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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回は近代の国際運動の広がりです。19世紀の後半に国境が安定する中で、なぜ国境を越えた国際運動が盛んになったんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:国民国家の枠組みが安定するなかで、なぜ国境をこえる国際運動が広がったのか?
国民国家と国際運動の広がり
19世紀後半は「国民国家の時代」と呼ばれています。
イタリアやドイツの統一が進んで、各国が明確な国境線を持つようになり、国内の統合を強めていった時代でした。
国境が安定すると、普通は「国際交流は減るのでは?」と思うかもしれません。
ところが実際には、国境をこえて協力しようとする国際運動が活発化していったんです。
その背景には、鉄道・蒸気船・郵便・電信・新聞といった交通・通信の革命がありました。
これらの技術によって、人・モノ・情報が国境を軽々と越えていくようになり、「世界はつながっている」という感覚が人々の間に広がっていきました。
このような環境の変化を受けて、社会主義者、労働者、医療関係者、スポーツ愛好家など、さまざまな人々が国境を越えて協力し始めるようになっていったんです。

社会主義運動とインターナショナルの誕生
社会主義運動の国際的な広がり
19世紀の社会主義運動は、初めから強い国際性を持っていました。

ではなぜ、国際的な協力を求めたんでしょうか?
SQ:社会主義運動は、どのような背景から国際的な協力を求めるようになったのか?
それは、どの国の労働者も、長時間労働・低賃金・劣悪な環境・政治的権利がないといった共通の問題に苦しんでいたからです。
なので、国境が違っても生活が似ていたことから、「国境を越えて協力しよう」という発想が自然に生まれてきたというわけなんです。
産業革命期に各国の労働者が同じような過酷な労働条件と権利の欠如に苦しんでいたため、国境を越えた協力が必要だと考えるようになったため。
この国際的な協力の流れの中で誕生したのが、第1インターナショナル(国際労働者協会)と第2インターナショナルです。

第1インターナショナル
1864年にロンドンで、世界で初めての労働者国際組織である第1インターナショナル(国際労働者協会)が結成されました。
創立宣言と規約を起草したのはドイツのマルクスで、彼は組織の指導者として大きな影響力を持ちました。
1848年革命の失敗後、労働運動は一時的に後退しましたが、イタリア統一運動やアメリカ南北戦争、ポーランド反乱などが続いたことで、ロンドンに集まった社会主義亡命者の間で自由主義の声が広がっていきます。
こうした流れが、第1インターナショナルの誕生を後押ししました。
第1インターナショナルは、ロンドンを本部に各国に支部を設置して、毎年大会を開いて方針を決定しました。
ただし、参加者の思想はさまざまだったので、内部には常に議論と対立が起こりました。

イギリスの労働組合主義、フランスのプルードン派、イタリアの共和主義者などが混在していました。
内部対立の中でも特に有名だったのが、マルクスとロシアの無政府主義者バクーニンの対立でした。
バクーニンは「組織なんていらない!国家もいらない!」と主張する極端なアナーキストでした。一方、マルクスは「労働者を政党に組織し、計画的に革命を進めるべきだ」と考えており、噛み合いませんでした。

そんな中、フランスでパリ=コミューンが結成されると、第1インターナショナルはこれを支持します。
しかし、コミューンが政府軍によって鎮圧されてしまうと、各国の政府は労働運動への弾圧を強化していきました。
その結果、インターナショナルの運営は困難になっていき、大会でマルクス派とバクーニン派が分裂してしまい、その数年後には活動停止に追い込まれることになってしまいました。

第1インターナショナルはわずか8年ほどの短命で終わりましたが、「世界初の労働者国際組織」という歴史的意義は非常に大きいものです。

第2インターナショナル
第1インターナショナルは解散に追い込まれましたが、国際的な協力の流れは止まりませんでした。
工業の発展によって労働者の数が増え、各国で社会主義政党が誕生します。
そんな中、1889年にパリで第2インターナショナルが結成されました。
中心となったのが、当時最大の社会主義政党だったドイツ社会民主党です。
第1インターナショナルが「労働組合中心」だったのに対し、第2インターナショナルは「社会主義政党の国際連帯組織」という性格が強くなりました。
その中で、アナーキスト(無政府主義)勢力は排除されて、マルクス主義が主流になっていきました。
第2インターナショナルでは次のような改革を掲げました。
・国際平和の推進
・軍縮
・8時間労働制の導入

この「8時間労働制」は、現代の私たちの生活にも直結する重要な成果ですね。
しかし、帝国主義時代に入ると各国の利害が衝突するようになり、植民地問題や戦争問題で意見が一致しなくなります。
第一次世界大戦が始まると、各国の社会主義政党は「祖国防衛」を理由に自国政府を支持するようになり、国際的な統一は崩壊していきました。
そして1919年を最後に大会は開かれなくなりました。

ハーグ国際平和会議
19世紀後半には、国際平和を求める動きも強まりました。
その象徴が、ロシア皇帝ニコライ2世の呼びかけによって開催されたハーグ国際平和会議です。
19世紀末の列強は、植民地獲得競争の激化によって、軍備拡張に莫大な費用を使っていました。
ニコライ2世が会議を提唱した理由も、理想主義というより「軍拡競争で財政がもたない」という切実な事情があったからなんです。

当時の軍事費は国家財政を圧迫し、どの国も頭を抱えていたんです。
第1回ハーグ平和会議(1899)
第1回は、オランダのハーグに28カ国が集まって開催されました。

日本も参加していたんですよ。
軍備制限の協定は結べませんでしたが、毒ガス禁止宣言や、常設仲裁裁判所など、戦争を人道的に制限するための国際法が整備されました。

これは17世紀のグロティウス以来続く「戦争を法で制限する」努力を引き継いだものでした。
第2回ハーグ平和会議(1907)
2回目には参加国が47カ国に増えて、より大規模な会議になりました。
日露戦争の仲裁で名を上げたアメリカ大統領のセオドア=ローズヴェルトが主導的な役割を果たしました。
しかし、軍縮協定はまた合意には至らず、実質的な成果は限定的でした。

成果は限定的でしたが、「戦争の悲惨さを少しでも減らす」ためのルール作りが、ここから本格的に始まっていきました。
ちなみに当時日本の保護国となっていた大韓帝国(韓国)の皇帝だった高宗が密使を派遣し、日本の支配の不当性を訴えたハーグ密使事件が起こった会議でもありました。

赤十字の誕生
戦場の悲惨さから生まれた国際組織
19世紀後半のヨーロッパでは、政治運動だけでなく、市民の側から人道的な国際運動が広がり始めました。
その代表が国際赤十字組織です。
赤十字の誕生は、ある一人の市民が戦場で見た光景に衝撃を受けたことから始まりました。
創設者であるデュナンはスイスの実業家でした。

彼はイタリア統一戦争の激戦で、負傷兵がそのまま見捨てられる状況を目撃します。
この経験から、

国境を越えて傷病兵を救う組織が必要だ
と強く感じるようになり、各国に書籍を通して訴えかけました。
それが各国で共感されるようになり、スイス政府が中心となって発足されたのが国際赤十字組織だったんです。
ナイティンゲールの影響
赤十字の設立に直接関わったわけではありませんが、イギリスの看護師ナイチンゲールも欠かせない存在でした。

彼女はクリミア戦争の経験から近代看護学を確立して、衛生管理の重要性を世界に示した人物でした。

ナイティンゲールはランプを持って必死に夜回りしていたそうですよ。
ちなみに日本は1886年(明治19年)に赤十字に加盟しています。
デュナンはこのナイティンゲールの活動に強い刺激を受けたと言われ、赤十字の設立に影響を与えました。

スポーツによる国際交流
オリンピックの復活
19世紀後半には、文化的な国際交流も盛んになります。
その象徴が近代オリンピックの誕生でした。
フランスのクーベルタンは古代ギリシアのオリンピックに強い憧れを抱いていました。

「スポーツを通じて人々を結びつけたい」という理想を持って、「知識重視の教育」ではなく、「スポーツが若者を鍛えて、社会をより良くする」と考えて、その理念を広めようとしました。
そして、「スポーツは国境を越えて共有できる文化であり、共通ルールのもとで競い合うことで互いを理解し合える。」という考えが各国の賛同を呼んで、1896年にアテネで近代オリンピックが開催されることになりました。

オリンピックは最初から国際大会を目指していたわけではなかったんですね。1人の教育改革から国際大会にまで発展したのには驚きですね。


インフラ整備と移民
インフラの整備
ここまで紹介してきた国際運動は、交通・通信の発展なしには成立しませんでした。
19世紀半ば以降、鉄道網が急速に広がっていき、蒸気船によって海上交通も高速化していきました。
さらに、郵便制度の整備、国際郵便連合の設立、電信による瞬時の通信、新聞の普及など、情報が国境を越えて流れる仕組みが整っていきました。

電信ができたことで、それまで数週間かかっていたロンドンとニューヨークが数分でつながるようになったんです。まさに革命的でした。
これらのインフラ技術が進んだからこそ、国境を越えた国際運動が盛んになったんです。
移民
そして19世紀は、ヨーロッパから南北アメリカへの移民が急増した時代でもありました。
政治的・宗教的迫害から逃れる人、貧困から脱出したい人、 新天地での成功を夢見る人など、さまざまな理由で人々が移住した時代でした。

カトリックに迫害されたプロテスタントや、アイルランドのジャガイモ飢饉が主な理由でした。
この移民の流れは、ヨーロッパ文化の世界的拡大につながっていき、 経済的・文化的交流をさらに活発化にしていくことになりました。

特に東西から移民が流入したアメリカでは、人口の多くが19世紀の移民の子孫になっているほどなんですよ。だからアメリカは多様性の国になったんですね。

まとめ
MQ:国民国家の枠組みが安定するなかで、なぜ国境をこえる国際運動が広がったのか?
A:交通・通信の革命によって世界が密接につながり、労働問題や人道問題など各国に共通する課題が共有されるようになったため、人々は国境を越えて協力しようとする国際運動を広げていった。

今回はこのような内容でした。

次回は、大陸を超えて「アメリカ合衆国の拡大」についてみていきます。領土拡大はアメリカ社会にどんな影響を与えたんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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