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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回は列強の新体制としてロシアの改革についてみていきます。ロシアはクリミア戦争の敗戦をうけて、どのように近代化していったんでしょうか?
MQ:ロシアはクリミア戦争をきっかけに、どのように近代化していったのか?
クリミア戦争敗戦の衝撃
19世紀半ば、ヨーロッパ列強の勢力図は大きく揺れ動いていました。
その中で、ロシアは自分たちの「時代遅れ」を痛感することになりました。
それがクリミア戦争での敗戦です。
このクリミア戦争でロシア軍は果敢に立ち向かいましたが、戦争の実態は厳しいものでした。
イギリス・フランスが蒸気船を中心とした海軍だった一方、ロシアは依然として帆船中心だったんです。
武器も旧式で、国内には鉄道網もほとんど整備されていませんでした。
なので、補給がままならず、兵士たちは前線に物資が届かずに飢えに苦しむことになりました。

当時のロシア軍では「弾薬よりも靴が足りない」という状況が珍しくありませんでした。兵士が冬の前線で靴底に穴を開けながら戦っていたという記録も残っています。これでは近代戦に勝てるはずがありませんよね。
こうした理由による敗北は、ロシアの支配層に強烈な危機感を与えることになりました。
「ロシアは変わらなければならない」
この認識が、のちに「大改革」と呼ばれる一連の改革を生み出す原動力になっていくことになります。

アレクサンドル2世と農奴解放令
アレクサンドル2世
クリミア戦争の最中に即位したアレクサンドル2世は、ロシアの「時代遅れ」を率直に認めた皇帝でした。

彼は側近にこう語ったと伝えられています。
「農奴制は、上から廃止するほうが、下からの暴動によって廃止されるよりもよい。」
この言葉は、ロシアの改革が「上からの近代化」であったことを象徴しています。

農奴制と改革の失敗
当時の帝政ロシアは約6000万人もの人口を抱えていました。
そのうち、自由市民は1200万人ほどで、貴族は約100万人。
その中で農奴を所有するロシア人貴族は約9万人にすぎませんでしたが、彼らは多くの農奴を抱え、領地を耕作させていました。
農奴は約2250万人にものぼり、土地に縛り付けられて賦役や年貢を負担する、ロシアのツァーリズムを支える基盤になっていました。
19世紀に入ると、ヨーロッパで広がっていった自由主義や民族主義の影響を受けて、ロシアでも改革を求める声が高まっていきました。
青年将校が起こしたデカブリストの反乱はその象徴でしたが、皇帝権力を守ろうとする保守派によって弾圧されてしまい、改革は失敗に終わってしまいました。

農奴解放令
そのような状況が一変したのが、先ほど説明があったクリミア戦争でした。
この戦争によって、ロシア軍の装備・戦術は時代遅れであるとハッキリとしたことで、近代化は避けられない課題になりました。
そこで、戦争末期に急死したニコライ1世に代わって即位したアレクサンドル2世は、軍備の近代化を進めるために、兵士の供給源になる農村の改革が不可欠だと判断します。
農奴制のままでは徴兵制度も機能しないので、まず農村の構造そのものを変える必要があったんです。

農奴は領主が所有していたので、国家の都合で徴収するのが難しかったんです。
こうして実施されたのが農奴解放令と呼ばれる政策でした。
農奴解放令は以下のような内容でした。
・農奴の人格的自由が認められ、法的には自由民となった。
→ 農民が耕作していた土地は無償ではなく有償で分与され、地代の約16倍で取り引きされた。
→ 代金は国家がいったん立て替え、農民は49年の年賦で国家に返済する仕組みとなった。
→ 分与地は個人ではなく農村共同体(ミール)にまとめて与えられ、そこから農民に割り当てられた。
農村共同体(ミール)・・・村全体で土地を共有し、みんなで決めて暮らす仕組み
以上の内容から、この農奴解放令は、表向きは農民を自由にさせて負担を軽減させる政策でしたが、実態は国家が農民に多額の債務(借金)課すものだったんです。

しっかり国の財源が潤う仕組みになっていたんです。

なので、農村共同体(ミール)は村の人々を束ねて、納税や徴兵の単位として機能しました。
そのため、農民は領主から解放されたように見えて、実際には国家の直接支配下に組み込まれてしまったんです。

農村共同体(ミール)の会議では土地の再分配をめぐって議論が長引き、「村の会議は夜明けまで終わらない」と揶揄されるほどだったそうですよ。
こうして、農村共同体(ミール)は、強い拘束力によって、結局、農民の自由な移動や経済活動を妨げることになり、近代化の足かせになってしまいました。
なので農奴解放令は、すぐに自作農を生み出すものではなく、ロシアの「時代遅れ」を一気に克服することもできませんでした。
土地買い戻しの負担、農村共同体(ミール)による拘束、国家への債務(借金)など、問題が多く残ってしまったんです。

それでも、この改革がきっかけとなって1860年代以降、ようやくロシアでも産業革命が始まります。アレクサンドル2世の改革は不十分ではあったものの、ロシア近代化の前提をつくった点で大きな転換点となりました。

大改革の広がりとポーランド問題
大改革の広がり
農奴解放に続いて、アレクサンドル2世は地方自治制度や司法制度、教育制度の改革を進めました。
地方には自治体が設置されて、身分別選挙で農民の発言力は弱かったものの、医療・道路・教育など地域行政の中心として、重要な役割を果たしました。
都市にも市会が設置されて、都市の近代化が進んでいきました。
しかし、これらの改革はあくまで皇帝の権力を補う「上からの改革」だったので、皇帝の権力を制限するような立憲政治の導入などはおこなわれませんでした。

ポーランド問題と改革の後退
1860年代、ロシア帝国が抱えていた大きな課題の一つがポーランド支配でした。
ウィーン体制下で成立した「ポーランド立憲王国」は名目上は自治を持っていましたが、実際にはロシア皇帝が国王を兼任して、政治も軍事もロシアの強い影響下に置かれていました。
しかし、ロシアがクリミア戦争で敗北して、農奴解放令などの近代化が進むと、ポーランドの民族主義者(ナショナリスト)たちが、

ロシアも変わるなら、今こそ独立の好機だ!
と考えるようになります。
そしてついにポーランドで武装蜂起が起こり、反乱軍は農民に無償で土地を与える「農民解放令」を出しました。

これは農民層を味方につけるための政策で、地主には補償を約束するという大胆な内容でした。
これに対してロシア政府は、反乱軍よりも農民に有利な土地改革を発表して、農民層を分断するという作戦に出ます。
最終的に蜂起は鎮圧されてしまい、ポーランドは自治権を奪われて、ロシア語の強制などロシア化政策が一気に強化されていきました。
ポーランド王国という名称も廃止されてしまい、ポーランドは名実ともにロシア帝国に組み込まれることになりました。

そしてこのポーランド蜂起を経て、ロシアの大改革は後退していくことになります。
SQ:ロシアの改革はなぜ途中で後退したのか?

では、なぜロシアの改革はなぜ途中で後退していったんでしょうか?
まず、このポーランド蜂起が起きたことで、アレクサンドル2世はすごいショックをうけます。

改革を進めても、周辺民族はロシアに忠誠を示さない。
という思いが強くなり、改革に対して慎重になっていったんです。
ここで重要なのは、アレクサンドル2世の改革の目的が 「皇帝の権力を強化し、国家を近代化するための上からの改革」 だった点です。
なので、選挙権の拡大など、政治的な自由を広げる気はなかったのと、帝政を脅かす自由主義運動や民族運動に対しては強硬姿勢を貫いていました。
そのため、ポーランド蜂起のような事件が起こると、皇帝は、

改革が原因で秩序が乱れたのだ!
と判断して、改革そのものを後退させてしまったんです。
ポーランド蜂起によって皇帝が改革に不信感を抱くようになったため、皇帝権力を守るために政治的自由の拡大を避け、改革そのものを後退させていった。

インテリゲンツィアとナロードニキ
インテリゲンツィアの登場
19世紀のロシアは、工業化がまだ限定的で都市労働者も西ヨーロッパに比べると少数でした。
そのため、社会主義思想に影響されて、ロシアの「時代遅れ」を克服するために立ち上がったのは、都市の学生や知識人層(学者など)だったインテリゲンツィアと呼ばれる人々でした。

「インテリゲンツィア」とは単なる「インテリ(知識人)」ではなく、「社会改革に使命感を持つ知識人」という意味合いがあります。
インテリゲンツィアの人々は、ロシアの農村共同体(ミール)を社会の土台にすれば、資本主義を通らずにそのまま社会主義へ進めるはずだと考えていました。
そこで掲げられたのが、「ヴ=ナロード(人民の中へ)」というスローガンです。
都市の知識人が農村へ入り、農民を啓蒙しながら社会改革を進めようとしたんです。

ナロードニキの情熱と挫折
そのインテリゲンツィアの一部である青年男女が数千人規模で農村に入っていき、読み書きの指導や医療の手伝いなどを通して農民に革命思想を伝えようとしました。
そのような人々をナロードニキと呼びます。

「インテリゲンツィアの一部がナロードニキとして活動した」というイメージです。
しかし、現実の農村は彼らの理想とは大きく違っていました。
伝統的な考えが残る農村共同体(ミール)では、都会から来た若者たちは「怪しい連中」と見なされてしまい、時には「政府のスパイだ」と疑われて役所に突き出されることさえあったんです。
この運動は後に「狂った夏」と呼ばれるようになり、ナロードニキの活動はほとんだが挫折することになりました。

地方の農民にはそれだけ「異質な存在」に見えたんですね。
ちなみにロシアの巨匠ドフトエフスキーも若い頃に革命運動に関わり、逮捕・流刑を経験していたんですよ。

テロリズムの台頭とアレクサンドル2世の最期
ナロードニキによる啓蒙活動が失敗に終わってしまうと、その一部が過激化していき、無政府主義の影響を受けながら「行動による宣伝」を掲げるようになっていきます。
テロによって権力者を直接倒すべきだとするグループが現れて、政治家の暗殺を繰り返すようになっていきました。
そして、ついには皇帝アレクサンドル2世までもが爆弾テロによって暗殺されてしまったんです。
農奴解放など改革を進めた皇帝のテロによる死亡はロシアに大きな衝撃を与えました。
そして、その後を継いだアレクサンドル3世は専制政治を強化していくことになり、結果、改革は完全に後退することになりました。

SQ:ロシアの近代化は西ヨーロッパと何が違ったのか?
アレクサンドル2世の「大改革」は、確かにロシア社会を大きく変えました。
しかし、その改革は社会全体を巻き込むものではなく、鉄道や軍事など特定の分野に偏っていて、政治制度の近代化には踏み込みませんでした。

だって、目的なあくまで皇帝の権力強化ですから。
そのため、ロシアの近代化は「上からの改革」と「下からの革命」の間で揺れ続けることになります。

これが後のロシア革命へと繋がっていくことになります。
西ヨーロッパでは市民からの要求に支えられて政治改革がおこなわれましたが、ロシアでは国家(皇帝)が改革を主導したので、市民からの要求が抑えられてしまった点に大きな特徴がありました。
皇帝が国家強化を目的に鉄道・軍事など特定分野だけを上から改革し、市民の政治的要求を抑え込んだため、西ヨーロッパのような市民主導の政治改革が進まず、「上からの改革」と「下からの革命」の緊張が続いた点で大きく異なっていた。

まとめ
MQ:ロシアはクリミア戦争をきっかけに、どのように近代化していったのか?
A:クリミア戦争の敗北で後進性を痛感したロシアは、アレクサンドル2世のもとで農奴解放を中心とする「大改革」を進め、軍事・行政・司法などを上から近代化し、産業化への基盤を整えていった。

今回はこのような内容でした。

次回は、列強新体制の2回目として「イギリス編」についてみていきます。イギリスの改革にはどのような特徴があったんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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