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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回はフランス革命の「人権宣言」と「立法議会の成立」についてです。「人権宣言」とはどういうもので、なぜ国民議会は「人権宣言」を掲げて、国家を再編しようとしたんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:なぜ国民議会は、「人権宣言」を掲げて、国家を再編しようとしたのか?
封建的特権の廃止
前回の[12-3.2]フランス革命②(全国三部会と国民議会の成立)では、国民議会が成立して、バスティーユ牢獄の襲撃や民衆の蜂起といった出来事で、革命が一気に拡大していきました。
地方でも農民が領主(貴族)の屋敷を襲撃するなど、革命が都市から農村へ拡大していきました。
これは、重い地代や十分の一税、領主裁判権など、封建的な特権身分への不満が、バスティーユ牢獄の襲撃によって一気に噴き出したためでした。
この事態に国民議会は、社会の混乱を収めようと、思い切った決断をします。
それが封建的特権の廃止でした。
領主裁判権や教会の十分の一税は無償で廃止されて、租税を全ての身分で平等に負担しようという案が打ち出されました。
また、特権身分による官職の独占も否定されて、すべての国民が官職に就けるチャンスが与えられました。
地方貴族の特権も廃止されて、領主への地代も有償で免除にすることが可能になりました。

20~25年分の地代を払うと、免除になったそうです。なので、実際に払った人は少なかったそうですが、「特権を廃止」にできるという選択肢ができただけで、大きな進歩ですよね。
こうして、これらの封建的特権の廃止の宣言は、農民の蜂起を落ち着かせる目的で実施されましたが、結果、旧体制(アンシャン=レジーム)という身分制社会そのものも否定する宣言にもなったんです。

SQ:なぜ国民議会は、民衆の蜂起に対して「妥協」ではなく「特権の全面否定」をしたのか?

では、なぜ国民議会は民衆の蜂起に対して、「妥協」ではなく「全面否定」という思い切った決断したんでしょうか?
地方で起こった農民などの蜂起は、単なる暴動ではなかったんです。
その原因と目的とは、
〈原因〉
・重い地代や十分の一税、領主裁判権など、封建的特権そのものへの不満が爆発したもの。
〈目的〉
・農民は「負担を軽くしてほしい」のではなく、不平等な特権の廃止。
こうした理由から民衆は蜂起を起こしたので、これに対して「妥協」を選択すると、民衆たちは満足せずに蜂起が続き、革命が制御不能になってしまう可能性があったんです。
国内の混乱が続けば、周辺の絶対王政諸国が干渉してくる危険性もありました。

そして、革命を「ただの暴動」と判断してしまうと、民衆の「特権の廃止」の目的を否定することになって、国民議会の存在意義がなくなってしまう可能性があったんです。
なので国民議会は、農民の不満の原因である封建的特権を全面的に否定することで、「暴動」ではなく「正式な改革」として扱うことで、民衆たちを落ち着かせようとしたんです。
国民議会は民衆の蜂起が封建的特権そのものの廃止を求める動きだと理解していたため、妥協では混乱が収まらないと判断し、特権を全面的に否定することで、革命を「暴動」ではなく「正式な改革」として落ち着かせようとした。

人権宣言
そして、国民議会が続いて取り組んだのが、「旧体制」を変えるための革命の理念を、「誰でも理解できる」ように文字にして示すことでした。
理念・・・考え方、価値観
こうして、アメリカ独立戦争にも参戦したラ=ファイエットらによって起草されたのが、“人権宣言”と呼ばれるものでした。

ラ=ファイエットは起草の際に、共にアメリカ独立戦争を戦ったジェファソンから助言も受けていたそうですよ。

SQ:人権宣言のアメリカ独立宣言との共通点と相違点とは?
1.人間は自由で権利において平等なものとして生まれ、かつ生きつづける。社会的区別は共同の利益にもとづいてのみ設けることができる。
2.あらゆる政治的結合の目的は、人間のもつ絶対に取り消し不可能な自然権を保全することにある。これらの権利とは、自由、所有権、安全、および圧政への抵抗である。
3.すべて主権の根源は、本質的に国民のうちに存する。いかなる団体も、またいかなる個人も、明示的にその根源から発してはいない権限を行使することはできない。
17.所有権は、神聖かつ不可侵の権利であり、したがって、合法的に確認された公的必要性からそれが明白に要求されるときであって、かつ予め正当な補償金が支払われるという条件でなければ、いかなる者もその権利を剥奪されえない。
引用:『資料フランス革命』
両者には大きな共通点がありましたが、一方で、目的や役割にははっきりとした違いもありました。
まず、両者に共通している点のは以下の通りです。
〈共通点〉
・人間は生まれながらに平等な権利を持つ存在である(天賦人権)
・国家の政治は、国民の意思に基づく(国民主権)
アメリカの独立宣言で「生命・自由・幸福追求の権利」が掲げられたのと同じように、フランスの人権宣言も「自由・所有・安全・圧政への抵抗」を自然権として盛り込んでいました。
そして、両者の最大の相違点だったのが「宣言が出された目的」でした。
〈相違点〉
・アメリカ独立宣言 → イギリスからの支配を断ち切るための「独立の正当化」
・フランス人権宣言 → 旧体制(アンシャン=レジーム)を否定し、新しい社会をつくるための「改革の理念」
アメリカのように独立を宣言するものではなく、人権宣言は革命後の社会をどうしていくのかを示した指針だったんです。
人権を生まれながらの権利とする点で共通している。一方、アメリカの独立宣言が独立を正当化する文書であったのに対し、フランスの人権宣言は革命後の社会を形づくるための理念を示した点に大きな違いがある。

ヴェルサイユ行進
このようにして、国民議会によって封建的特権の廃止と人権宣言がおこなわれましたが、国王ルイ16世はこれらをなかなか認めようとしなかったんです。

だって、特権身分や王権を否定するような内容ですからね。
法律は国王の許可がないと施行できなかったので、国王の抵抗によって議会の改革は足踏み状態となってしまいます。
これに対して、民衆の不満はどんどん高まっていくことになりました。

そして、そこに追い打ちをかけたのが、民衆を襲った深刻な食糧難でした。
1789年は凶作で、パリではパンの価格が急激に高騰し、市民の中でも特に家計を支える女性たちの生活が限界に達していました。
こうした状況のなか、国王がヴェルサイユ宮殿で豪華な宴会を開いたことが、民衆の間に広まります。
このうわさを聞きつけたパリの女性たちは怒りを爆発させて、約6~7千人もの人がヴェルサイユ宮殿へ向けて行進を開始するヴェルサイユ行進が起こりました。


彼女たちの要求は明確でした。
「パン(食料)をよこせ」
「国王は民衆の苦しみに目を傾けろ」
「人権宣言と封建的特権廃止を正式に認めろ」
この女性たちによるデモ行進は、後に革命軍のラ=ファイエットらも加わったことで、一気に緊迫した状態になっていきました。
そのままヴェルサイユに到着した民衆は議会にも押しかけて、代表者が議会場で生活苦を訴える事態にまで発展しました。
民衆のおさまらない怒りに、ついにルイ16世は民衆の要求を受け入れて、王妃マリ=アントワネットなどと共にパリへ移ることを決断することになりました。

王妃マリ=アントワネットは、オーストリアのマリア=テレジアの娘として、ブルボン家に嫁いだ人物でしたね。
こうして国王一家はテュイルリー宮殿に移り、国民議会もパリへ移転することになりました。
ヴェルサイユ行進の結果、国王は民衆の監視下に置かれることになり、国民議会はパリ市民の目の前で政治を行うことになりました。
こうしてフランス革命の主導権は、完全に民衆側へ移ることになり、旧体制を変える転換点になりました。

バスティーユ牢獄襲撃に続き、ヴェルサイユ行進は「革命は民衆が動かすものだ」という事実を明らかにしたんですね。

行政・経済・宗教の再編
国民議会は、その後も民衆(サンキュロット)の支持を得ながら改革を進めていきました。

サンキュロットとは「革命派の民衆」のことで、貴族たちの半ズボン(キュロット)を履いていないという意味で「サンキュロット(半ズボンではない)」と呼ばれるようになったそうです。

あくまでこの革命の目的は、旧体制(特権)を壊すだけではなく、国民によるまったく新しい統治システムを作ることでした。
なので、国民議会は「行政」「経済」「宗教」を再編する改革をおこないました。

・行政
まず行政では、それまでの封建的な領土ではなく、県・郡・市町村からなる統一的な地方制度を整えて、地域差をなくそうとしました。
司法制度も再編されて、新たに複数の裁判所(治安、民事、刑事、控訴)を設けて、公務員を能力にもとづいて採用し、全国一律の度量衡(どりょうこう)制度を導入しました。
度量衡・・・長さ・重さ・体積などを測るための基準や単位

数年後に正式に採用されたのが日本でもお馴染みの「メートル法」だったんですよ。
・経済
経済面では、商業などを独占するギルドなどの同業組合が禁止されて、土地の耕作や経営などの商業活動の自由化が進められていきました。

ギルドは営業独占の権利を持っていたので、新規参入が難しかったんです。
特権会社の貿易独占や国内関税も撤廃され、経済的自由主義が制度として確立されていきました。

経済的自由主義は啓蒙思想の影響を受けていました。
・宗教
さらに宗教面では、カトリック教会の財産を国有化して、財政再建の資金源に宛てることにしました。
第一身分であるカトリックの聖職者は国の管理下に置いて公務員になり、国民(主権者)への忠誠を求められました。

しかし、これは教皇から批判を受けて、国民への忠誠を拒否する聖職者も現れて、フランス革命は裏で宗教的対立を生むことになりました。

1791年憲法と立法議会の成立
そして国民議会による改革の集大成として、おこなわれたのが憲法の制定でした。
1791年9月に、フランス史上初めての成文憲法が制定されます。

1791年に制定されたので「1791年憲法」と呼びます。西暦で呼ぶということは、今後も「西暦」で表す憲法が出てくるということです。がんばりましょう。
人権宣言を前文とする1791年憲法は、三権分立と立憲君主政を採用して、国王と議会を中心とする政治体制を定めていました。
ただし、参政権(選挙権)は納税額によって決められ(財産資格)、農民や都市下層民の多くは政治参加から排除されていました。
女性も当時は「家庭を守る存在」としての役割が大きと考えられていたので、社会に貢献していないという理由で参政権が与えられませんでした。

要は「どれだけ国に貢献(納税)しているか」で参政権を決めていたんです。これは明治の日本でも導入された制度でした。
なので平等を掲げながらも、完全な民主政治には至らなかった点は、この革命の限界でもありました。
しかし、国民によって作られた憲法によって王権を制限したことは、「旧体制」の頃から考えると大きな進歩だったんです。

そして、憲法の制定が目標だった国民議会は、目的を果たしたので解散することになりました。
そして次のステージとして、立憲君主政のもとで細かい法律を制定するために、新たな立法議会が成立することになります。
こうしてフランス革命は、身分と特権、地域差を解消しながら、平等な国民を主権者とする国民国家の建設へと大きく踏み出していくことになりました。

まとめ
MQ:なぜ国民議会は、「人権宣言」を掲げて、国家を再編しようとしたのか?
A:封建的特権に代わる国家の原理を示すため、人権宣言を掲げた。それにより、自由で平等な国民を主権者とする新しい社会を明確にし、革命を正当な改革として確立しようとしたため。

今回はこのような内容でした。

次回は、フランス革命の4回目として「国民公会の成立と第一共和政」についてみていきます。立憲君主政のもとでフランス革命はどのように進展していくんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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