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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回はイギリスで起きたピューリタン革命についてです。この革命はイギリス社会にどんな新しい秩序をもたらしたんでしょうか?
MQ:ピューリタン革命はイギリス社会にどんな新秩序をもたらしたのか?
国王と議会の対立
ステュアート朝の成立
イギリス国教会の基盤や海洋国家への成長など、イギリス絶対王政の基礎を築いたエリザベス1世には跡継ぎがいなかったことから、彼女の死によってテューダー朝は血が途絶えることになりました。
なので、新たにスコットランドからヘンリ7世の子孫であるステュアート家のジェームズ1世が国王として迎えられることになります。

これによってイギリスはスコットランドと同君連合を組む、新たなステュアート朝として成立することになりました。

王権神授説
イギリスでは中世の時代にマグナ=カルタが成立して以降、国王の統治は議会で賛成が得られないとできない制度になっていました。

しかし、ジェームズ1世の後を継いだチャールズ1世は、“王権神授説”というものを唱えて、議会と対立することになります。

この王権神授説とは、「王の権力は神から直接授けられたものであり、人間によって制限されるべきではない。」という考え方に基づいたものでした。
この「人間」とは、おもに「議会」のことを指していて、国王チャールズ1世は、

議会に王の権利を制限されていて、やりたいことができない!
と感じていたので、議会による王権の制限に対して掲げたのが“王権神授説”だったんです。
このチャールズ1世による「王権神授説」によって、王の権威は神から授けられたものであると主張し、王の権力を制限しようとする議会の動きと真っ向から対立することになりました。

権利の請願と議会解散
こうした国王の専制的な主張に対して、議会も反撃に出ます。
専制・・・すべてを一人で決める政治のかたち。
チャールズ1世が三十年戦争に介入して、財政が厳しくなってくると、国王は法律を無視して国民に課税しようとします。

しかも、それに反対する人を理由もなく逮捕するという強硬策に出たんです。
この課税に対して議会は強く反対しましたが、国王に拒否されてしまい、政策が押し切られてしまいます。
この事態に議会は、不当な課税や理由なき逮捕・拘禁の禁止などを国王に求めた「権利の請願」を突き付けて、王権を制限しようとしました。

チャールズ1世は議会の怒りを鎮めるために、一度はこの「権利の請願」を認めますが、すぐに無視してしまい専制政治を強行してしまったんです。
ついには自分にとって邪魔な議会を解散してしまい、その後11年間、議会を開かずに国王による専制政治で統治することになりました。
SQ:なぜ11年間も議会を開かずに統治できたのか?

では、なぜ11年間も議会を開かずに統治することができたんでしょうか?
暴動とはクーデターとかは起きなかったんですかね?
これには複数の要因が絡み合っていたんです。
①代わりとなる財源の確保
②一時的な安定と「恐怖の均衡」
③宗教統制による秩序の維持

①代わりとなる財源の確保

まず、財源についてですが、法律を無視した課税が繰り返されると、さすがに国民による大規模な暴動がおきそうですよね。
まず、チャールズ1世は、暴動が起きないように、資金を調達する巧妙な手段をいくつも編み出したんです。
たとえば、もとからある税金(造船税)の徴収範囲を少し広げたり、王室領を売却したり、法律違反者の罰金を強化したり、さらには特権や独占権を販売するなどして、王国の財政をある程度支えることに成功したんです。
②一時的な安定と「恐怖の均衡」
議会解散中に大規模な反乱や暴動は起きなかった理由の一つとしては、イギリスでは王の権威がまだ強く、反抗すれば厳しい罰が与えられるという「恐怖」がみんなの中にあったということでした。
また、一部では、

議会で揉めて混乱するより、国王の統治の方がまだマシじゃね?
と、王の専制政治に対して、政策決定や問題への対応の速さに好感を持って支持していた議会勢力もいたので、11年もの専制を可能にしていたんです。

③宗教統制による秩序の維持
加えて、チャールズ1世はイギリス国教会の儀式や秩序を強化して、多宗派には厳しい政策を取りました。
特に、この宗教政策に反対したピューリタンなどに対しては、徹底的に弾圧してしまいました。
こうして、政治的にも宗教的にも「表面的な秩序」が保たれることになったんです。

議会に頼らずに財源を確保する工夫をし、王権への恐怖や一部の支持によって反乱を抑え、さらに宗教統制によって秩序を維持したため。
ピューリタン革命の勃発
11年という期間に渡って続いたチャールズ1世の独裁統治ですが、ついに限界が訪れることになります。
チャールズ1世は宗教政策として、プロテスタントの多いスコットランドに対しても、イギリス国教会を強制しようとしました。
これに対してスコットランドでは反発が起きて、反乱に発展してしまいます。
チャールズ1世は、このスコットランドでの反乱を鎮圧しようとしますが、戦費が足らなくなってしまったので、新しく課税するために、仕方なく11年ぶりに議会を招集することになったんです。
ところが、議会は国王の課税の要求に応じるどころか、これまでの専制政治を厳しく追及します。

まあ、11年も無視されていたら、そりゃ議会もここぞとばかりに責めますよね。(笑)
議会からの厳しく要求されてしまったチャールズ1世は耐えきれず、わずか3週間で議会を解散してしまいました。

この間にスコットランドの反乱軍は勢いを増していき、反乱を止められなくなってしまったので、チャールズ1世は反乱軍に対して、多額の賠償金を支払うことになってしまいました。
そうして、この賠償金をまかなうために、チャールズ1世はまた議会を開かざるを得なくなってしまったんです。
この議会では、王権を制限する法律が次々と作られて、チャールズ1世もこれには認めざるを得ませんでした。
しかし、議会の中でも王権を守ろうとする勢力がいたので、次第に意見が割れるようになっていき、議会内で揉めて対立が起きるようになります。

国王の特権や独占権の販売で甘い汁を吸っていた人たちもいたでしょうから。

この議会内の対立をチャンスと捉えたチャールズ1世は、自ら兵を率いて国王を支持する勢力と組んで、王権を制限しようとする議会勢力を排除しようとします。
こうして、国王側と王権を否定する議会側で戦闘が起きて、内戦が勃発し、ピューリタン革命が始まったんです。

革命の経過
この内戦では、議会を支持する「議会派」と、国王チャールズ1世を支持する「王党派」が対立して起こったものでした。
議会派にはピューリタンが多く、新興地主のジェントリ(郷神)や独立自営農民(ヨーマン)、手工業者が中心でした。
一方、王党派はイギリス国教会の聖職者や大商人・貴族などが中心となっていました。

要は、議会派は国王に冷遇されたり弾圧されたピューリタン、王党派は国王から優遇された特権階級に大きく分かれて争われたわけです。
この議会派にピューリタンが多かったことから「ピューリタン革命」と呼ばれているんです。

ちなみに、ジェントリはほぼ2つに分かれて分裂していて、王党派にも中間層もたくさんいたので、実際は階級ごとにきれいに対立したわけではなく複雑でした。

初めは、国王軍を含めた王党派が優勢に戦いを進めていきました。
王党派は実践経験の豊富な貴族が指揮をとっていたのに対し、軍事的には素人同然の地方民兵が中心だった議会派は苦戦を強いられてしまいます。
しかし、ここで議会派に救世主が現れます。
それがクロムウェルという人物でした。

クロムウェルはもともと無名の下級のジェントリ出身でしたが、熱心なピューリタンで仕事もできる人だったので、議会派の中で指導者として頭角を現していきました。
クロムウェルは劣勢を打ち破るために、独立自営農民(ヨーマン)を中心とする新たな軍隊を育成します。
ピューリタンとしての誇りと、規律を重んじる精鋭部隊である「鉄騎隊」が編制され、この「鉄騎隊」を中心とする新しい軍隊によって、内戦の情勢を一気に変えていくことになります。


このクロムウェルの鉄騎隊は、次々と王党派の軍隊を破っていき、情勢を逆転させることに成功します。

ちなみに、この時クロムウェルは王党派を支援していたアイルランドにも侵攻して征服し、カトリック教徒たちの土地や資産を没収することで、軍事費をまかなっていたそうです。虐殺もあったそうです・・・
その後もスコットランド軍とも連携して、議会派が大勝利をおさめたことで、王党派率いる国王チャールズ1世はついに議会派に降伏することになりました。
勝利した議会派のクロムウェルは、議会内の王党派を排除して、裁判を開いて国王チャールズ1世を処刑してしまい、ピューリタン革命は達成されることになったんです。

共和政
チャールズ1世を処刑したことで、イギリスに国王がいなくなってしまったので、ここにイギリス史上初の共和政が樹立されることになりました。

でも革命が起きて王政が倒されると、他のヨーロッパ諸国は王政を守ろうと干渉してきそうですよね。
なぜこの革命は各国から干渉されなかったんでしょうか?
SQ:なぜピューリタン革命は周辺諸国から干渉されなかったのか?

このヒントはピューリタン革命が1642~1649年の間で起こっていたということです。この期間はヨーロッパで何が起きていたんでしょうか?
実は、ピューリタン革命があった1640年代というのは、ヨーロッパでは激動が起きていた時期だったんです。
国王チャールズ1世が処刑されたという知らせは、当然ヨーロッパ中に大きな衝撃を与えました。

なにしろ、「神に選ばれた王」が市民の手によって裁かれて、処刑されたんですからね。
これは他国の君主たちにとって、

自分たちの国で影響された民衆が革命を起こすとやっかいだぞ!
ということで、革命を止めるために軍事侵攻するのかと思いきや、ピューリタン革命(1642~1649)が起こっていた時期は、他国からの軍事的な干渉はほとんど起こらなかったんです。

その理由のひとつとしては、当時のヨーロッパがまさに混乱の最中にあったからなんです。
ドイツ周辺では三十年戦争(1618~1648)が終盤に差し掛かっていて、参加国が疲れ切っていました。
加えて、オランダはスペインとの独立戦争を戦い続けており、余力がありませんでした。
フランスでも1648年からフロンドの乱という貴族と王権の内戦が勃発したことで、国内が混乱していました。
こうした状況の中で、ウェストファリア条約が結ばれて、三十年戦争とオランダ独立戦争は終わりましたが、その翌年にチャールズ1世が処刑されてしまったので、各国はイギリスに干渉する余裕がなかったんです。
なので、チャールズ1世の処刑は確かにヨーロッパに衝撃を与えたんですが、干渉まではいかず、イギリスはそのまま孤立した状態で共和政に入っていくことになったというわけなんです。
同時期のヨーロッパが三十年戦争やオランダ独立戦争、内乱などで混乱しており、他国にイギリスへ介入する余力がなかったため。

重商主義政策
クロムウェルを中心に始まった共和政は、重商主義に基づいて統治しようとしました。
重商主義とは簡単に言うと、
国家の財政を豊かにするための国家主導の経済政策
イギリスでは主に、
・貿易差額を黒字にする
・産業を守り、育てる
という2本柱で統治がおこなわれました。

1つ目はつまり、「外国にたくさんモノを売ってお金を稼ぎ、逆に外国からのモノには高い関税をかけて税収を増やす。」ということです。
そうすれば、貿易差額によって金銀(貨幣)が国内にどんどん流れ込んできて、財政を黒字にするというものでした。

この考え方は「貿易差額主義」とも呼ばれて、国家の富を増やすための手段として重視されていました。
2つ目は、ただ「輸出を増やせ!」と言っても、売るモノがなければ始まらないですよね。
そこでイギリスは、自国の産業(特に毛織物業)を保護・育成する政策をとるようになります。
例えば、輸出産業に補助金を出したり、外国製品に高い関税をかけて、国内産業を守ろうとしたりしました。

こうした政策は、やがて「保護貿易主義」へと発展していくことになります。
なんか現代の国家でもこういうのやってますよね。

共和政府によっておこなわれた代表的な重商主義政策と言えば、オランダの海上覇権に対抗するために制定された航海法です。
この航海法でオランダの中継交易を妨害したことで、3度にも渡るイギリス=オランダ(英蘭)戦争が起きましたが、その後、海上覇権を手に入れたイギリスは、その後約200年間に渡って、このような重商主義政策を続けていくことになりました。

王政復古
共和政府は重商主義政策によって国力を拡大しようとしましたが、さまざま意見を持つ派閥が幅を利かせようと、派閥同士で対立が起きるようになり、議会では政策がなかなか決まらず混乱してしまうようになります。
このように安定した統治ができなかったので、軍の実権を握っていたクロムウェルは憤りを感じて強硬な策を取るようになっていきます。
クロムウェルは議会を軍隊の圧力で解散してしまい、護国卿(ごこくきょう)という役職に就任してしまったんです。
この護国卿とは、議会と並んで行政権や立法権、軍事権、外交権などを持つ存在で、実質上、一人で国の政策を決めることができる独裁者でした。
このクロムウェルが護国卿に就任したことで、軍事力を背景にした独裁的な統治を行うようになります。

これが、いわゆるクロムウェルの軍事独裁体制です。
これによってイギリス初の共和政は実質的に終了することになりました。

この独裁政権は、第1次イギリス=オランダ戦争では、一定の成果を上げましたが、国内では次第に自由を求める声と、軍事独裁への反発が高まっていきました。
クロムウェルが病気によって亡くなってしまうと、息子が後を継ぎますが、政治家としての才能がなかったので、軍や議会をまとめることができずに、わずか9ヶ月で辞任してしまいます。
こうしてはイギリスの政治は再び混乱する状況になってしまいました。

この頃、国民の間にはクロムウェルが始めた厳格な軍事独裁体制への不満が広がっていました。
なので、議会内でも国王の復帰を望む王党派の残党と妥協を図るようになっていきます。

「やっぱり王政の方がよかったんじぇね?」と思い始めたわけです。
そして議会で、「国王に議会の権限を尊重することを約束させること。」を条件に国王の復帰が合意されることになったんです。
そして、チャールズ1世の息子で、当時オランダに亡命していたチャールズ2世を国王として迎え入れることになり、ステュアート朝による王政が復活(王政復古)することになりました。


これにより、ピューリタン革命によって成立した共和政は約10年で完全に幕を閉じることになってしまいました。

まとめ
MQ:ピューリタン革命はイギリス社会にどんな新秩序をもたらしたのか?
A:王権神授説に基づく絶対王政を打倒し、国王の処刑と共和政の樹立を通じて、議会の権限強化や市民の自由・権利の尊重といった近代的な政治秩序をイギリス社会にもたらした。

今回はこのような内容でした。

次回は、イギリスの名誉革命についてです。なぜ名誉革命は「革命」と呼ばれながらも流血をせずに達成されたんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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