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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回はイタリア戦争についてです。これはイタリアでの戦争でありながらフランスや神聖ローマ帝国などの他国が介入した戦争でもありました。なぜ他国の介入を招いたんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:イタリア戦争はヨーロッパにどんな影響を与えたのか?
時代背景
15世紀半ば以降の西ヨーロッパ諸国は、様々な要因によって政治的に緊張が高まっていた時期でした。
まず、東のビザンツ帝国を滅ぼして、ウィーンを包囲してヨーロッパを震え上がらせたオスマン帝国の脅威が迫っていました。

オスマン帝国の脅威は17世紀まで続いて、ヨーロッパでは「トルコの脅威」と呼ばれていました。
そして、この「トルコの脅威」を避けるようにして始まったのが、ヨーロッパの海洋進出でしたね。

ヨーロッパ大航海時代が始まったんでしたよね。
こうして、西ヨーロッパ諸国はアジアや「新大陸」である南北アメリカ大陸への海外進出を競うようになっていきました。
この海外進出と同時並行で、ヨーロッパ内でも各国が経済圏を広げようと、領土拡大を目指すようになっていきます。
そういった状況になったことで、西ヨーロッパ諸国で政治的な緊張が高まっていき、しまいには各地で戦争が起こることになりました。

その代表的な例が今回扱うイタリア戦争だったんです。

勃発
まず、イタリア戦争の舞台となったのが、当然ながら現在のイタリア半島周辺です。
イタリア戦争が起こった15世紀末のイタリアでは、統一国家はなく、ミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェ、教皇領などの都市国家が数多く成立していて、小国に分裂している状態でした。
しかし、このイタリア戦争は都市国家間で始まったわけではなく、他国の介入によって始まった戦争だったんです。
その他国というのが、フランスと神聖ローマ帝国でした。

イタリア戦争が勃発した主な原因は、フランスによるイタリアへの侵攻でした。
当時、ヴァロワ朝のフランス国王シャルル8世が、イタリアのナポリ王国の王位継承権を主張したんですが、これを教皇に拒否されてしまったことで、イタリア半島に侵攻します。
これによって始まったのがイタリア戦争でした。

当時、フランスは百年戦争が終わって、王国による中央集権が進んでいましたが、まだ産業が他と比べて発展途上でした。
なので、北イタリア諸都市の高度な経済圏(商業圏)を取り込もうとして、ナポリ王国の王位継承権を主張したんです。

なので、南イタリアのナポリ王国の王位継承権の主張は、北イタリアを手に入れるための、ただの口実だったんです。

収束と再勃発
一旦の収束
このフランスの侵攻に対して、介入してきたのが神聖ローマ帝国でした。
当時の皇帝は、

我々はイタリアの秩序を守る守護者である。
と主張してフランスの侵攻を阻止しようとしました。

本当のところは、どさくさに紛れてイタリアに勢力を拡大しようとしていたそうです。
神聖ローマ皇帝は、教皇やヴェネツィア、スペイン王国も仲間に取り込んで、フランスに対抗する「神聖同盟」を結成してフランス軍を包囲しようとします。
これに対して、フランス軍はやむなく退却することになり、イタリア戦争は一旦収束することになりました。

再勃発
しかし、このイタリア戦争は世代を変えて再び勃発することになってしまうんです。
ヴァロワ朝フランスで国王となったフランソワ1世が、イタリアに侵攻したことでイタリア戦争が再び始まることになりました。


SQ:なぜフランスは再びイタリア戦争を勃発させたのか?

では、なぜフランスは再びイタリア戦争を始めたんでしょうか?
それはフランスにとって「地政学的なリスク」があったからなんです。
16世紀半ば、神聖ローマ帝国は新たな皇帝を選出するために選帝侯による選挙がおこなわれました。
結果、ハプスブルク家出身のスペイン王カルロス1世が当選して、カール5世として神聖ローマ皇帝に就任します。

カール5世は宗教改革でも度々登場していましたね。
このカール5世の皇帝就任が、フランスの地政学的リスクを高めることになったんです。

以下の地図は16世紀のヨーロッパの勢力図です。

この地図をみながらフランスが神聖ローマ帝国に戦争をしかけた理由を考えてみましょう。

神聖ローマ皇帝カール5世は、もとはスペイン王だったので、そのままスペイン王も兼任することになります。
そして注目すべきはカール5世がハプスブルク家出身だったということです。
ハプスブルク家は婚姻関係によって勢力を拡大した名家で、スペインやドイツだけでなく、ネーデルランドやミラノ、南イタリアまでも支配下に置く、広大な領土を支配していたんです。
ネーデルランド・・・現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルクを含む低地地方。
その結果、ヴァロワ家のフランスはハプスブルク家の領土に包囲されることになってしまい、ハプスブルク家に対して深刻な脅威を感じることになりました。
なので、フランスはこの状況を打開するために、小国が分立していたイタリアを突破口にしてハプスブルク家の包囲を崩そうとしたんです。
結果、カール5世率いる神聖ローマ帝国と衝突することになり、イタリア戦争が再勃発することになったというわけなんです。
ハプスブルク家出身のカール5世が神聖ローマ皇帝に即位したことで、ヴァロワ家のフランスは地政学的に包囲された状況に脅威を感じ、その包囲を打破するためにイタリアを突破口として戦争を始めたから。

経過と終結
フランスはイタリアに侵攻した結果、神聖ローマ帝国と全面戦争することになりました。
カール5世はスペインとの連合軍によってイタリアを制圧し、フランスに対して優位に立ちます。
その後、カール5世のドイツ軍がフランス軍を破り、フランソワ1世は一時捕虜となってしまうなど、フランスは苦境に立たされてしまいます。
しかし、イタリア戦争は世代が変わっても続き、長期化によってフランスも神聖ローマ帝国も莫大な戦費によって財政難に陥ってしまい、戦争の継続が難しくなっていきました。
そこでお互いに講和することになり、カトー=カンブレジ条約によってイタリア戦争は終結することになりました。
・フランスはイタリアにおける領有権(ミラノ、ナポリなど)を放棄。
・イタリア半島の覇権はハプスブルク家に確定。
・フランス王アンリ2世の娘エリザベートとスペイン王フェリペ2世の婚姻が平和の保証として結ばれる。

イタリア戦争との関係と影響
オスマン帝国
「トルコの脅威」としてヨーロッパに脅威を与えていたオスマン帝国は、このイタリア戦争でも影響を与えていました。
スレイマン1世の時代に、オスマン帝国はその勢力を大きく拡大していきました。
彼はモハーチの戦いでハンガリー王国を打ち破り、その大部分を支配下に入れます。
そして勢いそのままに、ウィーンを包囲(第一次ウィーン包囲)して、神聖ローマ帝国に脅威を与えていました。
このような状況の中、フランス王フランソワ1世は、宿敵ハプスブルク家に対抗するため、「敵の敵は味方」という理論で、東西から神聖ローマ帝国を挟み撃ちにするために、オスマン帝国に接近したんです。
これによってオスマン帝国はフランスと手を組むことになり、カピチュレーション(交易特権)も認められて、両者の関係は一気に深まっていくことになりました。

キリスト教世界の中で、カトリック教国のフランスがイスラーム国家と手を結ぶという展開は、当時としてはまさに衝撃的な出来事だったんです。宗教よりも政治を優先したんですね。

宗教改革
そして、イタリア戦争の最中にヨーロッパで起こったのが宗教改革でした。
ドイツで始まった宗教改革は、カトリックの擁護者である神聖ローマ皇帝にとって邪魔そのものでした。
フランスとオスマン帝国を同時に相手している神聖ローマ皇帝カール5世には、ルター派への対応を十分にする余裕はありませんでした。
なので、カール5世は宗教改革への対応をイタリア戦争とオスマン帝国との情勢によって変化させていくことになります。
カール5世は一度は、

各領邦に信仰の選択を委ねる。
として、イタリア戦争に協力してもらうために、ドイツ国内の諸侯にルター派の信仰を容認します。
しかし、イタリア戦争やオスマン帝国との関係が少し落ち着くと、

やはりルター派は禁止して、カトリックに戻すように。
と、ルター派の信仰を否定して、カトリック教会へ戻す方針に変えてしまったんです。
これに怒ったドイツ国内のルター派諸侯たちは、反カトリック改革が進めていき、西ヨーロッパのキリスト教世界は二分されてしまうことになりました。

イタリア=ルネサンス
イタリア戦争の戦場となったイタリアは戦争の影響を最も受けた地域でした。
カール5世率いるドイツ軍がフランス軍に勝利した時に、カール5世は当時フランス側についていた教皇に圧力をかけるために、傭兵をローマに派遣します。
そこで傭兵たちは、都市ローマで破壊や略奪の限りを尽くした「ローマの劫略(ごうりゃく)」をおこない、ローマは壊滅的な被害を受けてしまいました。

その後、カール5世と教皇は和解して、カール5世は正式に皇帝として教皇から戴冠されています。
この事件や度重なる戦闘によって、ローマに限らずイタリア半島の諸都市は荒廃してしまい、小国分立状態がその後も続くことになり、統一国家への道は閉ざされることになりました。
加えてイタリアで起こっていたルネサンスも、諸都市が破壊されてしまったことで停滞してしまいました。

戦争で文芸活動どころじゃないですからね。
こうしてイタリア戦争は、「イタリア=ルネサンスの終わり」が始まるきっかけにもなってしまったんです。

近代政治学の芽生え(マキャベリ)
このイタリア戦争では、その経験から新しい政治思想を考えた人物もいました。
それがマキャベリという人物です。

マキャベリはイタリアの都市国家フィレンツェで外交官していた官僚でした。
マキャベリは外交官時代にイタリア戦争を経験したことで、

小国家に分裂しているイタリアの統一には、従来の宗教や道徳心に期待するのではなく、権力と利益が原動力となる必要がある。
と主張した『君主論』を書いて、イタリア統一のためには道徳心ではなく、巧みな策略と駆け引きが必要だと主張しました。
この考え方は、その後の政治の考え方に影響を与えて、「マキャベリズム」として近代政治学の基礎となっていきました。

要は、「政治はキレイごとだけではなくて、時には悪に染まることも必要だよ。」ということを言いたかったんです。
「理想を見ずに、現実を見ろ!」ということですかね。

ハプスブルク家の分断
イタリア戦争中、ヨーロッパの情勢を動かしていたのが神聖ローマ皇帝カール5世でした。
カール5世は、さきほども説明した通り、ハプスブルク家出身で母親がスペイン王女だったことから、スペイン王カルロス1世として神聖ローマ皇帝の選出で選ばれて、カール5世を名乗るようになりました。
神聖ローマ皇帝になったことで、ドイツ周辺の領土も支配下に入れることになり、ハプスブルク家は西ヨーロッパの約半分を支配する巨大帝国を築くことになりました。

カール5世の時代は、スペイン王としてマゼランを派遣して世界一周を達成し、さらにコルテスやピサロを「新大陸」に派遣して、アメリカ大陸にも植民地を築くなど、海外にも広大な領土を手に入れた時代でもありました。


カール5世は勢いそのまま、古代ローマ以来のヨーロッパの統一国家を再興させることを目指すようになり、イタリア戦争にも首を突っ込んでフランスと戦いました。
しかし、イタリア戦争でフランスと激戦を繰り広げるなか、東のオスマン帝国が迫ってきたことで、そちらの対応にも追われるようになります。
こうしてカール5世は皇帝時代の大半を、広大過ぎる領土を維持するための戦いに費やすことになってしまいます。
加えて、ドイツでは宗教改革が起こってしまい、ドイツ農民戦争や宗教内戦も勃発してしまいます。
その後、神聖ローマ帝国内のルター派諸侯が、カトリック教会から独立して自立(領邦教会制)していったことで、カール5世のヨーロッパ統一の夢は遠ざかってしまうことになりました。

領土の維持と宗教改革への対応でキャパオーバーになってしまったカール5世は、帝国の統治に疲れ切ってしまい、50代半ばで政治から引退することを決意しました。
そうしてカール5世は、長男と次男に領土を2つに分けて譲り、政治から引退することになります。

子のフェリペ2世にスペインとネーデルランド周辺を譲り、弟のフェルディナントにオーストリアとハンガリー周辺を譲りました。
こうして、広大過ぎたハプスブルク家の領土は、スペイン系とオーストリア系に分割されることになり、ハプスブルク家も2つの家系に分かれることになりました。


まとめ
MQ:イタリア戦争はヨーロッパにどんな影響を与えたのか?
ヨーロッパ諸国の勢力争いを激化させ、ハプスブルク家の覇権確立、宗教改革の進展、オスマン帝国との外交関係の変化、そしてイタリア=ルネサンスの停滞を引き起こすなど、政治・宗教・文化の各面でヨーロッパ全体に深い影響を与えた。

今回はこのような内容でした。


次回は、主権国家体制の成立についてです。主権国家体制はどのような体制で、どんな経緯で成立したんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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