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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回はドイツから国際戦争に発展した三十年戦争についてです。この戦争で締結されたウェストファリア条約は、それまでの条約とは何が違っていたのでしょう。
MQ:三十年戦争とはどんな戦争で、ウェストファリア条約はそれまでの条約と比べて何が違っていたのか?
勃発の背景
神聖ローマ帝国の小国分立状態
16世紀のヨーロッパでは、ドイツを中心とする神聖ローマ帝国が大国の1つとして存在していましたよね。
そして、この時代のヨーロッパ各国では、軍事革命によって戦争で戦費・期間がともに拡大したことで、国力を集中させようとする主権国家体制が進んでいました。
しかし、神聖ローマ帝国ではドイツ内に大小の領邦が分立していて、主権国家として1つにまとめるのが困難な状況だったんです。
しかも加えて、宗教改革によってカトリックとプロテスタントで分裂が起き、アウクスブルクの和議以降もカトリックとプロテスタントの対立は続いていました。
領邦教会制によって宗派を決める権利を持った領主たちは、宗教だけでなく、政治面でも神聖ローマ皇帝から独立しようと画策したので、皇帝と対立するようになるなど、とても中央集権できる状況ではなかったんです。

勃発と経過
勃発
その神聖ローマ帝国内の王国だったベーメン(ボヘミア)というところは、宗教改革以降、プロテスタントの信仰が根強い地域でした。
ベーメン・・・現在のチェコ。
しかし、当時の神聖ローマ皇帝はカトリック教徒だったので、プロテスタントに信仰の自由を認めず、カトリックを強制しようとしました。

文化面でも、現地語だったチェコ語をドイツ語に強制しようともしたそうですよ。
これに反発したベーメンのプロテスタント貴族たちが、ベーメン王宮に乗り込み、皇帝の代理人であるカトリックの官僚たちを窓から突き落としてしまうという事件が起きました。
この「プラハ窓外投げ捨て事件」を発端に、プロテスタント貴族によるベーメン反乱を起こして、三十年戦争の幕開けとなったんです。

経過
初めは、「神聖ローマ皇帝 VS プロテスタント」という構図で、あくまで帝国内の内乱として進んでいました。
しかし、内乱が始まって7年ほど過ぎたところで、プロテスタント教国だった北欧のデンマークが、カトリック拡大阻止と北ドイツ領を目当てに、直接ドイツに軍事介入してきたことで、この内乱は外国を巻き込む国際戦争へと発展していくことになったんです。

このデンマークの侵攻に対して、神聖ローマ帝国側として活躍したのが、総司令官ヴァレンタインという人物でした。

ヴァレンシュタインはベーメンの貴族出身で、軍人として身を立てるために、ポケットマネーで編成した傭兵部隊でプロテスタントを弾圧し、それが神聖ローマ皇帝に評価されたことで、帝国側の総司令官に任命された人物でした。

神聖ローマ皇帝に土地をもらったあとは、ポケットマネーで約2万の傭兵部隊を編制して、三十年戦争に参戦したそうですよ。すごいですね。
このヴァレンシュタインの傭兵部隊による活躍で、デンマークの撤退など、一時的に帝国側が優勢になります。

しかし、ここから三十年戦争はさらに複雑な国際関係で外国を巻き込んでいくことになります。
当時、大国の1つだったフランスはカトリック教国でありながら、ハプスブルク家率いる神聖ローマ帝国とはライバル関係にあったので、敵対するプロテスタント側を支援していたんです。

ちなみに先ほどのデンマークもフランスから支援を受けて侵攻していました。
そして、このフランスの支援を受けたプロテスタント教国のスウェーデンが、プロテスタント擁護と神聖ローマ帝国の北上を阻止するという名目でドイツに侵攻します。
このスウェーデン軍を率いていたのが国王のグスタフ=アドルフという人物でした。

スウェーデンをプロテスタントの強国として育てたグスタフ=アドルフは、その手腕で帝国側のカトリック派貴族を蹴散らし、ハプスブルク家の本拠地ウィーンにまで迫る猛攻をみせます。

しかし、ここで帝国側の総司令官ヴァレンシュタインが立ちはだかり、両者は死闘を繰り広げることになりました。
衝突した両軍は激しい攻防を繰り広げ、最終的にはスウェーデン軍が勝利しましたが、国王グスタフ=アドルフが戦死してしまいます。
ここで帝国側のチャンス到来かと思われたんですが、総司令官ヴァレンシュタインの雲行きが怪しくなります。
皇帝は強大化したヴァレンシュタインの傭兵部隊に脅威を感じるようになっていたので、部隊の一部を削減しようと企てます。
これを察知したヴァレンシュタインは、密かにプロテスタントと講和を模索しようとします。
しかし、部隊の解散を恐れた部下によって暗殺されてしまったんです。

イケイケどんどんの時に職を失うと戦利品にありつけませんからね。
これらの出来事によって両軍で混乱が起き、帝国側(カトリック側)とプロテスタント側は一時的に和平を結んで、三十年戦争は一時中断することになりました。

しかし、せっかく和平を結んだのに翌年には、勢力が劣勢だったプロテスタント側を挽回させるために、フランスが軍隊を率いてドイツ国内に侵入してきたんです。

これに同調するようにスウェーデンも再び侵攻しました。
これに対して、カトリック側を助けるためにスペインも直接軍事介入してくることになり、いよいよ三十年戦争は本格的な国家間の国際戦争に発展していきました。

なんだかもうカオスですよね。後で時系列をしっかり整理しておきましょうね。
フランスとスペインの直接介入によって、三十年戦争は激化していきましたが、戦争が長期化したことで、いよいよ参加国に限界が訪れることになります。

カトリック側として参戦したスペインでは、国内で内乱が起き、同時に併合していたポルトガルの独立を許してしまったことで、戦争継続の余裕を失ってしまいます。
しかも、三十年戦争の戦局もお互いに決定打が撃てない膠着状態が続き、まさに泥沼化している状況になっていきました。
戦場になったドイツでは土地が荒廃してしまい、人口が激減してしまいます。

ドイツでは、人口の3分の1に相当する約600万人が亡くなってしまったそうです。
そして、プロテスタント側で参戦したフランスも財政難などによって国力が低下していき、戦争継続が難しい状況になっていきました。
こうして、ドイツが荒廃し、両サイド共に国力が疲弊してしまったことで、戦争開始から30年経ったところでようやく和平条約が結ばれることになり、ウェストファリア条約によって三十年戦争は終結することになりました。

この戦争は「勝者」によって終わったのではなく、「疲れ果てた者たち」の妥協によって終わった戦争だったんですね。


ウェストファリア条約の内容とその影響

このウェストファリア条約は、三十年戦争というヨーロッパ中を巻き込んだ宗教戦争に終止符を打って、「中世の終わりと近代の始まり」を告げる講和条約だったんです。
まずはその内容からみていきましょう。
条約の内容
1.宗教の共存が認められる
カトリック、ルター派、そしてカルヴァン派の三つの宗派が神聖ローマ帝国内で自由に信仰することが正式に認められました。

信仰の違いで起こっていた宗教戦争による戦火の時代に、ようやく「寛容」という制度ができたんです。
2.領土の再配分と独立の承認
途中から直接介入したフランスは神聖ローマ帝国からドイツのアルザス地方などを獲得し、スウェーデンは北ドイツのバルト海沿岸の要地を手に入れて、領土を拡大させました。
スイスとオランダは独立が国際的に承認されることになり、地図上に新たな国家として正式に誕生することになりました。

これによってオランダ独立戦争は正式に終了することになります。

ちなみに、スイスは領主たちが神聖ローマ帝国と抵抗して戦い、事実上独立していましたが、カルヴァン派など宗教改革が起こった地域でもあったことから、宗教対立で混乱し、正式な独立が今回に至りました。
3.主権国家の原則が確立
ドイツの領邦に対して、神聖ローマ帝国が「各領邦内の政治に干渉しない。」という原則が決められ、領邦は外交権を含めた主権を持つことが認められました。
これによって、ドイツ国内にある約300もの領邦が「主権国家」として認められることになり、それらを束ねていた神聖ローマ皇帝の権威は大きく後退することになりました。

これが、後の「主権国家体制」と呼ばれる新しい国際秩序の出発点となっていったんです。

影響
SQ:ウェストファリア条約はヨーロッパにどんな影響を与えたのか?

では、このウェストファリア条約の内容から、いったいどんな影響があったのかを考えてみましょう。
要点は以下の通りです。
①宗教戦争の終焉
②主権国家体制の誕生
③ヨーロッパの勢力範囲の変化
④国際法と外交の発展


では、1つずつみていきましょう。
①宗教戦争の終焉
他宗派への寛容が制度化されたことで、この三十年戦争を最後に、以降ヨーロッパでは宗教対立による大規模な宗教戦争が起こらなくなりました。

なので、三十年戦争は「最後の宗教戦争」とも言われています。
こうして、ヨーロッパで長年闘争を繰り返していたカトリックとプロテスタントの間で、ある程度の均衡が保たれるようになったんです。
②主権国家体制の誕生
ドイツで領邦が「主権国家」として認められたことで、それまでの封建国家にかわって、「領土と国民の範囲が明確で、国王が主権を持つ国家」という主権国家体制がヨーロッパで成立し始めたんです。

中世では封建制によって、領主である諸侯や騎士が複数の主君と契約できたので、国境や国民という意識がほとんどなかったんです。

③ヨーロッパの勢力範囲の変化
ドイツ国内の領邦が「主権国家」として独立したことで、それを束ねていた神聖ローマ皇帝(オーストリア系ハプスブルク家)は、ドイツ全土の実質的な支配権を失うことになりました。
加えて、フランスやスウェーデンの台頭によって領土の一部を渡すことになり、ハプスブルク家(オーストリア系)が支配権を持つ領土は、東のオーストリア方面だけになってしまいました。

これによって神聖ローマ帝国は権威を失って「形式的」な帝国に成り下がってしまい、ウェストファリア条約は「神聖ローマ帝国の死亡証明書」と呼ばれるようになったんです。
④国際法と外交の発展
このウェストファリア条約は、それまでの教皇の宗教権威や力関係によって結ばれたものではなく、国家間の対話と合意によって結ばれた初めての国際条約でした。
なので、この条約締結に至るまでのプロセス(手順)は、その後の近代で外交と国際法のお手本になっていくことになりました。

主権国家同士で「国境と国民の範囲」をきっちり話し合って決めるようになっていったんですね。それでもまあ、勝利した側に圧倒的なアドバンテージがあったことに変わりないんですがね。

このように、三十年戦争を終結させたウェストファリア条約によって、宗教的寛容を制度化し、宗教戦争の時代に終止符を打ちました。
同時に、ドイツの諸領邦が主権国家として認められたことで、主権国家体制が広がり、神聖ローマ帝国は実質的な力を失ってしまいます。
また、この条約は国家間の合意によって結ばれた初の国際条約として、近代の外交と国際法の出発点にもなっていったんですね。
ヨーロッパにおいて宗教戦争を終結させ、宗教的寛容を制度化するとともに、主権国家体制の基盤を築いた。これにより、神聖ローマ帝国の権威は失われ、フランスやスウェーデンなどの新たな勢力が台頭した。さらに、国家間の合意による条約締結は国際法と近代外交の出発点となった。

まとめ
MQ:三十年戦争とはどんな戦争で、ウェストファリア条約はそれまでの条約と比べて何が違っていたのか?
A:神聖ローマ帝国内の宗教対立と政治的分裂を背景に始まり、国際戦争へと発展した戦争である。ウェストファリア条約は、宗派の共存と領邦の主権を認めて宗教戦争に終止符を打ち、国家間の合意によって結ばれた初の国際条約として、主権国家体制の出発点となった点で、それまでの条約と異なっている。

今回はこのような内容でした。

次回は、オランダの繁栄についてみていきます。ウェストファリア条約による主権国家体制によって台頭したのがオランダでした。なぜオランダは17世紀に経済的な繁栄を築くことができたんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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