[11-5.3]プロイセンとオーストリア①(強大化)

11-5.北欧、東欧

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はじめに

グシャケン
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前回はこのような内容でした。

グシャケン
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今回はプロイセンとオーストリアについてです。なぜ

MQ:なぜ18世紀の東欧では、プロイセンとオーストリアが強国となったのか?

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プロイセン

18世紀の東欧で、ロマノフ朝ロシアと並んで台頭したのがプロイセンオーストリアでした。

グシャケン
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まずは公国から王国に変化していったプロイセンからみていきましょう。

プロイセンとオーストリア

プロイセンの登場

東欧のバルト海に面した、現在のポーランドの北部あたりには「プロイセン」と呼ばれる土地が広がっていました。

そして13世紀の中世の時代に、そこにやってきたのがドイツ騎士団です。

彼らは東方植民の一環として、キリスト教の布教とともにプロイセンを拠点にして、やがてドイツ騎士団築き上げていきました。

グシャケン
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これが、後のプロイセン国家のはじまりになります。

16世紀になると、騎士団長だったホーエンツォレルン家が、ポーランド王から「プロイセン公」に任命されます。

グシャケン
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ポーランドは当時、宗教改革でプロテスタント化したドイツ騎士団の独立と強大化を恐れて、支配化に入れようとしたんです。

ドイツ騎士団も国家を安定させるために、ポーランドの保護を借りる形になりました。

これによって誕生したのが、プロイセン公国でした。

グシャケン
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公国とは、国王から与えられる地位で、事実上は独立しているんですが、形式上は国王に従う立場でした。

プロイセン公国の誕生

プロイセンは独立したとはいえ、まだ形式上は“公国”としてポーランド王に従う立場だったので、“半独立国家”状態でした。

しかし、17世紀に入ると、プロイセン公国と神聖ローマ帝国の七選帝国のブランデンブルク選帝侯国が同君連合を結成することになり、神聖ローマ帝国内にも領土を持つようになります。

グシャケン
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プロイセン公国の血筋が途絶えそうになったので、同じホーエンツォレルン家だったブランデンブルク選帝侯と同君連合を組むことになったんです。

プロイセン=ブランデンブルク同君連合の結成

そして、同じ年に始まった三十年戦争によって、プロイセンは次第に“ただの公国”から“実質的な主権国家”へと変貌していくことになりました。

ウェストファリア条約によって、ドイツ領邦に主権国家としての地位が認められたことで、プロイセン公国は神聖ローマ帝国の支配から独立して、有力な主権国家に成長していきます。

そして、フリードリヒ3世の時代に、スペイン継承戦争で神聖ローマ皇帝に協力した功績から、王国への昇格を認められて、晴れて完全独立してベルリンを首都とするプロイセン王国が誕生することになったんです。

グシャケン
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こうして、かつてバルトの片隅にあった小さな騎士団国家は、ヨーロッパの大国への道を歩み始めたんです。

プロイセン王国の誕生

※以下、プロイセン王国は「プロイセン」と表記

絶対王政化

そして、このプロイセンで絶対王政を築いたのが、2代目国王のフリードリヒ=ヴィルヘルム(大選帝侯)でした。

フリードリヒ=ヴィルヘルム

彼が絶対王政を築くうえで重視したのが、軍事改革でした。

フリードリヒ=ヴィルヘルムは、国家の財布を握りしめてこう言いました。

フリードリヒ=ヴィルヘルム
フリードリヒ=ヴィルヘルム

節約せよ。ただし、軍隊は別だ

と。

当時のプロイセンの年間の歳入は約750万ターレルあったんですが、なんとそのうちの約500万ターレルを軍事費につぎ込んだんです。

・約750万ターレル…約10〜15億ユーロ(約1600〜2400億円) ・約500万ターレル…約7〜10億ユーロ(約1100〜1600億円)

グシャケン
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つまり、現在でいうと、国家予算の3分の2が防衛費に使われていたことになりますね。

そしてその軍事費によって創設された常備軍を支える徴兵も徹底していました。

農村から若者をかき集め、時には外国からも“スカウト”という名の強制連行をおこないました。

こうした極端な軍事改革によって、プロイセンは人口比でも軍事力でも、フランスやオーストリアに次ぐヨーロッパ第3位の軍事国家へと成長していくことになりました。

グシャケン
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人口約200万人のうち、軍人が約8万人と驚異的な比率だったそうですよ。

フリードリヒ=ヴィルヘルムの絶対王政化

●巨人軍マニアの“軍人王”

フリードリヒ=ヴィルヘルムには、もうひとつの顔がありました。

それは「巨人」マニアだったことです。

彼が特に好んでいたのが、背の高い兵士たちで構成された近衛部隊でした。

2メートル級の男性を見つけると、警官に命じて連行させ、時には暴力を振るってでもスカウトする、まさに“強制スカウト”をしていたんです。

そのマニアぶりは、自ら鞭を手に取って、号令をかけて訓練するほどでした。

そうした姿から、彼は“軍人王”と呼ばれるようになったんです。

フリードリヒ=ヴィルヘルムは、他にも官僚制も整備して重商主義政策を推進し、“軍隊を維持するための体制”を整えていきました。

この頃、フランスではルイ14世がナントの王令を廃止したことで、多くのユグノーが国外に亡命していたので、プロイセンはユグノーたちを受け入れて、技術を取り入れて自国の産業を発展させることにも成功しました。

こうして、強力な軍事改革と官僚制の整備、そして産業の発展によって、プロイセンで絶対王政が築かれていくことになったんです。

ユグノーの流入 プロイセン産業の発展

ユンカーの農奴支配

フリードリヒ=ヴィルヘルムは常備軍を強化して、ヨーロッパでも指折りの軍事国家を築きました。

しかし、その軍隊の維持費は莫大なものになり、当然、財政をまかなうための課税が必要になりました。

そこで財政を課税でまかなうために、議会を開いて課税権を認めさせる代わりに、地方の領主貴族であるユンカーに農奴支配を正式に承認することになったんです。

ユンカー

SQ:ユンカーへの農奴制承認はプロイセンの社会にどんな影響を与えたのか?

グシャケン
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まず、ユンカーとはどんな存在だったんでしょうか?


まずここでユンカーとは、プロイセンにいた大土地所有の貴族たちのことを指します。

彼らは広大な荘園を持ち、農民(農奴)を労働力として土地を支配していました。

グシャケン
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荘園で生活する農民(農奴)たちは土地に縛られ、領主(ユンカー)の許可なしには移動も結婚もできず、労働も義務づけられていました。

そして、フリードリヒ=ヴィルヘルムの時代に、ユンカーの地位は国家の軍事・官僚制度と結びつくことで、さらに強化されていくことになります。

プロイセンの強大な軍事力とその財政を支えるためには、ユンカーの協力が不可欠でした。

なので、そのユンカーたちから支持を得ながら改革を進めるために、官僚に任命して、荘園ではあえて貴族特権だった農奴制を認めることで、封建的支配を残すことにしたんです。

これによって、プロイセンの絶対王政は、「自由な市民社会」ではなく、「貴族の支配と農民の従属」に依存して改革を進めていくことになりました。

グシャケン
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封建的支配を残すことは、完全な統一国家を諦めて、貴族の独立性を認めることになりますからね。

ユンカーへの農奴制承認はプロイセンの社会にどんな影響を与えたのか? ユンカー

そして、ユンカーへの農奴制承認によって、社会構造は大きく2つに分けられることになりました。

・上層部:ユンカー

軍の将校や高級官僚として国家に仕え、政治と軍事の中枢を担う。

経済的には荘園経営で莫大な利益を得る。

・下層部:農民(農奴)

土地に縛られ、自由を奪われたまま、ユンカーの荘園で労働。

教育や移動の機会も乏しく、社会的上昇の道はほぼ閉ざされていた。

ユンカーへの農奴制承認はプロイセンの社会にどんな影響を与えたのか?

この社会の二重構造は、絶対王政下の中央集権化と、貴族の封建制が共存する、プロイセン特有の“ねじれ”を生むことになりました。

グシャケン
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軍隊を維持するためには、貴族の特権を認めて妥協するしかなかったんですね。

SQ:ユンカーへの農奴制承認はプロイセンの社会にどんな影響を与えたのか?

貴族が軍や官僚を独占し、農民は土地に縛られたまま労働力として支配される社会が固定化された。これにより、近代的な中央集権と封建的身分制が共存する“ねじれた社会構造”が生まれた。

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オーストリア

第2次ウィーン包囲

一方、オーストリアでは、ハプスブルグ家の当主が神聖ローマ皇帝も兼ねて君臨する時代が長く続いていました。

しかし、三十年戦争によってドイツ領邦たちが事実上独立したことで、神聖ローマ帝国は形式上の国家になってしまい、オーストリアは東欧の独立した一王国になってしまいました。

グシャケン
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しかし、1王国になってもヨーロッパの強国であることに変わりはありませんでした。

オーストリア ハプスブルグ家

そんなオーストリアは、東のオスマン帝国と隣接していたので、もはや伝統ともいえるオスマン帝国との緊張の歴史を持っていました。

当時、バルカン半島やハンガリーを支配していたオスマン帝国は、全盛期に比べてスルタンの権威が落ちて、政治闘争に明け暮れる日々が続いていました。

なので、オスマン帝国の威信を回復させるために、150年ぶりにオーストリアに大規模な遠征をおこなうことを決意します。

オスマン帝国は15万の大軍を編成して、オーストリアの首都ウィーンを包囲してしまいます。

これが第2次ウィーン包囲の始まりです。

オーストリアは圧倒的に劣る兵力で城壁に立て籠もってなんとか持ちこたえていました。

そこにキリスト教世界を守ろうとしたポーランド軍が駆け付けてきて、オスマン軍を撃退してくれたことで、なんとか窮地を脱します。

その後も、周辺のキリスト教国が連合してくれたことで、オスマン帝国は敗走していき、最終的にはカルロヴィッツ条約が結ばれて、オスマン軍は撤退することになりました。

第2次ウィーン包囲

カルロヴィッツ条約

このカルロヴィッツ条約では、ハンガリーなどをオーストリアに割譲することが決められて、オスマン帝国にとって初めて領土を正式に手放す条約になってしまいました。

グシャケン
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威信を回復させるために始めた戦争だったのに。逆に「帝国の衰退のはじまり」を象徴する出来事になってしまいました。

逆にオーストリアはこの条約によって、領土を拡大することになり、東欧の大国としての地位が確立されて、ハプスブルク帝国の繁栄が本格的に始まっていくことになりました。

カルロヴィッツ条約

しかし、これはハンガリーから見れば、新たな支配のはじまりでもありました。

オスマンの支配から解放されたとはいえ、今度はオーストリアによる支配が始まり、ハンガリー内ではオーストリアの支配に不満の声も上がるようにもなっていきました。

こうして、オーストリアはカルロヴィッツ条約を通して強大化することにはなりましたが、ベーメンのチェコ(チェック)人やハンガリーのマジャール人など、同時に他民族の地域を多く抱えることにもなりました。

こうして多民族国家となったオーストリアは、その後の絶対王政を進めていくうえで、民族独立運動という壁にぶつかることになっていきます。

カルロヴィッツ条約 多民族国家化による中央集権化の困難化
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まとめ

MQ:なぜ18世紀の東欧では、プロイセンとオーストリアが強国となったのか?

A:プロイセンが軍事改革と官僚制を軸に絶対王政を築き、ユンカーの支配を基盤に中央集権化を進めた一方、オーストリアはオスマン帝国との戦争に勝利し、カルロヴィッツ条約でハンガリーなどを獲得して領土と影響力を拡大したため。

グシャケン
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今回はこのような内容でした。

次回はプロイセンとオーストリアの2回目として、オーストリア継承戦争七年戦争についてみていきます。プロイセンとオーストリアはどのような関係を築いていったんでしょうか?

それでは次回もお楽しみに!

「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク

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