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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回は近世のポーランドとスウェーデンについてです。この2つの国家は主権国家体制の中でどんな国家を築いていったんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:なぜポーランドは消滅して、スウェーデンは存続することができたのか?
東欧・北欧の不安定さ
近世の北欧や東欧諸国では、イギリスやフランスにような西欧諸国とは違って、植民地帝国を築くことはできませんでした。

大西洋に接していなく、人口や資源が少なかったことなどが、植民地獲得競争に入れなかった要因だったみたいです。
なのでそれらの地域では植民地獲得の代わりに、領土を奪い合うことでお互いに勢力を拡大しようと努めていました。

なので、北欧や東欧では西欧以上に国家の興亡が激しかったそうですよ。
その結果、ポーランドやスウェーデンなどでは、民族や宗派の異なる地域を同君連合でまとめるという、きわめて不安定な国家システムを抱えることになりました。
同君連合・・・1人の君主が、他国の君主を兼任する状態。

ポーランド
選挙王政と国力衰退
ポーランドはリトアニアと同君連合(ヤゲウォ朝)を結んで、16世紀の初めには東欧の大国として君臨していました。
しかし、そのヤゲウォ朝の血筋が断絶してしまうと、ポーランドはその後、選挙王政という制度に移行していくことになります。

選挙王政はドイツの神聖ローマ皇帝などでもおこなわれていましたね。
この選挙王政とは貴族たちが国王を選出する制度で、貴族たちで構成される議会によって国王の暴走を抑えることができ、いろいろな意見を政治に取り入れることができる画期的なシステムでした。

今後、王位継承問題で国内が揉めないように、「貴族たちで決めよう!」となって選挙王政になったみたいですよ。

SQ:ポーランドの選挙王政は政治にどんな影響を与えたのか?
この選挙王政は一見民主的で画期的な制度に感じられますが、実はポーランドの統一を妨げてしまう原因になってしまっていたんです。
議会は貴族などの領主などの支配階級で構成されていました。
なので、貴族たちは選挙王政に対して、

私が甘い蜜を吸える人を国王に選出しよう。
と考え出すわけです。
これによって貴族同士で派閥が作られて、派閥同士で利害が対立するようになります。
その対立は次第に激しくなっていき、派閥同士で政策決定の邪魔までし合うようになります。
こうして政策を統一することが困難になってしまったことで、選挙王政は国家の統一を妨げる要因となってしまったんです。

特に問題だったのが、議会で貴族が1人でも拒否権を使うと、決議が否決されてしまう「自由拒否権」という制度で、国家の政策決定をとても困難にしていました。

加えて、選挙王政ではポーランド人に限らず、外国の王家(例:フランスのヴァロワ家やスウェーデン王家)からも選ばれていました。

貴族たちが自分たちの立場を良くするために、あえて事情のわからない外国王家から招待していたんですよ。
これによって外国勢力の介入も受けやすくなってしまい、議会はさらに混乱するようになってしまいます。
こうした制度のもとで、ポーランドでは貴族同士の政治闘争や周辺諸国の干渉などの混乱が起きてしまい、次第に国力を失っていくことになります。

このような制度は、ポーランドだけでなく神聖ローマ帝国など他のヨーロッパ諸国にも見られましたが、ポーランドでは特に制度の弊害が現れてしまったんです。

貴族たちの利害対立や外国勢力の介入を招き、議会の混乱と政策決定の停滞を引き起こしたことで、国家の統一と安定を妨げる要因となった。
しかし、17世紀末には、ポーランドがウィーンを包囲をしていたオスマン軍に勝利して、ウィーンを救うという快挙を成し遂げたりと、ポーランドは一時的に勢いを取り戻します。
しかし、その時の国王がカトリック信者で、イエズス会を支持して王国の周辺にカトリックを広げようとしたことから問題が起こってしまいます。
プロテスタントのスウェーデンや、ロシア正教会のロシアなどがカトリック化に反発して、ポーランドに侵攻してきたんです。

ロシアはもともとギリシア正教会を国教にしていましたが、本部だったビザンツ帝国が滅亡した後に、ギリシア正教会の保護者を自認してモスクワを本部に宣言したことで、“ロシア正教会”が成立していました。
なんとか事なきを得ましたが、ポーランドのカトリック化は失敗に終わってしまいます。
その後、ポーランド王の選挙を巡ってロシアやフランス、スペインなどが介入してきたことで、ポーランド王位継承戦争が勃発してしまいます。
こうした絶え間ない戦争によってポーランドの財政は破綻してしまい、さらに弱体化していくことになりました。

ポーランド分割
こうして弱体化していったポーランドは、ついに国家として消滅する運命に遭うことになってしまいます。
それがポーランド分割と呼ばれる出来事です。
まず、弱体化したポーランドを危惧した国王は、議会や軍事・財政の改革に乗り出しました。
国家の立て直しを図ろうとしたんですが、これに目をつけたのがロシアのエカチェリーナ2世とプロイセンのフリードリヒ2世でした。
プロイセン王国・・・ドイツ国内の領邦の1つ。

ポーランド国内のギリシア正教徒に政治的な平等を認めなさい。

ポーランド国内のプロテスタントに政治的な平等を認めなさい。
という、ギリシア正教会とプロテスタントに政治的平等を求める名目で政治への介入を始めたんです。

実際には、ポーランドを自国の影響下に置くことが狙いでした。

第1回分割(1772年)
ロシアとプロイセンはまず秘密裏に条約を結び、オーストリアも誘って3国でポーランド分割をすることを約束します。
ポーランド議会は当然これに反対の声を上げつつも、各国の軍隊がポーランド国内に進駐してきて圧力をかけてきたので、各国の圧力に屈服する形で領土の分割を承認してしまったんです。

攻められて国家が消滅するよりマシだと思ったんでしょうね。なんとも屈辱的だったでしょう。
そしてこの3国による分割がおこなわれて、ポーランドの領土は約70%、人口は65%ほどに減少してしまうことになりました。
その後、ポーランドでは第1回分割の反省を受けて、国家の存亡をかけた憲法制定などの改革をおこないます。

実はこの憲法はヨーロッパ史上初の成文憲法で、自由拒否権の廃止や三権分立や立憲君主政の導入など、時代を先取りした画期的な内容だったんですよ。
しかし、画期的だった改革は、成立からわずか2年ほどで役目を失うことになってしまいます。

第2回分割(1793年)
この時期、ヨーロッパ大陸ではフランス革命が起こったことで、王権の打倒が注目を集めていました。
ロシアのエカチェリーナ2世はこのポーランドの憲法制定について「フランス革命の伝染病」と見なして、ロシア軍を派遣してポーランド議会を弾圧しようとします。
プロイセンも、それに乗じてポーランド領土のさらなる分割を要求してきます。

ちなみに第1回分割に参加していたオーストリアは、この時フランス革命軍に敗れて分割に参加する余裕がなかったので、ロシアとプロイセンの2国で分割協定が結ばれることになりました。
この領土分割に関しても、ポーランド議会はロシア軍に監視されながら承認することになってしまい、ポーランドに残された領土と人口は第1回分割前の約30%(20万㎢、400万)、にまで減少することになってしまいました。
議会も形式上は存続していましたが招集されることはなく、事実上ロシアに従属する形になりました。

コシューシコの蜂起
第2回分割によってほとんどの領土を失ってしまったポーランドでしたが、この屈辱に対して抵抗する人々が現れます。
その抵抗運動の中心になったのがコシューシコと呼ばれる人物でした。

コシューシコは、ワルシャワとパリの士官学校で軍事を学んだ後、アメリカに渡って、アメリカ独立戦争に義勇兵として参加した人物でした。
帰国後は、弱体化した祖国ポーランドのために力を尽くすようになります。
ロシアとプロイセンによる第2回分割が強行されると、コシューシコはロシア軍との戦いに加わります。
しかし、ポーランド国王がロシアとの妥協を選択すると、彼はこれに反対して除隊してしまいます。
その後、フランス革命政府に支援を受ける約束を取り付けて、国内で蜂起を起こすことを決意します。

フランス革命に倣って、国を変えないといけないと思ったんでしょうね。
農民軍を組織して蜂起し、一時はロシア軍を破るなどの成果を出します。
しかし、頼みの綱だったフランスからの支援が届かず、ポーランド貴族の協力も得ることができなかったので、次第にロシア軍に追いこまれていくようになります。
そして最終的にはロシア軍がコシューシコを捕虜にして、反乱軍は完全に鎮圧されることになりました。

第3回分割(1795年)
その後、反乱を鎮圧したロシアはその責任をポーランド国王に取らせようとして、国王を退位させてしまいます。
そしてロシア・プロイセン・オーストリアの三国が、残されたポーランド領を完全に分割することになり、ポーランドは国家として完全に消滅することになりました。
その後、ポーランドの独立回復は、123年後の第一次世界大戦後(1918)までかかることになります。

ちなみに最後のポーランド国王は退位した後、ロシアのペテルブルクで年金生活を送っていたそうですよ。そこらへんの配慮はあったんですね。



スウェーデン
バルト帝国
一方、北欧のスウェーデンはポーランドとは対照的な道をたどりました。
16世紀中頃にデンマークからの独立を果たして、ルター派を国教にし、宗教改革の波に乗って国力を高めていきました。
17世紀前半には国王であり英雄のグスタフ=アドルフが登場して、絶対王政を確立させます。
そして三十年戦争ではプロテスタント側の中心としてドイツに侵攻して、国王が戦死するまで各地で勝利を重ねるなどの活躍をみせました。
1648年のウェストファリア条約では北ドイツの領土を獲得したことで、バルト海の沿岸を全て支配することになり、スウェーデンは「バルト帝国」と呼ばれるほどの強国に成長しました。

北方戦争と衰退
しかし、スウェーデンの栄光も長くは続きませんでした。
18世紀初頭、スウェーデンのバルト海支配に脅威を感じたロシアとデンマークが、秘密裏に同盟を結んでスウェーデンの勢力拡大を阻止しようと企みます。
そしてデンマーク軍がスウェーデンに侵攻したことをきっけに、スウェーデン VS ロシア・デンマークという構図で始まったのが北方戦争でした。
初めの方はスウェーデンが戦闘で勝っていましたが、次第にロシアの物量に押されていき、その後20年間続いた北方戦争は、最終的にスウェーデンが敗北する形で講和条約が結ばれました。
ここからバルト海の覇権がロシアに移っていくことになり、スウェーデンの「バルト帝国」の地位は失われていきました。
ヨーロッパの中で規格的人口が少なかったという脆弱さもあり、経済的にも立て直せず、スウェーデンはその後も急速に国際的地位が低下していくことになりました。

その代わりにバルト海を制したロシアがヨーロッパの中で台頭するようになっていき、中心的な大国へと成長していくことになります。そこらへんは次回みていきましょうね。


最後に今回扱ったポーランドとスウェーデンを比較しておきましょう。
| 観点 | ポーランド | スウェーデン |
|---|---|---|
| 政治体制 | 選挙王政(貴族主導) | 絶対王政(国王主導) |
| 宗教政策 | カトリック化を推進(周辺国と対立) | ルター派を国教化(プロテスタント側の中心) |
| 外交・戦争 | 周辺国の干渉を受けやすく、分割される | 三十年戦争で主導権を握るが、後にロシアに敗北 |
| 経済基盤 | 不安定、財政破綻 | 製鉄で一時繁栄 |
| 国家の運命 | 1795年に消滅、1918年に復活 | 18世紀以降は国力低下も国家は維持 |
ポーランドは「国内の分裂」と「海外からの干渉」によって国家を失うことになりました。
一方、スウェーデンは「海外への拡張」と「国内の統制」によって一時的に強国になりましたが、それを持続させるだけの国力はなく、国家は残れど衰退していくことになりました。

まとめ
MQ:なぜポーランドは消滅して、スウェーデンは存続することができたのか?
A:ポーランドは選挙王政により貴族間の対立と外国勢力の干渉を招き、国家統合と政策決定が困難となった結果、諸外国に分割されて消滅した。一方、スウェーデンは絶対王政と鉄資源による経済基盤を背景に一時的な強国化を果たし、国際的地位は低下したものの、国家としての統一を維持し存続することができた。

今回はこのような内容でした。

次回は近世のロシアについてです。ロシアはどのようにして巨大化することに成功したんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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