[12-3.5]フランス革命⑤(恐怖政治)

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12-3.フランス革命とナポレオン

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はじめに

グシャケン
グシャケン

前回はこのような内容でした。

グシャケン
グシャケン

今回はフランス革命の5回目として「恐怖政治」についてみていきます。国民公会はなぜ「自由・平等」を掲げながら、恐怖政治という独裁体制を選ばざるをえなかったんでしょうか?

それでは一緒にみていきましょう!

MQ:なぜ革命政府は、恐怖政治という独裁体制を選ばざるをえなかったのか?

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対仏大同盟の結成と内戦

第1回対仏大同盟の結成

SQ:なぜ革命政府は、戦争と内乱が同時に起こる状況に追い込まれたのだろうか?

前回の[12-3.4]フランス革命④(王権失墜と第一共和政)では、フランス革命において決定的な転機を迎えました。

国民公会が王権を廃止して、共和政を宣言して第一共和政が成立しました。

それと同時に、ルイ16世を反革命の罪で裁判にかけて、ギロチンによって処刑しました。

この国王の処刑は、革命が成功したことを表す出来事になりましたが、、周辺のヨーロッパ諸国には強烈な衝撃を与えました。

革命の拡大を恐れたイギリスが周辺諸国に呼びかけて、イギリス・オーストリア・プロイセン・スペイン・オランダなどからなる第1回対仏大同盟を結成して対抗しようとしたんです。

グシャケン
グシャケン

イギリスは当時、産業革命が起きていたので、革命運動で市場を荒らされるのを警戒したようです。

こうして革命を潰そうとする周辺諸国によって、フランスは包囲されてしまうことになりました。

フランス革命はもはや国内問題ではなく、ヨーロッパ全体を巻き込む戦争へと発展していくことになりました。

第1回対仏大同盟

内戦

そして、フランス国内でもある危機が深刻化していました。

それが「内戦」です。

地方では、国王を支持していた農民たちが、貴族に率いられて反革命の武装蜂起を起こしていました。

グシャケン
グシャケン

全員が革命を支持していたわけではなかったんですね。

これに対して、対外戦争もあって兵力不足で悩んでいた国民公会は、徴兵制(国民皆兵)を実施して対応しようとします。

しかし、徴兵への反発も重なってしまい、革命軍との間で激しい内戦に発展していくことになってしまいました。

国王派による農民蜂起
SQ:なぜ革命政府は、戦争と内乱が同時に起こる状況に追い込まれたのだろうか?

国王処刑によって周辺諸国から革命拡大を恐れた干渉戦争を受ける一方、国内では王党派農民の反乱や徴兵への反発が起こり、対外戦争と内乱が同時に発生したため。

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国民公会の内部対立(山岳派の台頭)

こうした非常事態の中、国民公会の内部でも対立が激化していました。

立憲君主政を支持していたフイヤン派の勢力はすでに姿を消してしまい、議会は三つの勢力に分かれて対立しました。

ジロンド派

地方自治や自由な経済活動を重視し、ブルジョワの立場を代弁。

パリの民衆が直接政治に介入してくることには慎重な立場。

革命は進めるものの、急激な変化は避けたいと考える穏健派

山岳派

国を強くまとめる中央集権を重視し、物価統制などで人々の生活を守ろうとしました。

都市の下層民衆や農民の声を重視し、「財産を守ることよりも、まず生きることが大切だ」という考え方を打ち出した急進派

グシャケン
グシャケン

議会で最も高い位置に議席が集まっていたので、山岳派と呼ばれました。

平原派

ジロンド派と山岳派のどちらにもはっきりとはつかず、その時々の状況によって立場を変える中間的な人たち

国民公会内の対立 山岳派 ジロンド派 平原派

この3つの勢力では、多数派を占めていたジロンド派が政権を担っていましたが、対外戦争や、国内での民衆蜂起に手を焼いてしまい、次第に慎重な姿勢が「革命への取り組みが甘い」と批判されるようになっていきます。

そのような状況を打開しようと、山岳派とサンキュロット(下層市民)が結びついて、議会を包囲して、

サンキュロット
サンキュロット

砲手、位置につけ!

という脅しを議会にふっかけて、それに屈するかたちで、ジロンド派の追放が決議されて、急進派の山岳派が政権を握ることになりました。

グシャケン
グシャケン

ここから革命は、急進的な方向へと大きく舵を切っていくことになります。

山岳派の政権掌握
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恐怖政治

公安委員会

政権を握った山岳派は、反革命運動と対外戦争という危機から革命を守るために、国民公会内に公安委員会という機関を設置して、革命を守るための強気な政策を次々と実行していきました。

公安委員会がおこなった政策は以下の通りです。

・亡命貴族の土地を没収

・生活必需品の価格統制

・封建的特権の無償廃止

・食糧の買い占め禁止

グシャケン
グシャケン

これらはサンキュロットなどの都市民衆や農民から支持を得る一方で、反革命勢力への締め付けを強めるものでした。

公安委員会による政策

1793年には、より民主的な内容に改定した1793年憲法が制定されます。

しかし、山岳派は「非常事態」を理由に、この憲法を施行しないまま政権を握り続けてしまったんです。

これは当時、海外との全面戦争と内乱が続いていたので、「自由・平等」よりも「国家の存続」を優先して、公安委員会に権力を集中させるためだったんです。

こうして、山岳派によって革命はより民主的な「理想」を掲げましたが、現実では「非常事態」を理由に公安委員会に内政や戦争の権限が集中していく独裁体制になっていきました。

公安委員会(山岳派)による独裁体制 1793年憲法

ロベスピエールの恐怖政治

そして、この公安委員会の中心人物となったのが、ロベスピエールという人物でした。

ロベスピエール

ロベスピエールは、ブルジョワなどが権力を握ることを非難し、あらゆる人々に権利と富を保障しようとした、革命の理念である「平等」の実現を徹底しようとした人物でした。

ロベスピエール
ロベスピエール

革命を守るためには、革命の敵を容赦なく排除しなければならない!

と考えていたことから、公安委員会を中心におこなったのが、恐怖政治と呼ばれるものでした。

この恐怖政治はその名の通り、貴族や聖職者に限らず、革命家同士であっても反革命の疑いが少しでもあれば、次々と逮捕して処刑していったんです。

マリ=アントワネットやジロンド派も彼によって処刑され、農民蜂起に参加した女性や子どもも容赦なく処刑していきました。

グシャケン
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正式な裁判でよって処刑された人数だけでも1万6000人にも及びました。

パリのギロチン刑だけでも約3000人が処刑され、ギロチンは「平等な死」を与える装置として、革命の象徴になっていきました。

ロベスピエールは革命に対して「まじめ」であったために、それを守ろうとした結果、「恐怖の独裁」によって国家を統治することになってしまったんです。

ロベスピエールの恐怖政治

同時に、文化の面でも革命の理念に沿った急進的な改革が進められました。

・グレゴリウス暦に代わる革命暦の制定

・カトリック教会の影響力排除(脱キリスト教化)

この革命暦によって曜日が10日単位になり、日曜日も消えてしまった革命暦は、人々の生活リズムを大きく変えることになりました。

グシャケン
グシャケン

これも日曜日にカトリック教会に通う習慣をなくすためでした。

ちなみに、「日曜日」がなくなったことで、労働者たちは「休みが減った」と不満を漏らしていたそうですよ。

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テルミドールの反動

ロベスピエールによる恐怖政治の最中、フランスは劣勢だった対外戦争で革命軍や義勇軍の奮闘もあって、次第に優勢に立つことに成功していき、国家と革命の危機は後退していくことになりました。

これによって、「非常事態」を理由に権力を集中していた恐怖政治と独裁体制への不満が一気に噴き出すことになったんです。

グシャケン
グシャケン

国家の存亡を優先するための独裁だったんで、「もう必要ないんじゃないの?」とみんなが思い始めたわけです。

ロベスピエールは反革命派だけでなく、過激すぎる民衆運動の指導者すら反革命疑惑で処刑の対象にしていたので、次第に支持層だったサンキュロット(下層市民)たちからも距離を取られるようになっていきました。

グシャケン
グシャケン

「革命遂行」の思いが強すぎて、行き過ぎてしまったんです。

しかも、公安委員会による改革は、時間が経たないと効果が表れないものばかりだったので、民衆からの支持を集めにくいという欠点もあり、ロベスピエールへの不満は増す一方だったんです。

恐怖政治への不満

そして、国民公会の内部でロベスピエールと政敵だった穏健派などが、ロベスピエールの独裁を打倒するためのクーデタの決行を決断します。

それがテルミドールの反動と呼ばれるものでした。

グシャケン
グシャケン

テルミドールとは、クーデターの決行日が革命暦でテルミドールの9日だったことから、このように呼ばれています。

国民公会の開会中に、

暴君を倒せ!

という叫び声とともにロベスピエール逮捕の採決が強行されることになり、賛成多数でそれが可決されてロベスピエールが逮捕されることになりました。

その後、ロベスピエールは自殺しようとしますが失敗してしまい、数千人の命を奪ったギロチンに自らかけらえれて処刑されることになり、恐怖政治は終わりを迎えることになったんです。

テルミドールの反動
テルミドールの反動

SQ:恐怖政治の革命を「守った点」と「裏切った点」とは?

恐怖政治は、革命を「守った点」と「裏切った点」の両方を持っていました。

「守った点」

1793年当時のフランスは、対外戦争と国内の反革命運動が重なって、革命そのものが崩壊しそうな非常事態でした。

このような状況でロベスピエール率いる公安委員会は、反革命勢力を徹底的に抑え込んで、民衆の支持をつなぎ止める政策を強行して、国家と革命を存続させることに成功しました。

この点では、恐怖政治は革命を守る役割を果たしたと言えます。

「裏切った点」

しかしその一方で、恐怖政治は自由や人権を重視する革命の理念と大きく矛盾していました。

1793年憲法を制定しながら施行せず、反革命の疑いだけで多くの人々を処刑したことは、革命が掲げた理想を自ら否定する行為になってしまいました。

ロベスピエールは「平等」を実現するために真剣に取り組みましたが、その結果、生まれたのは恐怖によって民衆を支配する独裁体制だったんです。

SQ:恐怖政治の革命を「守った点」と「裏切った点」とは?

恐怖政治は、革命が崩壊しかねない非常事態の中で国家と革命を存続させた点では「革命を守った」と言えるが、自由や人権を尊重するという革命の理念を踏みにじった点では「革命を裏切った」とも言える。

恐怖政治の革命を「守った点」と「裏切った点」とは?
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まとめ

MQ:なぜ革命政府は、恐怖政治という独裁体制を選ばざるをえなかったのか?

A:革命政府は、国王処刑後に対仏大同盟との全面戦争と国内の反革命的内乱が同時に進行する非常事態に直面し、革命と国家の存続を最優先するため、自由や人権を一時的に制限してでも権力を集中させる恐怖政治という独裁体制を選ばざるをえなかった。

グシャケン
グシャケン

今回はこのような内容でした。

次回は、フランス革命の6回目として「ナポレオンの登場」と「革命の終了」についてみていきます。革命はどのような終わりを迎えたんでしょうか?

それでは次回もお楽しみに!

「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク

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グシャケン
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