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[11-4.1]オランダの繁栄

11-4.オランダ、イギリス、フランスの繁栄

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はじめに

グシャケン
グシャケン

前回はこのような内容でした。

グシャケン
グシャケン

今回はオランダの繁栄についてです。近世になぜオランダは経済大国になることができたんでしょうか?

それでは一緒にみていきましょう!

MQ:近世にオランダはなぜ経済大国になることができたのか?

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オランダの経済発展

ネーデルランドの発展

16世紀後半、現在のオランダ周辺を指すネーデルランドでは、干拓農業や漁業の技術が飛躍的に発展していて、おまけに毛織物業の技術もヨーロッパで最高の水準を誇っていました。

グシャケン
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ではなぜ、このネーデルランドで漁業と干拓農業、毛織物業の技術が発展したんでしょうか?

ネーデルランドの発展

SQ:なぜネーデルランドでは漁業や干拓農業、毛織物業の技術が発展していたのか?

①生きるための「干拓」の知恵

ネーデルランドは、その国土の多くが海抜が0メートル以下の低地帯でした。

なので、湿地や沼地が多く、高潮や洪水などの自然災害などのリスクとも常に隣り合わせの状況でした。

グシャケン
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なので正直言うと、本来は人が住むにはあまり適していない土地なんですね。


このような厳しい自然環境だったんですが、そこに住む人たちは生きるために「土地をつくる」必要に迫られます。

そしてネーデルランドの人々が考え抜いて考案されたのが、堤防を築いて、風車で水をくみ出し、湿地を農地に変える「干拓(かんたく)技術」だったんです。

この干拓技術の開発によって、ネーデルランドでは農作物が栽培できるようになり、やがてネーデルランドの国土そのものを形づくる大事業へと発展していくことになりました。

グシャケン
グシャケン

だからオランダでは風車が有名なんですね。

なぜネーデルランドでは漁業や干拓農業、毛織物業の技術が発展していたのか? 干拓技術

②海に開かれた地形

低地帯のネーデルランドですが、北海に面していたことで、豊かな漁場には恵まれていました。

グシャケン
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北海は水深が浅くて太陽光が海底まで届くので、植物性プランクトンが良く育つのと、大西洋からの暖流と北極からの寒流がぶつかる位置でもあるので、動物性プランクトンも豊富で、魚たちの楽園だったんです。

特にニシン漁が盛んで、塩漬け保存や加工技術が発達して、輸出産業としても大きな役割を果たしていました。

グシャケン
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現在ではニシン漁は小規模化していますが、6月に「新ニシンの解禁日」というお祭りがあったりと、昔からの伝統が続いているんですよ。

これらの漁業は、単なる食料の確保だけにとどまらず商業都市の発展や海運技術の向上にもつながっていき、のちの「海洋帝国オランダ」への基礎となっていったんです。

なぜネーデルランドでは漁業や干拓農業、毛織物業の技術が発展していたのか? 海に開かれた地形

③手仕事の都ネーデルランド

もともと北ヨーロッパ商業圏に組み込まれていたネーデルランドでは、北海を挟んで隣だったイギリスから羊毛を輸入して毛織物を生産して、それを北ヨーロッパ商業圏の交易網を利用して、ヨーロッパ各地に輸出することができたんです。

しかも、宗教改革の影響で、毛織物業の一大産地だったフランドル地方から、弾圧から逃れてきたプロテスタントの職人たちが移住してきたことで、高度な毛織物産業の技術が伝わ高水準の製品を作ることができるようになりました。

グシャケン
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あと、プロテスタントカルヴァン派の勤勉さも高水準の維持に貢献したそうですよ。

宗教改革やプロテスタントについてはこちら!

さらにその毛織物の生産の過程では、都市の同職ギルドたちによって分業体制が徹底されたことで、常に製品のクオリティを保つことができたので、ヨーロッパでの需要が高まっていったんです。

なぜネーデルランドでは漁業や干拓農業、毛織物業の技術が発展していたのか?
SQ:なぜネーデルランドでは漁業や干拓農業、毛織物業の技術が発展していたのか?

低地の自然環境に対応するため干拓農業が発展し、北海の豊かな漁場を活かして漁業が栄えた。さらに、商業圏とのつながりや移民職人の技術により毛織物業も発展した。

アムステルダムの繁栄

ネーデルランド北部にあたるオランダでは、こうした交易や産業の発展によって、独立後の首都となったアムステルダムを中心に、都市が急成長して商業活動が活発化していきました。

グシャケン
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アムステルダムはもともと交易によって発展した商業都市でした。

都市が発展して人口が増大すると、さらに漁業や海外交易の拡大が必要になっていきます。

なので船の需要も高まり、造船所では大量生産方式が導入されて、短期間で高性能な船が次々と建造されるようになりました。

グシャケン
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17世紀中頃には、オランダ製の船がヨーロッパの大半を占めて、イギリス船舶の3倍の船を所有していたそうですよ。

これらの大量の船を使った交易や海外進出によって、アムステルダムでは世界各地の特産品が集まるようになり、商取引がさらに活発になっていきました。

アムステルダムの発展

商取引の発展によって、各国の通貨が大量に取引されるようになったので、それらを交換する為替の専門家たちが現れます。

それが通貨を管理する専門家の“銀行”などの金融業です。

1609年に設立されたアムステルダム銀行では、各国の通貨を預かって為替の取り引きを仲介することで、ヨーロッパ中の商人から信用を得て頼りにされるようになります。

グシャケン
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みんな口座を持って通貨を預けていれば、取引の際は口座の数字を変えるだけでいいので作業が楽なんです。

こうして金融の規模もグングン拡大していき、アムステルダムは、ヨーロッパの金融の中心地として成長していきました。

アムステルダムは、船で世界を結び、金で世界を動かす「ヨーロッパの心臓」として、ヨーロッパをリードしていく存在へとなっていったんです。

アムステルダムの発展 アムステルダム銀行

オランダの全盛期

17世紀になると、オランダはヨーロッパで最も都市化が進んでいき、貴族だけでなく、莫大な富を築いた裕福市民(ブルジョワ)も文芸を保護するようになり、文化面でも発展をみせました。

加えて、宗教や思想に寛容的だったことから、さまざまな学問が研究されるようになり、出版を通して、オランダはヨーロッパの学問の中心地にもなっていきました。

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オランダ東インド会社

設立

オランダは、独立戦争でスペインから事実上の独立を達成すると、スペインやポルトガルに対抗して、アジアに向けて海外進出していくことになります。

その過程で誕生したのがオランダ東インド会社でした。

オランダ東インド会社
グシャケン
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ここからは、なぜ東インド会社が設立されて、どのような特徴をもっていたのかについてみていきましょう。

1581年、オランダは独立戦争中に、スペインからの独立を宣言します。

しかし、スペインはこれに猛反発して、オランダとの貿易を全面禁止し、オランダ船を捕まえることを命じます。

これによってポルトガルのリスボンなどの港が使えなくなってしまい、オランダ商人たちは香辛料などの取り引きをおこなうためには、自分たちで直接アジアに取りにいかなければならなくなったんです。

こうして、オランダの商人たちは航海失敗を繰り返しながら、喜望峰を回る南回り航路で、ついにジャワ島のバンテンというところに到達します。

この成功がオランダ商人たちに火をつけて、貿易会社が次々と設立されて競争し合うようになり、海外貿易が盛り上がりをみせます。

オランダの東南アジア進出

しかし、ここでイギリスで東インド会社という巨大組織が誕生したことで、オランダ商人はこの脅威に対抗するために、競合する会社たちを1つにまとめる必要に迫られました。

こうして、各地の貿易会社が連合して設立されたのが、貿易特許会社のオランダ東インド会社だったんです。

オランダ東インド会社の設立

特徴

グシャケン
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ここからはオランダ東インド会社の特徴についてみていきます。

●株式会社の原型

オランダ東インド会社は、「世界初の株式会社」といわれています。

イギリス東インド会社は1回の航海ごとに出資を募集する方法だったのに対し、オランダ東インド会社は常に出資を募って莫大な資本(資金)を貯めて航海を計画していました。

さらに出資者(お金を出してくれた人)は有限責任と呼ばれるルールで守られていました。

この有限責任とは、「出したお金の分だけ利益がもらえ、失敗しても出した分のお金だけ責任を負えばいいよ。」というルールで、比較的少額から出資できた点からリスクが少なく、出資者たちは安心してお金を出すことができたので、莫大な資金を集めることができたんです。

グシャケン
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少人数で船や物資を準備するにはお金が足らないので、「利益を分けるからお金を出してください。」という方法で、多数から少しづつお金を集めて、航海を可能にしていたんです。

グシャケン
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イギリス東インド会社は航海ごとに募集したので、募る出資額も大きく、失敗して場合の損害も大きくなり、会社の借金は出資者が財産を売ってでも返済しなければいけないというリスクがありました。これを無限責任といいます。

オランダ東インド会社の特徴 有限責任 世界初の株式会社

出資者には出資した証拠として、株式証券という、出資額とそれに対する利益配分を保障する証明書が渡されました。

この株券は自由に他人と売買することもできました。

なので、オランダ東インド会社はこうした現代の株式会社の原型となる仕組みを備えていたことから、「世界初の株式会社」と呼ばれているんです。

オランダ東インド会社の特徴 世界初の株式会社

●特許と独占

このオランダ東インド会社の経営を任されていたのは、特に大きな出資をしていた17人の取締役会でおこなわれていました。

から貿易独占の特許状を授かって、喜望峰からマゼラン海峡に至る広大な海域での貿易独占権を手にしていました。

その範囲はインド洋から東アジアにまで及び、貿易だけに留まらず、条約締結や戦争、要塞建設や貨幣鋳造といった権利まで持ち、東インドにおいてはまさに「国家」のような存在になっていきました。

グシャケン
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ここはイギリス東インド会社と同じですね。

オランダ東インド会社の特徴 特許と独占
オランダ東インド会社の皿 VOC

SQ:イギリス東インド会社とオランダ東インド会社の違いと共通点をまとめてみよう!

グシャケン
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ではここで、イギリスとオランダの2つの東インド会社の特徴の違いと共通点についてまとめてみましょう。

まとめるとこんな感じですかね。

SQ:イギリス東インド会社とオランダ東インド会社の違いと共通点をまとめてみよう!

イギリス東インド会社とオランダ東インド会社は、どちらもアジア貿易を担う「国家の代理人」だったが、資金調達の仕組みに違いがあった。イギリスは航海ごとに出資を募る無限責任制、オランダは常時出資を募る株式方式(有限責任制)で、後者は「世界初の株式会社」とされている。

イギリス東インド会社とオランダ東インド会社の違いと共通点をまとめてみよう!
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海外進出

アンボイナ事件

このオランダ東インド会社が担い手となって、オランダは海外進出を推し進めていくことになります。

アメリカ大陸のカリブ海やアフリカ南部、アジアなどに進出していきましたが、アジアではすでにポルトガルとスペインが進出していたので、その勢力と衝突することになりました。

当時、スペインに併合されていたポルトガルの拠点に対して、オランダは容赦なく攻勢をかけていきます。

グシャケン
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ポルトガルはアジアにたくさん拠点を持っていましたからね。

各地でポルトガル勢力を追い出していき、ポルトガルが持っていた貿易ルートや資源を次々と手中に収めていったんです。

グシャケン
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逆に交易網を破壊されたポルトガルは、アジアから手を引いて、南米のブラジルの開発と交易に力を注ぐようになっていきました。

オランダの海外進出 ポルトガル・スペインとの衝突

こうして、アジアで勢力を拡大していったオランダですが、ここで独立戦争時に支援してくれたイギリスとも東南アジアで衝突することになってしまったんです。

イギリスは当時、アルマダ海戦でスペインの無敵艦隊を破ったことで制海権を広げて、東インド会社を中心にアジアの海上交易で台頭して、オランダの勢力圏を脅かす存在になっていたんです。

その台頭したイギリス東インド会社とオランダ東インド会社が勢力圏を巡って衝突したのが、アンボイナ事件と呼ばれるものでした。

アンボイナ事件

アンボイナ事件は、現在のインドネシアのモルッカ諸島で起きたイギリスとオランダの緊張を一気に高めた出来事です。

当時、香辛料貿易の拠点だったアンボイナ島では、オランダ東インド会社が支配権を握っていました。

そこにイギリス東インド会社の商館もあり、両者は一応協力関係にあったんですが、オランダ側が、

オランダ
オランダ

イギリス人が傭兵を使ってこちらを襲撃しようとしている。

という、「イギリス人の陰謀」を主張して、イギリス人や傭兵だった日本人らを逮捕してしまったんです。

逮捕者たちは拷問にかけて罪を認めさせ、最終的に処刑してしまいました。

グシャケン
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実は、イギリスが襲撃を計画した事実はなかったらしく、オランダがモルッカ諸島の香辛料を独占するためにおこなったでっちあげだったとも言われています。

アンボイナ事件

この事件を機に、オランダはイギリス勢力をモルッカ諸島から排除して、ジャワ島のバタヴィア(現在のジャカルタ)を拠点に東南アジアの香辛料貿易を独占することになったんです。

バタヴィア オランダの香辛料貿易独占

日本との貿易

また、オランダは東南アジアだけでなく、日本(江戸時代)とも交易をおこなっていました。

当時、日本では「鎖国」政策が採られていたので、スペインやポルトガルは来航が禁止され、イギリスも「貿易が制限されている状況では採算が取れない。」として商館を撤退している状況でした。

しかし、オランダはその後も日本との貿易を維持し、幕府からヨーロッパで唯一貿易が認められた国家として、大量の銀を持ち出て、ヨーロッパ諸国の中で対日本貿易の利益も独占することになっていきました。

グシャケン
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オランダはキリスト教の布教とかは関係なく、「貿易だけさせて。」というスタイルを貫いたので、幕府から信頼を得ることができたんです。

オランダと日本の貿易

ニューアムステルダムの建設

さらにオランダは、西側の大西洋の黒人奴隷貿易にも進出していき、アメリカ大陸の植民地の獲得にも乗り出していきました。

アメリカ大陸では、先住民からマンハッタン島を安く買い取りニューアムステルダム」という都市を築いて、植民地を建設しました。

グシャケン
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しかし、オランダの関心は南米の砂糖プランテーションや奴隷貿易にあったので、北米の植民地経営にはあまり熱心ではなかったそうです。

そのため、その後ニューアムステルダムはイギリスに奪われて「ニューヨーク」と改名されることになるんです。あの「ニューヨーク」はオランダが発祥だったんですね。

ニューアムステルダムの建設
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まとめ

MQ:近世にオランダはなぜ経済大国になることができたのか?

A:干拓農業や北海を活かした漁業、毛織物業などの基盤産業の発展に加え、アムステルダムを中心とする商業・金融の成長があったためである。また、世界初の株式会社であるオランダ東インド会社によってアジア貿易を独占し、積極的な海外進出を進めたことも、経済大国に成長した要因になった

グシャケン
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今回はこのような内容でした。

次回は、オランダの衰退についてみていきます。なぜこれほど繁栄したオランダはそれらを失ってしまったんでしょうか?

それでは次回もお楽しみに!

「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク

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