[11-4.5]フランス絶対王政の確立

11-4.オランダ、イギリス、フランスの繁栄

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はじめに

グシャケン
グシャケン

前回はこのような内容でした。

グシャケン
グシャケン

今回はフランス絶対王政の1回目である「中央集権化」についてです。どのような過程て経て、「太陽王」と呼ばれたルイ14世はどのようにして、絶対王政を極めたんでしょうか?

それでは一緒にみていきましょう!

MQ:フランスが絶対王政を極めた経緯とは?

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ルイ13世とリシュリュー

フランスではヴァロワ朝が断絶した後、アンリ4世から始まるブルボン朝が統治をしていました。

そして、このブルボン朝フランスが最初に直面した課題が、ユグノー戦争によって混乱した社会を安定させて、内乱によって落ちた国王の権威を絶対的なものに戻すことでした。

そのような中で、父アンリ4世が暗殺されてしまい、わずか9歳で王位を継いだのがルイ13世でした。

ルイ13世

そしてもう一人、この幼い国王をそばで支えて、フランスの国力を大きくしたのが宰相リシュリューという人物です。

リシュリュー
ブルボン朝 ルイ13世 宰相リシュリュー

宰相リシュリューはまず、王権の脅威になる勢力を徹底的に抑え込む政策を打ち出していきます。

王権にとって脅威になるかもしれない貴族たちの軍隊を何かと理由を押し付けて解体させ、中央政府から官僚を送り込んで統治させる体制を採りました。

グシャケン
グシャケン

ちなみに全国三部会も各身分が対立して王権が制限されると考えて、ルイ13世の時を最後に開かれることなく、その後150年以上に渡って停止状態になってしまいました。

まさに中央集権化ですね。

そして、宗教面でもユグノー戦争以降、信仰の自由を獲得していたユグノー派たちへ弾圧をおこないます。

これは当時、ユグノー派が独自の軍隊や要塞を作っていて、まるで“国家の中の国家”のように振る舞っていたからなんです。

これを王権への脅威と感じたリシュリューは、ユグノー派の拠点を軍隊で包囲して、1年に及ぶ攻防戦の末に陥落させることに成功します。

これによって、ユグノー派はその後勢力を力を失っていき、「ただの宗派の1つ」にすぎない勢力になっていきました。

リシュリューの政策 貴族抑圧とユグノー派弾圧

国外に対しては、三十年戦争に介入にしていきました。

カトリック教国であるフランスは、プロテスタント側のスウェーデンやオランダと手を組んで、大陸で覇権を争っていた同じカトリック教国でハプスブルク家であるスペインや神聖ローマ帝国と戦うことになりました。

フランスはこの三十年戦争でプロテスタント側に軍資金を提供し、フランス軍自らも戦争に参戦するなど、スペイン・神聖ローマ帝国両方のハプスブルク家の勢力を抑え込むことに尽力しました。

グシャケン
グシャケン

リシュリューは宗教よりも国家の主権と勢力均衡を優先したんですね。

ちなみにルイ13世もリシュリューとともに戦場に赴いて、ハプスブルク軍と激しく戦ったそうですよ。

リシュリューの政策 三十年戦争への介入

このように、ルイ13世の時代は、宰相リシュリューという政治家によって支えられて、フランス絶対王政の基礎が築かれた時代だったんです。

グシャケン
グシャケン

リシュリューはその政治手腕から「フランスを服従させ、イタリアを恐怖させ、ドイツを戦々恐々たらしめ、スペインを苦悩させた」と評価されるほどの影響力を持っていたそうですよ。

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ルイ14世とマザラン

絶対王政の基礎を築いたリシュリューが1642年に病死してしまうと、その半年後にルイ13世も亡くなってしまいます。

そしてその後を継いだのが、後にフランス絶対王政の全盛期を築くことになるルイ14世でした。

ルイ14世

しかし、ルイ14世もわずか5歳で国王に即位することになったので、リシュリューの後を継いだマザランという人物が宰相として国王を支えることになりました。

マザラン
グシャケン
グシャケン

マザランはもともと教皇の外交官をしていたイタリア人でした。しかし、フランスを訪れた際に、リシュリューに才能を評価されてフランスに帰化したんです。

ちなみにヨーロッパ大航海時代に登場する「マゼラン」と音が似ているので、間違わないように注意してくださいね。

ルイ14世 宰相マザラン

まず宰相マザランは三十年戦争の講和会議に参加しました。

講和条約となったウェストファリア条約では、神聖ローマ帝国(オーストリア系ハプスブルク家)からアルザス地方の領有権を獲得します。

これによってフランスの領土が拡大し、後のルイ14世による領土拡張の先駆けとなっていきました。

これはマザランの外交上の大きな成果として、フランスの大国としての地位を一段と高めることにもなりました。

しかし、条約の最終段階でスペイン(ハプスブルグ家)調印を拒否してしまい、フランスとスペインの戦争は継続することになってしまいます。

戦費を調達するために、マザランは国内で増税せざるを得ず、それを実現させるために官僚地方派遣して中央集権化を推し進めていきました。

その政策に貴族たちの間では、

貴族
貴族

このままでは私たちの土地や地位が国王に吸収されてしまうぞ!

と、マザランによる中央集権化に不満を示すようになります。

この不満が爆発して、ウェストファリア条約が締結された1648年に、貴族たちによって勃発したのがフロンドの乱でした。

グシャケン
グシャケン

俸給や恩賞の少なさに激怒した貴族らによる暴動がことの発端だったそうです。

マザランの政策とフロンドの乱

この反乱は、貴族だけでなくパリ市民や農民までもが巻き込まれる全国的な反乱へと発展していきました。

同じころにイギリスではピューリタン革命が起きていたこともあり、影響を受けた反乱軍は、国王に全国三部会の開催などを求めてパリを占領するなど、勢いを増していきました。

この危機にマザランは一時国外への亡命を余儀なくされ、王家もパリを離れる事態になり、王権がピンチに陥ります。

しかし、反乱を起こした貴族たちの間で対立が起きるようになり、次第に国王軍が反乱軍を圧倒していきました。

最終的には、形勢を逆転したマザランが政権を回復させて反乱を完全に鎮圧してしまい、フロンドンの乱は終わりを告げることになりました。

このフロンドの乱が失敗に終わってことで、反乱に加担した貴族たちは没落していくことになり、王権はさらに貴族の権力を奪って中央集権化を進めていき、フランス絶対王政を確立させていくことになりました。

グシャケン
グシャケン

要は、王権に対抗できる勢力(貴族)が自滅しちゃったんです。そうなると自然と王権が強くなりますよね。

フロンドの乱

SQ:なぜフランスのフロンドの乱は絶対王政の強化につながり、イギリスのピューリタン革命は王政の打倒につながったのか?

グシャケン
グシャケン

ではなぜ、フランスでは絶対王政が強化されて、イギリスでは王政の打倒に成功することになったんでしょうか?

まず、フランスのフロンドの乱は、マザランによる中央集権化と重税政策に反発した貴族たちの反乱でしたよね。

確かにパリ市民や農民も巻き込まれましたが、主導したのはあくまで権力を守ろうとした貴族たちでした。

しかし、反乱は内部対立によって分裂してしまい、最終的にはマザランと国王側が勝利します。

これにより貴族の力は削がれ、王権による中央集権の必要性が国民に印象づけられる結果となったんです。

グシャケン
グシャケン

「また反乱おきると困るから、国王がまとめちゃってよ。」みたいな感じでしょうか。

つまり、フロンドの乱は「王に対抗できる勢力が自滅した」ことで、逆に王権が強化されることになったんです。

なぜフランスのフロンドの乱は絶対王政の強化につながり、イギリスのピューリタン革命は王政の打倒につながったのか?

逆に、イギリスのピューリタン革命は、議会と市民が連携して王権に挑んだ革命でした。

イギリスでは中世のマグナ=カルタ以降、王権と並ぶ政治権力として議会が存在していましたよね。

これに加えて、商工業の発展によって、大富豪である裕福市民層も現れて、政治に影響力を持ち始めていました。

グシャケン
グシャケン

ビックビジネスは、国の税収に直結しますからね。それを仕切っている市民を国も無視できないわけです。

これらの要素が重なったことで、議会派が国王チャールズ1世を処刑して、共和政を樹立するという本格的な革命へとつながっていったんです。

なぜフランスのフロンドの乱は絶対王政の強化につながり、イギリスのピューリタン革命は王政の打倒につながったのか?

このように、フロンドの乱は旧秩序を守ろうとする貴族の反発にすぎず、結果として王権が強化されることになりました。

一方でピューリタン革命は、新しい社会を求める市民と議会の力が結集したことで、王政を打倒する革命に発展していったといわけなんです。

SQ:なぜフランスのフロンドの乱は絶対王政の強化につながり、イギリスのピューリタン革命は王政の打倒につながったのか?

フランスのフロンドの乱は、既得権を守ろうと絶対王政が強化された。一方、イギリスのピューリタン革命は、議会と市民が連携し、王権に対抗する新しい政治勢力として台頭したことで、王政の打倒と共和政の樹立につながった。

なぜフランスのフロンドの乱は絶対王政の強化につながり、イギリスのピューリタン革命は王政の打倒につながったのか?
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フランス絶対王政の全盛期

ルイ14世の親政

フロンドの乱を鎮圧して、絶対王政を推し進めた宰相マザランは1661年にこの世を去ってしまいます。

4歳で即位したルイ14世はこの時すでに22歳になっていました。

ルイ14世はこのマザランの死を機に“親政”と呼ばれるものを宣言します。

この親政の宣言以後、約50年間にも渡ってフランスの政治すべてに国王ルイ14世が介入して、フランスを“自分だけ”の手で統治していくことになります。

グシャケン
グシャケン

この時にルイ14世が言った言葉が「朕(ちん)は国家なり」でした。

これを現代風に言い換えると、

ルイ14世
ルイ14世

国そのものが私だ。

みたいな感じでしょうか。実際に発言したかどうかはハッキリとはしてないそうですが、当時の絶対王政表すフレーズとして有名ですね。

ルイ14世 親政

このルイ14世の“親政”は、それまでのブルボン朝とは違い、国王を支えていた宰相(No.2)を置かなかったことが特徴でした。

幼少期から宰相マザランの活躍をそばで見ていた経験から、

ルイ14世
ルイ14世

国王よりも実質上の存在になっていた宰相は王権を脅かす存在だ。

と、感じていたみたいです。

そして、宰相を廃止した代わりに、実力で選んだ国王直属の官僚たちを側近として採用して、絶対王政を支える存在として、政治の実務を担わせていきました。。

この官僚制の強化によって貴族たちは政治から遠ざけられていき、ルイ14世による絶対王政は全盛期を迎えることになりました。

グシャケン
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フランス絶対王政を極めたルイ14世は“中心として世界を動かす存在”という意味で「太陽王」と呼ばれるようになりました。

太陽は1つしかなく替えがないので、神から与えられた「王権神授説」とも繋がって、より一層、絶対王政に説得力を持たせることになりました。

親政 フランス絶対王政の全盛期

ヴェルサイユ宮殿

このルイ14世による親政開始と同時に着工されたのがヴェルサイユ宮殿と呼ばれるものでした。

王宮がここに移されることになり、貴族や官僚が一堂に集まれる巨大な宮殿が完成しました。

グシャケン
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この建設費には約2000万リーブルかかったと言われていて、現在の価値で約20~30億ユーロ、日本円で約3000~4500億円かかったそうですよ。

この壮大なヴェルサイユ宮殿は各国の宮殿のモデルにもされて、フランス語が国際語になるなど、ヨーロッパ文化の中心地になっていきました。

グシャケン
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しかし、その後の度重なる戦争や宮殿の建設費、そこでの贅沢な生活は財政を圧迫していき、後のフランス革命へとつながっていくことになります。

ヴェルサイユ宮殿
ヴェルサイユ宮殿 左:全体像 右:鏡の間
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まとめ

MQ:フランスが絶対王政を極めた経緯とは?

A:ルイ13世と宰相リシュリューによる貴族やユグノーの抑圧、および中央集権化の推進に始まり、続くルイ14世と宰相マザランの時代にはフロンドの乱を鎮圧して王権を強化した。最終的にルイ14世は官僚制を基盤とする親政を行い、ヴェルサイユ宮殿を建設して貴族を統制することで、王の権威を絶対的なものとしたため。

グシャケン
グシャケン

今回はこのような内容でした。

次回はフランス絶対王政の2回目としてルイ14世の具体的な政策についてみていきます。ルイ14世は経済・宗教・外交の政策を通じてどのようにして絶対王政を維持・強化しようとしたんでしょうか?

それでは次回もお楽しみに!

「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク

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グシャケン
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