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前回はこのような内容でした。


今回はフランス革命がついに始まるところについてです。今回話す全国三部会がフランス革命の出発点となったんですが、なぜここが出発点となったんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:なぜ全国三部会が、フランス革命の出発点となったのか?
財政危機

ここの章は前回の[12-3.1]フランス革命①(旧体制と財政赤字)の復習になります。
18世紀のフランスでは、長期にわたる対外戦争によって、深刻な財政赤字に陥っていましたよね。
なので、この財政危機を解決するために、当時のルイ16世は改革に乗り出しました。

絶対王政を極めたルイ14世からの戦費や宮殿の建設費が溜まり溜まって、ルイ16世の時代に限界を迎えたんです。ルイ16世の立場に立つと、ちょっとかわいそうですよね。
そこでは、それまでほとんど課税されてこなかった第一身分(聖職者)と第二身分(貴族)にも課税を拡大しようとします。
しかし、既得権益を持つ特権身分から猛烈な反発に合ってしまい、国王の権限だけでは財政改革を押し切れない状況にまでなってしまいます。

財務総監に任命したテュルゴーやネッケルの改革はことごとく失敗しましたもんね。

全国三部会の開会
開催準備と言論の自由化
こうして、改革に限界を感じたルイ16世は、

よし!こうなったら国民の代表者を集めて、特権身分への課税の有無を決めてもらおうじゃないか!
ということで開会が宣言されたのが、全国三部会でした。

なんと、この全国三部会は17世紀はじめに休止状態になってから、175年もの歳月をかけて復活した身分制会議でした。
絶対王政下のフランスでは、王権の権限を邪魔するとして開かれなくなっていたんです。
しかし、この全国三部会の開会は、それまでの国王による統治では絶対王政を維持できなくなったことも意味してました。
全国三部会の開会が決まると、その準備として、全国各地で全国三部会に出す意見書をまとめる作業が進められていきました。
この意見書の準備は単なる形式的なものではなく、民衆たちによる「政治への意見=言論の自由」が許された画期的なものでした。
各地で集会がおこなわれて、民衆たちから税制改革や特権身分を改めることを求める声が次々と文章としてまとめられて、ブルジョワジー(知識人)が執筆したパンフレットも大量に出版されることになりました。

当時、広がっていた「啓蒙思想」も相まって、新聞やカフェで情報を共有する場ができて、ブルジョワジーたちによる「世論の形成」が起きたんですよね。

その中でも、特に大きな影響を与えたのが、シェイエスという人物が書いた『第三身分とは何か』という著書です。

この著書では、「第三身分こそが国民である」という主張をしていて、「旧体制(アンシャン=レジーム)」を正面から批判したことから、大きな反響を呼びました。

シェイエスは聖職者だったんですが、第一身分としての立場を否定して、自分を第三身分の代表だと認識して、全国三部会に参加していました。
第三身分は、国家財政を支える重税を負担しながらも政治的発言権がほとんどなく、第一身分・第二身分の特権のもとで支配されていました。
この負担と権利の不公平さが、全国三部会の開催を巡って世論の中心にありました。
なので、全国三部会の招集に向けて意見が集められるなかで、シェイエスの主張は第三身分の人たちに強い影響を与えました。
こうして、第三身分を中心に、特権身分を批判する世論が急速に広がっていくことになりました。

第三身分の民衆たちは『第三身分とは何か』を通して、自分たちを「国民」として意識し始めるようになり、後に起こるフランス革命の起爆剤になっていくことになります。

開会と投票方法をめぐる対立
世論が盛り上がるなか、ついに1789年5月5日、ヴェルサイユ宮殿で全国三部会が開会されます。
議席数は第一身分と第二身分が各300名、第三身分が600名とされて、第三身分の定員が倍を占めていました。

でも、人口比から見ればまだまだ不均衡ですよね。
この全国三部会は、「特権身分への課税の是非」を決めるために開かれた身分制会議でした。
しかし、この会議で一番の争点となったのが、「課税の有無」ではなく、その「議決方法」だったんです。
第一身分・第二身分は、それまでのやり方だった各身分が一票ずつ持つ「身分別投票」を主張していました。
これに対して第三身分は、各議員全員が一票ずつ持つ「人数別投票」を主張して、第三身分の数の優位を反映させようとしました。

それぞれが勝てる方法を主張したので、決まるわけがないですよね。
この議決方法を巡って対立した結果、全国三部会は召集されたにもかかわらず、議決すらできない状況に陥ってしまったんです。

ちなみにこの時、ルイ16世はあくまで調停者として、議決方法を明言せずに、議論を静かに見守っていたそうです。

国民議会と球戯場の誓い(テニスコートの誓い)
国民議会の誕生
この議決方法を巡って、「第一・第二身分 VS 第三身分」で対立が起きて、議論が前に進まない状況が続きます。
そんな中で、大きな動きを見せたのが第三身分でした。
第三身分の代表として参加していた『第三身分とは何か』の著者シェイエスが、

こんな身分制議会(全国三部会)はバカバカしい!
我々(第三身分)が正統な国民の代表なのだから、我々だけで“議会”を作ろうじゃないか!
という「第三身分だけの議会」を作る提案したことで、第三身分の代表者たちは全国三部会から勝手に離脱してしまい、第三身分だけの「憲法を制定するための議会」の成立を宣言したんです。
これによって、誕生したのが国民議会と呼ばれるものでした。

球戯場の誓い(テニスコートの誓い)
国民議会の成立に対して、特権身分たちはこの議会の存在を否定して国王ルイ16世に助けを求めます。

特に第二身分の貴族層からの反対が多かったんですが、第一身分は下位聖職者たちを中心に、この国民議会に合流することに前向きだったみたいですよ。
ルイ16世は助けに応じて、国民議会に対して議会場の使用を禁止して閉鎖するという措置を採ります。

国民議会の存在は王権の弱体化を意味しますからね。簡単に認めるわけにはいかないですよね。
議会場に入れなくなった第三身分の議員たちは、そんなことではめげずに、ヴェルサイユ宮殿の近くにあった球戯場(テニスコート)に集まり、熱狂しながら次のような誓いを立てました。
「憲法が制定されるまでは議会を解散せず、どんな場所でも議会を開くぞ!」
この一連の流れが、有名な「球戯場の誓い(テニスコートの誓い)」です。
この誓いは、第三身分が国王の権威に屈せず、憲法制定という目的のために結束することを示した出来事になり、その後に起きるフランス革命の重要な転換点となりました。


王権の動揺と革命の拡大
バスティーユ牢獄の襲撃
この国民議会の強気な姿勢に対して、ルイ16世は対抗するために約2万におよぶ軍隊をヴェルサイユ周辺に集結させようとしました。
この動きがパリの民衆に伝わると、「国民議会が武力で弾圧されるのではないか。」という危機感が一気に高まって、市民は国家に対して決起することを決意します。
それによって起こったのが、バスティーユ牢獄の襲撃でした。

1789年7月14日に、パリの民衆は武器や弾薬を手に入れるために国の施設を襲撃しますが、それでもまだ不足していたところに、

バスティーユ牢獄に弾薬庫があるらしいぞ!
という、うわさが広がったことから、弾薬を求める民衆がバスティーユ牢獄に殺到する騒ぎがおきます。
集まった民衆は弾薬を明け渡すよう交渉しますが、守備隊はこれを拒否します。
緊張が高まる中、守備隊が発砲してしまったことをきっかけに戦闘が始まってしまい、結果、守備隊は降伏して牢獄が陥落することになりました。
こうして、民衆たちは武器と弾薬を手に入れて、勢いそのままに革命を推し進めていくことになりました。

政治的なフランス革命は全国三部会が始まりですが、物理的な革命はここから始まりました。


SQ:バスティーユ牢獄襲撃の歴史的意義とは?

では、このバスティーユ牢獄の襲撃は、歴史的に見て、どのような意味があったんでしょうか?
まず、バスティーユ牢獄とは、もともとパリの防衛のために建設された要塞で、城壁は高さ約30メートル、周辺の塹壕は幅約25メートルもある堅牢(けんろう)な要塞でした。
宰相リシュリューの時代から牢獄として使われるようになり、主に王政に反対する政治犯を収容する牢獄として使用されていました。
・裁判なしで投獄可能
・絶対王政を象徴する存在
という特徴から、民衆からは「いつ自分が閉じ込められるかわからない」という恐怖の対象として存在していました。
このように、バスティーユ牢獄は「フランス絶対王政の象徴」とみなされていたんです。
スライド(バスティーユ牢獄)
なので、そのバスティーユ牢獄が民衆による襲撃によって陥落したということは、
絶対王政の“象徴”が崩れた=絶対王政の“権威”が崩れ始めた
ということを意味することになり、バスティーユ牢獄の襲撃が、「民衆が革命の主役」として登場した最初の瞬間になったんです。
絶対王政の象徴であったバスティーユ牢獄が民衆の力によって打ち倒されたことで、王権の権威が崩れ始め、民衆が革命の主役として歴史の表舞台に登場した最初の瞬間となった点

革命の拡大
バスティーユ牢獄襲撃のニュースは瞬く間に全国へと広がっていきました。
そしてその過程では、

貴族が反革命を企てているらしいぞ。
という、うわさも拡散され、農民や都市民衆の恐怖や不安も一緒に広がっていきました。
このバスティーユ牢獄の襲撃やうわさに影響された各地の民衆たちは、同じように蜂起を起こすことになり、農民も領主である貴族の屋敷を襲撃するなどの事件が各地で起きました。
結果、フランス革命は都市から農村へと広がっていき、フランス全土を巻き込む革命に発展していくことになりました。

まとめ
MQ:なぜ全国三部会が、フランス革命の出発点となったのか?
A:財政危機をきっかけに招集された全国三部会が、第三身分の政治的自覚と世論の高揚を促し、王権と身分制そのものを問い直す場へと変質して、最終的に国民議会の成立と民衆蜂起へとつながったため。

今回はこのような内容でした。

次回は、フランス革命の3回目として「人権宣言と立法議会」についてみていきます。なぜフランス革命は、「人権宣言」を通して政治と社会を作り直そうとしたんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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