌはウェストファリア条約でオーストリアから獲得した、鉄鉱石と石炭が豊富な土地でしたね。
これに強く反発したのが、戦争に耐え続けたパリ市民、とくに労働者たちでした。
講和後、臨時政府はパリの国民軍(市民兵)の武装解除を進めようとします。
これに対して、パリ市民は蜂起して、臨時政府が逃亡したことで、革命派市民がパリの実権を掌握します。
その後、選挙によって議員が選出されて、約20万人の市民が見守る中で、世界初の労働者政権であるパリ=コミューンの成立が宣言されました。
コミューン・・・フランス語で「自治体」、「共同体」の意味

赤旗が掲げられた市庁舎前の光景は、フランス革命以来の革命が再び息を吹き返した瞬間でした。

パリ=コミューンは「労働者が自らの都市を自らの手で運営する」という理念を掲げましたが、内部に大きな矛盾を抱えていたんです。
急進派や無政府主義者、社会主義者など、多様な思想グループが混在していたので、統一した方針を打ち出すことが難しかったんです。
さらに、地方の農村では保守的な空気の中で連携が広がっていかず、パリは事実上孤立してしまいました。

国全体を動かすだけの支持基盤を持てなかったことが、コミューンの最大の弱点でした。
コミューンがまとまらない間に、態勢を整えた臨時政権は、パリへの攻撃を開始します。
臨時政府軍はついにパリへ突入して、コミューン軍との市街戦が始まりました。

この市街戦の「血の一週間」と呼ばれて、約2〜3万人が犠牲になったといわれています。
最終的に、コミューン軍は徹底抗戦の末に全滅してしまい、その後も弾圧の末、約4万人が逮捕され、死刑・流刑・強制労働などの処罰を受けて、パリ=コミューンは崩壊することになりました。

画家のクールベもここで処罰されていたんですよ。


第三共和政の成立
コミューン鎮圧後、フランスでは王党派や共和派が激しく対立して、政治の方向性がなかなか定まらない状況が続きました。
しかし、最終的に共和派が勢いを取り戻して、政権を獲得して第三共和政が成立しました。
1880年代には三色旗と「ラ=マルセイエーズ」が国旗・国歌として定められ、フランス革命を原点とする国民統合が進んでいくことになりました。

まとめ
MQ:なぜ第二帝政から第三共和政へ、政体を大きく変えることになったのか?
A:第二帝政は、メキシコ遠征の失敗や普仏戦争での敗北によって皇帝が捕虜となり、帝政そのものが崩壊した。戦後の混乱の中で王党派と共和派が対立したが、最終的に共和派が主導権を握り、フランス革命を原点とする第三共和政が成立したため、政体が大きく変わった。

今回はこのような内容でした。

次回は、イタリアの統一についてみてきます。イタリアの国民国家成立にはどんな特徴があったんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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