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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回は「ドイツ帝国とビスマルク」の2回目として、「外交」についてみていきます。ドイツ統一後、ビスマルクはどのようにして、ヨーロッパの安定を維持したんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:ドイツ統一後、ビスマルクはどのようにしてヨーロッパの安定を維持したのか?
ビスマルク体制
ビスマルク体制とは?
ドイツ帝国の誕生は、ヨーロッパに突如として、人口4,100万人の巨大国家が出現することになりました。
隣国のフランスは普仏戦争の敗戦で深い屈辱を与えられていたので、

ドイツに報復を!
という強い敵意を燃やしていました。
イギリスもまた、ヨーロッパ大陸に新しい大国が登場したことに警戒を強めました。
この緊張の中で、宰相ビスマルクが掲げた方針が、

ドイツは現状に満足している。領土拡張の意思はない。
というメッセージを繰り返し発信して、周辺国の不安を鎮めることでした。

ドイツがこれ以上動かなければ、フランスの復讐心も、イギリスの警戒心も次第に弱まるはずだと考えたんです。
しかし、言葉だけでフランスの報復心が消えるほど、国際政治は単純ではありませんでした。
そこでビスマルクは、フランスが再びドイツに戦争を仕掛けられないように、周辺国との関係を巧みに操作して、複雑な同盟網を築こうとしました。
これが後に「ビスマルク体制」と呼ばれる国際秩序になります。

当時の国際情勢
ビスマルク外交の中心にあったのは、フランスの孤立化でした。
フランスが他国と手を結んで、ドイツ包囲網を作ることだけは絶対に避けなければいけなかったんです。
そのため、ビスマルクは各国との関係を細かく整理していきました。
●フランス
普仏戦争の敗北による復讐心が最大の脅威。
フランスが再び大国化し、ナポレオン時代のような状況が戻ることを最も警戒。
●ロシア
プロイセン時代から関係が深く、背後の脅威を避けるためにも友好関係が不可欠。
何より「ロシアとフランスが手を結ぶ」ことは絶対に阻止すべき。
●オーストリア
普墺戦争で戦った相手ではあるが、同じドイツ系民族という親近感があり、バルカン問題でロシアと対立していたため、ドイツにとって調整しやすい相手。
●イギリス
経済上の競争相手だが相互依存も強く、この時期はまだ植民地で衝突する段階ではなかった。
イギリスを敵に回さないことが重要。
バルカン半島ではオーストリアとロシアが対立
「未回収のイタリア」をめぐりオーストリアとイタリアが対立
こうした複雑な対立関係を利用しながら、ビスマルクはフランスに味方ができないように、絶妙なバランスを保ち続けるようにしました。

三帝同盟
ビスマルクが最初の大きな外交成果として成立させたのが、ドイツ・オーストリア・ロシアの三国による三帝同盟でした。
これは三国の皇帝が友好関係を維持して、ヨーロッパの秩序を安定させるための同盟でした。
ビスマルクが一番恐れていたのは、「フランスとロシアが同盟すること」でしたよね。
もしそうなれば、ドイツは東西から挟撃されることになり、国家存亡の危機に陥ります。
そのためビスマルクは、まずロシアとの関係を安定させて、さらにオーストリアも巻き込むことでフランスを孤立させる包囲網を築こうとしたんです。

内容は次のようなものでした。
・バルカン半島の国境線を維持し、問題は平和的に解決する
・同盟国以外から攻撃を受けた場合は協力して対処する
・国内の革命運動や自由主義・共和政思想の拡大を防ぐ
つまり、三国が共通して「君主制を守りたい」という考えや、第三共和政のフランスから自由主義が東方へ広がることを防ぐという目的で同盟が結成されました。
しかし、この三帝同盟は一見すると安定した同盟に見えますが、実は大きな弱点を抱えていました。
それがロシアとオーストリアのバルカン半島をめぐる対立です。
両国はともにバルカンへの進出を望んでいたことから、衝突を繰り返していました。
ビスマルクは両国を同盟でまとめることで対立を抑えようとしましたが、、三帝同盟の内部に常に火種として残り続けることになりました。

ロシア=トルコ戦争(露土戦争)とバルカン危機
ロシア=トルコ戦争(露土戦争)
その対立の原因になっていたバルカン半島は、当時、オスマン帝国の支配下にありました。
そして、バルカン半島のボスニア=ヘルツェゴヴィナという地域で農民反乱が起こります。

ムスリム地主による重い負担に耐えられなくなったキリスト教徒の農民が起こした反乱でした。
ブルガリアでも同じような反乱が起こり、周辺のスラヴ系国家も支援に乗り出します。
そこにロシアが「スラヴ系民族の保護者」として、これらの反乱を後押ししてきました。

クリミア戦争後にいったん停止していた南下政策を再び進める好機だと判断したからでした。
一方、オスマン帝国は武力で反乱を鎮圧したことで、ロシアとの対立が激しくなっていきました。
そうして勃発したのがロシア=トルコ戦争(露土戦争)でした。
ロシア軍は優勢に戦い、オスマン帝国首都のイスタンブル近郊まで迫ります。
オスマン帝国は講和をする羽目になり、サン=ステファノ条約が締結されました。
この条約によって、ブルガリアは広大な自治国として事実上ロシアの保護下に置かれて、ロシアはバルカン半島に大きな足がかりを得ることになりました。

ベルリン会議
しかし、ここで黙っていなかったのがオーストリアとイギリスです。
オーストリアは、ロシアがバルカンで勢力を拡大すれば、自国の南方政策が阻まれると考えていました。
イギリスは、ロシアが東地中海や西アジアへ進出することでインド経営が脅かされるのではないかと強く警戒します。
この両国が「ロシアのバルカン支配はヨーロッパの勢力均衡を崩す」と主張したことで、ヨーロッパは再び戦争の危機に直面してしまいます。
そして、このとき動いたのが、ドイツ帝国の宰相ビスマルクでした。
彼は「ヨーロッパの秩序の安定こそドイツに安定をもたらす」と考えていたので、バルカン問題がドイツに直接の利益がないにもかかわらず、調停に乗り出したんです。
こうして開催されたのがベルリン会議でした。


ベルリン会議の際、ビスマルクは各国代表に向かって「私はヨーロッパの誠実な仲介者にすぎない」と語ったそうですよ。
ビスマルクによる調停で、ベルリン会議では、オスマン帝国の領土の一部をロシア・オーストリア・イギリスの三国に一定に分配して、互いの不満を抑えるという方法が採られました。

ビスマルクの言葉を借りれば、「トルコを犠牲にしてヨーロッパの平和を維持する」という方針です。
結果、ベルリン条約が締結されて、サン=ステファノ条約は大幅に修正されることになりました。
ブルガリアは領土を縮小されて、オスマン帝国内の自治国にとどまり、ロシアの影響力が抑えられる結果になりました。
これに対してロシアは成果が削られたことに強い不満を抱いて、ドイツに対して敵対心を抱くようになります。
ロシアは南下政策を阻止されてしまい、以後は中央アジア・東アジア方面へ進出していくことになりました。

この感情は後にバルカン問題の火種として残ることになり、20世紀に入ると再び表面化して、第一次世界大戦への要因の一つとなっていきました。

SQ:ビスマルクはなぜ「仲介者」として振る舞うことで、ドイツの安全を確保できると考えたのか?
ロシアのバルカン半島進出に対して、オーストリアとイギリスが強く反発して戦争の危機が高まりました。
ドイツは介入しても直接の利益が無いにもかかわらず、列強同士の戦争が起これば、巻き込まれる危険がありました。
そこでビスマルクはどの国にも肩入れせずに、誠実な仲介者として対立を調停して、勢力均衡を保つことでドイツが敵を作らない状態を維持しようとしました。

要は、ヨーロッパの安定こそがドイツの安全につながるというのが、ビスマルクの戦略だったんです。
列強の対立が戦争に発展すればドイツが巻き込まれるため、ビスマルクは勢力均衡を維持することが最も確実な安全保障だと考え、公平な仲介者として調停に動いた。
三国同盟
先ほど説明したベルリン会議によって、ロシアとオーストリアの対立は一時的に沈静化しました。
しかし、バルカン問題での対立が解消されたわけではなく、両国の関係は依然として不安定でした。
フランスを警戒するドイツにとって、背後を固めるためにはロシアとオーストリアとの協調が不可欠でした。
ですが、もともとあった三帝同盟は、露土戦争後のバルカン問題でロシアとオーストリアの対立が再燃してしまい、ロシアが三帝同盟から離脱してしまいます。
この危機を受けて、ビスマルクはドイツ=オーストリア同盟(独墺同盟)を締結します。
これは三帝同盟よりも強固な軍事同盟で、両国はフランスとロシアに備える体制を整えました。
その頃、フランスはチュニジアへ進出して、保護国化を強行します。
地中海を挟んでチュニジアと向かい合うイタリアは、このフランスの行動に強い危機感を抱きました。
さらにイタリアは「未回収のイタリア」問題でオーストリアと対立していましたが、フランスの動きがあまりに直接的だったので、いったんその対立を棚上げして、オーストリアに接近します。
そして、ビスマルクはこのイタリアの不満を巧みに利用します。

イタリアよ、こちら側に来ればフランスを牽制できるよ。
こうして、イタリアをドイツ側へ引き寄せることに成功して、ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国・イタリア王国による三国同盟が成立することになりました。
この三国同盟では、フランスを仮想敵国に想定して、いざというときにお互いに軍事支援を行うことが約束されました。

再保障条約
しかし、1880年代半ばになると、ビスマルク体制は徐々に揺らぎ始めることになります。

理由は以下の二つです。
・ドイツ自身が植民地獲得に乗り出し、ヨーロッパ外での競争に参加したこと。
国内産業の発展によって、ドイツは「現状維持」だけでは満足できない国へと変わりつつありました。
・バルカン半島でロシアとオーストリアの対立が再燃したこと。
三帝同盟は事実上崩壊し、ロシアはドイツに不信感を抱き始めます。
このような状況でビスマルクが打った最後の手が、ロシアとの再保障条約でした。
これは「もしフランスがドイツを攻撃したら、ロシアは中立を守る」という内容で、フランスの孤立化を維持するための重要な条約でした。

ビスマルクは、ロシアを完全に敵に回すことだけは避けたかったんです。

SQ:ビスマルク体制はなぜ複雑な同盟網を必要としたのか。単純な二国同盟では何が不足していたのか?
ビスマルク体制の外交は、ドイツが抱える二つの外交の課題を同時に処理する必要がありました。
①西側(フランス)からの復讐の危険
フランスを孤立させ続けることが最優先でした。
②東側(ロシア・オーストリア)の対立による不安定化
バルカン問題で両国は衝突しやすく、どちらかがドイツに敵対する可能性が常にありました。
なので、ロシアとオーストリアの両方を同時に怒らせない“綱渡り外交”が必要でした。
これらの理由から、1つの同盟では両方を満たすことができませんでした。
そのため、ビスマルクは三帝同盟・三国同盟・再保障条約などを組み合わせて、複数の同盟を同時に管理する複雑な同盟網を作り上げたというわけなんです。
ドイツは「フランスの孤立化」と「ロシア・オーストリアの対立管理」という二つの課題を同時に処理する必要があったため、複数の国を別々の形で結びつける複雑な同盟網で脅威を抑えようとした。

まとめ
MQ:ドイツ統一後、ビスマルクはどのようにしてヨーロッパの安定を維持したのか?
A:ドイツ統一後、ビスマルクはフランスを孤立させつつ、ロシア・オーストリア・イギリスとの関係を巧みに調整して勢力均衡を保ち、列強間の衝突を防ぐ複雑な同盟網を築くことでヨーロッパの安定を維持した。

今回はこのような内容でした。

次回は、この時代の北欧地域の動向についてみていきます。この時期の北欧は安定していたんですが、なぜ安定していたんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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