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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回はフランスの宗教内戦についてです。この宗教内戦はどのように収束していったんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:フランスは宗教内戦がどのようにして収束して、どのような国家になっていったのか?
ユグノーの拡大
フランスの主権国家体制
フランスは百年戦争によって、国内にあったイギリス領のほとんどを取り除くことに成功して、ヨーロッパの大国として成長していきました。
しかし、16世紀に入ると、ハプスブルク家が婚姻関係によって領土を拡大していき、ヴァロワ朝フランスはハプスブルク家の領土に包囲されてしまいます。
これに脅威を感じたフランスが、包囲を崩すためにイタリアに侵攻して起こったのが、イタリア戦争でしたよね。

このフランスとハプスブルク家の戦いは、断続的に約2世紀にも渡って続きました。まさにヨーロッパの覇権を争ったライバル関係ですね。
このイタリア戦争を通じて、フランスは国力を高めるために国王への中央集権化をおこない、常備軍を整えて、主権国家を成立させていくことになりました。

今回はそうなっていく過程をみていきましょう。

ユグノーの登場と拡大
イタリア戦争を戦う中で、フランス国内でも“あの勢力”が拡大していました。
そう、プロテスタントの“カルヴァン派”です。

カルヴァン派の創始者カルヴァンは、フランスから逃れてジュネーヴで宗教改革に取り組みましたが、宣教師を派遣したことで、その思想は早くからフランスにも入ってきていたんです。
カルヴァンが唱えた「予定説」は、「勤勉な生活が神の救済の前提条件」であったことから、フランスでも商工業者に受け入れられて、カルヴァン派は都市部を中心に広がっていきました。
国王に仕える有力貴族の中にもカルヴァン派になる者が出てきたことで、フランス王国内でも影響力を持つようになっていきます。
こうして、フランスのカルヴァン派は「ユグノー」と呼ばれるようになり、カトリック教国のフランスで勢力を拡大させていきました。

オランダでは「ゴイセン」でしたよね。間違わないように整理しておきましょうね。
このユグノーがフランスで拡大していったことで、貴族たちの中でカトリック派とユグノー派との対立が次第に深刻になっていき、最終的に起こったのが宗教内戦であるユグノー戦争でした。

ユグノー戦争の勃発

この宗教内戦であるユグノー戦争は、単なる宗教対立だけではなく、貴族たちの政治対立もからんだ複雑なものだったんです。
イタリア戦争が終結した16世紀中ごろに、フランスでは国王が次々と亡くなってしまい、当時まだ10歳だったシャルル9世が国王に就任することになりました。
なので、その母親であるカトリーヌ=ド=メディシスが摂政としてフランスの実権を握ることになります。


ちなみにカトリーヌはフィレンツェの富豪メディチ家から嫁いできた人物でした。ハプスブルク家だけでなく、メディチ家もすごいですね。
実権を握ったカトリーヌ=ド=メディシスはカトリック教徒だったんですが、当時、王族を脅かすほどの強大な勢力を持つカトリック貴族に対抗するため、ユグノー派に協力的な姿勢を見せていたんです。

そして、カトリーヌがユグノー派の信仰を認める勅令を出したことで、怒ったカトリック貴族が、ユグノー派を数十人に渡って虐殺するという事件が起こってしまいます。
これに対してユグノー派貴族のブルボン家が復讐するために軍隊を派遣して、カトリック派貴族と戦闘になって、始まった内乱がユグノー戦争だったんです。

勃発の経緯は少し複雑ですね。まあ、「貴族たちの宗教対立が深刻化して勃発した。」ぐらいでもいいでしょう。(笑)

サンバルテルミの虐殺
ユグノー戦争は途中、講和を挟みながら断続的に数回に渡って起こっていて、長期化した内戦は全体で30年以上も続きました。
そして、内戦中にはとても悲惨な事件も起きました。
それがサンバルテルミの虐殺とよばれるものです。

この事件は、摂政カトリーヌ=ド=メディシスがカトリック派の娘とユグノー派ブルボン家のアンリ(後の国王アンリ4世)を結婚させる計画をして、カトリック派とユグノー派の融和を目指したことから始まりました。
当時、ユグノー派のリーダーは、オランダ独立戦争でのカルヴァン派の支援を主張していました。
つまり、それはフランスがスペインと戦争することを意味していたので、カトリック教徒だったカトリーヌとカトリック派貴族たちは、同宗派のスペインと戦うのを恐れてユグノー派リーダーの暗殺を計画します。
そして結婚式のためにパリに集まっていたユグノー派リーダーとその同胞たちを襲撃して殺害してしまったんです。

しかし、ここから不思議なことが起こります。
この襲撃後に、パリ市内でもカトリック市民によるユグノー派の無差別虐殺が起こってしまったんです。
そしてこの虐殺は地方にも広がっていき、結果として全国で数万人のユグノー派が虐殺される悲惨な出来事になってしまいました。

パリだけでも約4000人が命を落とし、この日が聖バルテルミの祭日だったことから、「サンバルテルミの虐殺」と呼ばれています。
このサンバルテルミの虐殺は、カトリック派だったカトリーヌの陰謀論という説もありますが、指示を出した証拠は残っていなく、謎に包まれています。
このサンバルテルミの虐殺によって、ユグノー派は大きなダメージを負うことになり、生き残ったユグノー派の怒りが増したことで内戦はさらに激化していくことになってしまいました。

このサンバルテルミの虐殺が、ユグノー戦争が長期化した要因の1つとも言われています。

ブルボン朝の成立とアンリ4世のカトリック改宗
ブルボン朝の成立
ユグノー戦争が長期化していき、数回に渡って戦闘が起きましたが、内戦中にはフランス国王が暗殺されてしまい、ヴァロワ朝が断絶してしまう事件も起きました。

トップの国王が暗殺されるなんて、まさに国家を揺るがす大事件ですよね。
そこでヴァロワ家の親戚で、王位継承権の筆頭だったブルボン家のアンリ4世が国王に就くことになります。

こうしてヴァロワ朝にかわって新たにブルボン朝と呼ばれる王朝が始まることになりました。

アンリ4世のカトリック改宗
ブルボン家出身だったアンリ4世は、もともとユグノー派として内戦を戦っていましたが、国王になっておこなったのが、カトリック教への改宗だったんです。
SQ:なぜユグノー派のアンリ4世はカトリックに改宗したのか?

この決断は単なる権力獲得のためだけでなく、分裂の危機にあった王国を再建するための選択だったんです。
当時、ユグノー派であるアンリ4世が王位に就いたことを、当然、カトリック派貴族たちは良く思っていませんでした。

アンリ4世は真の国王ではない!
ということで、カトリック派貴族は別の国王を建ててパリを占領してしまい、フランスは事実上分裂してしまったんです。
しかも、これにはカトリック教国のスペインが介入して、カトリック派貴族を支援していたことも影響していました。
このように王国の分裂と外国の介入によって、フランスは分裂の危機を迎えることになりました。

そんな中で、ある決断をした国王アンリ4世が、次のようなことを残します。

パリは1つのミサ(カトリックの礼拝)に値する。
これは、「パリ(王都)はカトリックになってでも国王としているべき場所だ。」ということを意味していて、アンリ4世がカトリックの洗礼を受けてカトリック教徒になることも意味していました。
カトリック派に国王として認めてもらい、パリに入城して王国分裂の危機を解消するためには、カトリックになるしかないとアンリ4世は決意したんです。
こうして対立するカトリック派に正式な国王と認められて、フランス分裂の危機を防ごうという目的で、アンリ4世はカトリックに改宗したというわけなんです。

自分の宗派よりも王国の安定を優先しておこなったことだったということですね。
ユグノー派のアンリ4世は、フランスの分裂とスペインの介入による国家存亡の危機を乗り越えるため、カトリック派に国王として認められ王国を統一する目的でカトリックに改宗した。

ナントの王令と内戦の終結
ナントの王令
しかし、アンリ4世がカトリックに改宗したことで、ユグノー派は「裏切られた」と感じて国王を非難し、依然、両派の間での戦闘は続いていました。
アンリ4世はこのユグノー戦争を終結させて、王国を安定させるために両派と交渉を重ねます。
そして、ユグノー戦争が始まってから30年以上が経ったところで、出されたのがナントの王令でした。
このナントの王令は、ユグノー派の信仰の自由を条件付きで認める内容のものでした。
・ユグノー派が公職に就くことを許可
・パリなどの宮廷でのユグノー派の礼拝は禁止
・ユグノー派の礼拝可能な都市を限定
・ユグノー派のカトリックの祝日遵守を義務化
・ユグノー派のカトリック教会への十分の一税の支払いの継続
このナントの王令は、ユグノー派の信仰を認めつつ、信仰の自由を制限することでカトリック派にも妥協して、両派から理解を得ようとしたんです。
これにより、長年続いたユグノー戦争は終結することとなり、フランスは比較的安定した時代を迎えることになりました。

こうして、フランスはカトリックを国教としつつも、プロテスタント(カルヴァン派)の信仰の自由を認めて、国内の治安を安定させることに成功しました。

ユグノー戦争の影響
このナントの王令は、ユグノーに限定的ながらも信仰の自由を認めたことによって、宗教的寛容の考え方がフランスに根付き始めるきっかけになりました。

違う宗派を理解し合うということですね。
ですが、ここで注意してほしいのは、対立が完全になくなったわけではなく、場所によっては抵抗や争いが続いていたということです。
そして、このユグノー戦争の宗教対立や政治混乱を経て、国内では信仰よりも平和や政治の安定を望む民衆が増えていき、フランスでは強力な中央集権国家を求めるようになっていきました。

貧困や虐殺が横行していましたからね、信仰を守るよりも平和に生きて暮らしたいという思いが強くなったんでしょうね。
これが後のフランス絶対王政の基盤になっていき、王権強化と中央集権化が進んでいくことになりました。

戦争の混乱が王権強化の必要性を浮き彫りにしたんですね。

まとめ
MQ:フランスは宗教内戦がどのようにして収束して、どのような国家になっていったのか?
A:ユグノー戦争という宗教内戦を経て、ユグノー派のアンリ4世がカトリックに改宗し、ナントの王令を発布してユグノー派の信仰を限定的に認めたことで内戦を終結させた。この経験により国民の間に平和と安定を求める意識が高まり、王権の強化と中央集権化が進み、主権国家としての体制が確立された。

今回はこのような内容でした。

次回は、三十年戦争についてです。この戦争によって結ばれたウェストファリア条約は、それまでの講和条約とどのような違いがあったんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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