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[13-2.1]クリミア戦争

13-2.列強の動揺とヨーロッパ再編成

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はじめに

前回はこのような内容でした。

グシャケン
グシャケン

今回はクリミア戦争についてです。なぜクリミア戦争は列強の協調体制を動揺させることになったんでしょうか?

それでは一緒にみていきましょう!

MQ:なぜクリミア戦争は列強の協調体制を動揺させて、各国が自由に動ける時代を生み出したのか?

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クリミア戦争とは何だったのか?

19世紀半ば、ヨーロッパではウィーン体制のもとで「列強協調」が続いていました。

しかし、1853年に始まったクリミア戦争は、この列強の協調体制を揺るがす大事件になりました。

ロシアがオスマン帝国に宣戦して、イギリスとフランスがオスマン側を支援して参戦。

さらにサルデーニャ王国まで加わり、戦争はヨーロッパ列強同士の全面衝突へと発展していきました。

グシャケン
グシャケン

ここでまず押さえておきたいのは、ロシアがなぜこの戦争に踏み切ったのかという点です。

クリミア戦争 列強協調体制
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開戦の背景

「ヨーロッパの憲兵」としてのロシア

1848年革命の際、ロシア皇帝だったニコライ1世は、革命を鎮圧するためにプロイセンを支援して、さらにハンガリーの革命運動の鎮圧には約10万の軍を派遣してオーストリアを救いました。

ニコライ1世

この活躍によって、ロシアは「ヨーロッパの憲兵」と呼ばれるほどの存在感を持つようになります。

そして、皇帝ニコライ1世はこう考えました。

ニコライ1世
ニコライ1世

オーストリアもプロイセンも、我々のバルカン進出(南下政策)に反対するはずがない。

しかし、この“自信”が、後の大きな誤算につながっていくことになります。

ニコライ1世 ヨーロッパの憲兵

聖地イェルサレム問題

19世紀半ば、聖地イェルサレムをめぐる宗教問題が、ヨーロッパの国際関係を一気に緊張させました。

当時、イェルサレムはオスマン帝国の支配下にありましたが、キリスト教の重要な聖地は、16世紀以来、オスマン帝国がフランスに与えたカピチュレーションによって、フランスが管理権を持っていました。

しかし、フランス革命でフランスが混乱すると、その隙を突いてロシアの支援を受けたギリシア正教徒が管理権を獲得して、フランス(カトリック教会)・ロシア(正教会)の間に対立が起きました。

クリミア戦争 聖地イェルサレム問題

フランス皇帝となったナポレオン3世は、支持基盤であるカトリック教会の期待に応えるために、聖地管理権の回復をオスマン帝国に強く要求して認めさせます。

そして、これに強く反発したのがロシア皇帝ニコライ1世でした。

ロシアは、約80年前に獲得した「オスマン帝国内のギリシア正教徒保護権」を口実に、オスマン帝国へ同盟を申し入れます。

しかし、オスマン帝国はこれを拒否したことで、両国の緊張は決定的なものになっていきました。

グシャケン
グシャケン

オスマン帝国からすれば、同盟を結ぶと、ロシアからの干渉が激しくなるのは目に見えていましたからね。

クリミア戦争 聖地管理問題

戦争の背景と「口実」

聖地管理権をめぐる問題は、大きく取り上げられましたが、実際にはこれらは戦争を正当化するための口実にすぎませんでした。

本当の原因は、弱体化していたオスマン帝国をめぐって、列強が勢力拡大を狙って対立したことにありました。

ロシア・・・不凍港を手に入れるために、黒海から地中海・中東へ進出しようとする南下政策を強めていた。

フランス・・・ナポレオン3世が国家の威信回復カトリック勢力の支持固めを狙った。

イギリス・・・ロシアの南下がインド航路を脅かすことを恐れ、ロシアの拡大を警戒した。

この三国の思惑がぶつかり合ったことで、19世紀前半のウィーン体制が保ってきた列強バランス大きく揺らぎ始めることになりました。

クリミア戦争 列強の思惑
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開戦と経過

戦線の拡大

先ほど説明した、オスマン帝国がロシアの要求を拒否したことによって、ロシアはオスマン帝国に宣戦布告します。

ロシア軍は進軍していき、オスマン帝国の領土の一部を占領してしまいます。

侵攻されたオスマン帝国も、イギリスとフランスの支援を期待して開戦に踏み切ることになり、ここからクリミア戦争が本格的に始まことになりました。

ロシア艦隊は黒海での海戦でオスマン艦隊を壊滅させることに成功します。

これに強い危機を感じたのがイギリスとフランスでした。

両国は、

イギリス・フランス
イギリス・フランス

ロシアが地中海へ進出し、勢力を拡大するのではないか・・・

と恐れたからです。

地中海イギリスにとってインド航路の要衝で、フランスにとっても中東政策の重要地域でした。

そのためイギリスとフランスは、ロシアが地中海まで南下してくるのを阻止するために、ロシアへ宣戦布告しました。

グシャケン
グシャケン

ちなみにこの時、イタリアのサルデーニャ王国も「英仏に恩を売れば、イタリア統一を助けてもらえる」 という理由で“したたか参戦”していたそうです。これが後のイタリア統一に影響してくることになります。

クリミア戦争の開戦

セヴァストーポリ要塞の攻防

戦争の主戦場となったのは、名前の通り、黒海北岸のクリミア半島と呼ばれる地域でした。

特に、ロシアの軍事拠点だったセヴァストーポリ要塞での攻防が最大のポイントになりました。

グシャケン
グシャケン

ここはロシア南下政策の重要拠点として築かれていました。

フランス軍30,000人、イギリス軍21,000人、オスマン帝国軍60,000人がクリミアに上陸して、要塞を守るロシア軍50,000人との激しい攻防戦が始まりました。

しかし、数で勝るイギリスフランス連合軍も決して順調ではありませんでした。

補給は困難を極め、戦闘は長期化していき、兵士たちは寒さや飢え、病気に苦しむことになってしまったからです。

グシャケン
グシャケン

ちなみに、この時に無謀な突撃命令で多くのイギリス兵を犠牲にしたカーディガン卿という人物が発明したのが、服の「カーディガン」でした。戦場で怪我をした兵士に着せる医療用として考案したのが最初だったそうですよ。

ロシアの孤立

一方、奮戦していたロシアにも衝撃的な事件が起こります。

それが、1848年革命で助けたはずのオーストリアが中立を宣言して、むしろロシアとの国境に軍を集めて圧力をかけてきたんです。

関係が良かったプロイセンからも支援を拒まれてしまい、ロシアは完全に孤立してしまうことになりました。

グシャケン
グシャケン

オーストリアやドイツは「ロシアによる従属化」を恐れていました。オーストリアはバルカン半島を先にロシアに支配されるのが嫌で、ドイツは国内の統一を最優先にしていたので、ロシアへの協力を拒否したんです。

ここで序盤の

ニコライ1世
ニコライ1世

オーストリアもプロイセンも、我々のバルカン進出に反対するはずがない。

という読みが外れてしまうことになり、ロシアは孤立して不利な状況になってしまいました。

こうした状況から、イギリス・フランス連合軍は苦しみながらもロシア軍を包囲し続けて、ついにセヴァストーポリ要塞を陥落させることに成功します。

この要塞の陥落によって、ロシアの敗北が決定的になりました

クリミア戦争 ロシアの孤立化 セヴァストーポリ要塞の陥落
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パリ条約の締結、終戦

南下政策の挫折

セヴァストーポリ要塞が陥落した翌年、パリ講和会議が開かれて、パリ条約が締結されます。

ロシアは以下の条件をのむことになりました。

・黒海での非武装化

・海峡での軍艦通航禁止

・オスマン帝国内のキリスト教徒を列強の共同保護下に

これらの条件をのんだことで、ロシアの南下政策は大きく挫折する結果になりました。

グシャケン
グシャケン

ちなみに、セヴァストーポリはソ連崩壊後はウクライナ領になりましたが、2014年にロシアがクリミア半島とともに併合してしまい、現在も国際対立の緊張が続いています。

クリミア戦争 パリ条約 ロシア南下政策の挫折
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戦後のヨーロッパ:列強協調の崩壊

このクリミア戦争は、列強の関係を根本から変えてしまい、列強協調(ウィーン体制)が機能しなくなっていくことになりました。

SQ:クリミア戦争後、なぜ列強協調(ウィーン体制)は機能しなくなったのか?

グシャケン
グシャケン

参戦国の戦後の様子をみていきましょう。

●ロシア

ロシアは敗戦のショックから国内改革(農奴解放など)に集中することになりました。

ロシア軍の装備や戦術がイギリス・フランスに比べて遅れていることが明らかになったので、新たに即位したアレクサンドル2世は近代化の必要性を痛感します。

アレクサンドル2世
グシャケン
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ちなみにニコライ1世は戦争中に急死してしまい、「敗戦の責任を感じて自ら命を絶った」という説まであるほどでした。

彼は農奴解放令を実施して、軍制改革を含む「上からの改革」を進めていき、ロシアの立て直しに取り組んでいきました。

●イギリス

イギリスにとっては、ロシアの南下政策を阻止したことでインド・アジア方面への支配ルートを維持できたという成果をあげました。

しかし、戦争終結の翌年にインド大反乱が起きてしまい、その対応に追われてしまことになりました。

●フランス

フランスは戦争に勝利したことで、しばらく失っていた国際的な威信を取り戻すことになりました。

ナポレオン没落以来のヨーロッパでの強国としての立場を回復して、ナポレオン3世の人気も高まり、皇帝はより強固な専制体制を築くことができるようになったことで、国内改革を推進していきました。

●オーストリアプロイセン

ドイツ地域ではオーストリアとプロイセンの対立が深まることになり、統一をめぐる主導権争いが激化していきました。

こうして各国が国内問題に集中せざるを得ない状況になり、国際問題での協調行動はほとんど不可能になっていきました。

結果、列強が強調するウィーン体制は機能しなくなっていったというわけなんです。

SQ:クリミア戦争後、なぜ列強協調(ウィーン体制)は機能しなくなったのか?

クリミア戦争後、列強はそれぞれ国内問題への対応に追われ、国際協調に割く余力を失ったため

クリミア戦争後、なぜ列強協調(ウィーン体制)は機能しなくなったのか?
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「自由に動ける時代」の到来

クリミア戦争によって、列強の協調が機能しなくなったことで、1850年代後半〜1870年代初めのヨーロッパでは、列強の干渉が弱まり、各国が自由に行動できる時代が訪れることになりました。

その結果、

・イタリア統一戦争

・プロイセン主導のドイツ統一戦争

・オーストリアの国内改革

・ロシアの大改革

など、国境線が動くような大きな変革が次々と起こることになりました。

グシャケン
グシャケン

クリミア戦争は、まさにウィーン体制の終わりを告げる転換点だったんです。

各国の大改革や戦争については次回以降にみていきましょう。

クリミア戦争 列強協調の崩壊 各国が自由に行動できる時代

●ナイチンゲールの活躍

クリミア戦争は、代看護の母ナイチンゲールが活躍した戦争としてもよく知られています。

ナイチンゲール

イギリス政府は戦地の医療環境が劣悪だったことから、ナイチンゲールを中心とする看護団を派遣します。

彼女が向かった軍病院では、負傷兵が不衛生な環境に置かれ、戦闘ではなく感染症によって命を落とす者が後を絶たない状況でした。

当時、イギリスではまだ看護婦という職業が社会的に確立していなくて、軍も従軍看護婦を正式には認めていませんでした。

ナイチンゲールはこういう状況でも、病院の清掃や換気、食事管理や下水設備の改善など、徹底した衛生面での改革を進めました。

その結果、軍病院の死亡率は大きく下がり、彼女の取り組みは高く評価されるようになります。

ナイチンゲールは看護を専門職として確立する道を切り開き、「近代看護の創始者」と呼ばれるようになりました。

また、彼女の活動はスイス人のデュナンにも影響を与え、後の国際赤十字”の設立にも貢献しました。

デュナン
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まとめ

MQ:なぜクリミア戦争は列強の協調体制を動揺させて、各国が自由に動ける時代を生み出したのか?

A:クリミア戦争によって保守三国の信頼関係が崩れ、列強が国内問題に追われて国際協調が不可能になったため、ウィーン体制が崩壊し、各国が自由に行動できる時代が生まれた。

グシャケン
グシャケン

今回はこのような内容でした。

次回からは、列強の新体制についてみていきます。列強各国の改革にはどのような特徴と違いがあったんでしょうか?

それでは次回もお楽しみに!

「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク

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グシャケン
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