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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回は近世ヨーロッパでのスペインの全盛期とオランダの独立についてです。スペインは周辺諸国とどんな関係を築いたんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:スペインは周辺とどんな関係を築いたのか?
スペインの全盛期
「太陽の沈まぬ国」フェリペ2世
スペインでは、神聖ローマ皇帝カール5世の後を継いだフェリペ2世の時代に全盛期を迎えることになりました。

フェリペ2世はスペイン系ハプスブルク家の出身でした。
カール5世やその経緯については[11-3.1]イタリア戦争でご確認ください。

フェリペ2世は父のカール5世から、スペインとネーデルランド、さらに南イタリアの領土を引き継いだことで、西ヨーロッパで広大な領土を支配することになりました。
加えて、以前からおこなわれていた海洋進出によって、アジアではフィリピンのマニラ、アメリカ大陸では中南米にかけて、広大な植民地を獲得していました。

そして、もうひとつスペインの全盛期を語るうえで、大きな転換点となったのが、ポルトガル王家が断絶してしまったことでした。
フェリペ2世の母がポルトガル王家の出身だったことから、それを根拠にポルトガルの王位継承権を主張します。
そして王位継承権を主張した翌年には、ポルトガルの身分制議会で正式に即位が認められることになり、フェリペ2世はポルトガル王も兼任することになったんです。
このポルトガルを併合して同君連合になったことで、イベリア半島が統一されただけでなく、ポルトガルが植民地化していたアフリカ沿岸やインド(ゴア)、南アメリカ大陸、そして中国(マカオ)にまで及ぶ交易拠点が、フェリペ2世の支配下に加えられることになりました。

ポルトガルの議会はスペインの併合を経済的に発展するチャンスと捉えたそうです。
スペインは南米産の銀が大量に入ってきたもあって、財政がとても潤いました。
こうしてフェリペ2世は世界中に領土を持つことになり、自転する地球でスペイン領が常に太陽に照らされているという意味から、「太陽の沈まぬ帝国」と呼ばれるようになりました。


イタリア戦争の終結
フェリペ2世は父のカール5世の時代から続いていたイタリア戦争も引き継いでいましたが、戦争の長期化によって王国の財政を圧迫していました。
フランスとの戦争継続が困難になったフェリペ2世は、フランスと講和することなり、イタリア戦争を終結させることになります。

スペインはイギリスと協力関係にあったんですが、イギリスがイギリス国教会を作ってカトリックから離脱してしまったので、協力し合うことが難しくなってしまったのも、戦争継続が難しくなった要因でした。
レパントの海戦と「無敵艦隊」の誕生
当時のイタリア戦争では、フランスは東方のオスマン帝国と手を組んで神聖ローマ帝国を挟み撃ちにしようとしていましたよね。
なので、オスマン帝国は海軍を率いてスペインとイタリアを結ぶ航路を襲撃して、地中海の制海権のほとんどを手に入れてしまいます。

イタリア戦争が終結した後も、オスマン海軍が地中海の制海権を手放さなかったので、スペインはこれを脅威に感じます。
そして、オスマン帝国がヴェネツィアの重要拠点であったキプロス島を攻略したことをきっかけに、スペインとヴェネツィアは制海権を奪還するために教皇に協力を要請をします。
こうして、スペイン・ヴェネツィアなどからなる連合艦隊が編制されて、オスマン海軍と衝突したのがレパントの海戦でした。
この1571年に起きたレパントの海戦は、まさに地中海の覇権をかけた歴史的決戦でした。
結果は、スペイン・ヴェネツィア連合軍が圧勝し、オスマン海軍は8割以上の約190隻を失い、総司令官も戦死してしまう敗北を喫しました。
これにより、オスマン帝国の地中海支配は大きく後退することになり、スペインは西地中海へのイスラーム勢力の侵攻を阻止することに成功することになりました。
この勝利を機会に、スペイン海軍はさらに強化を進めていき、後に「無敵艦隊(アルマダ)」と呼ばれるようになっていったんです。

ここで注意してほしいのが、レパントの海戦によってオスマン帝国はその後も地中海の制海権を失ったわけではなく、3年後には海軍を再建して地中海の制海権を回復させているんです。
なので、この「無敵艦隊」という呼称も、その後にスペイン海軍に勝利したイギリスが、勝利を誇張するために呼び始めたものなんですよ。


カトリック教会の「盟主」
スペインは以前から、国土回復運動(レコンキスタ)を成功させたことで、キリスト教の守護者として教皇から称号を授与されて、カトリック教会とは深い関係を築いていました。
なので、スペイン王は、「カトリックの盟主」を自称するようになり、宗教改革に対しても強い姿勢で対抗するようになります。
異端審問でプロテスタントを積極的に弾圧し、イエズス会を支援して、宣教師を海外進出に同行させて、カトリック教会の海外布教にも力を入れていきました。

イエズス会を創設したイグナテイウス=ロヨラやザビエルがスペイン出身の騎士や貴族だったことから、彼らを支援して、スペインはカトリック改革の中心を担っていくことになったんです。

オランダの独立
スペイン領ネーデルランドの統治
「太陽の沈まぬ帝国」を築いたスペインですが、17世紀初めに支配下だったネーデルランドでスペインに対する反発が起きて独立戦争が始まり、最終的にオランダが独立することになります。

ネーデルランドとは、現在のオランダとベルギー、ルクセンブルクにまたがる低地帯でした。

ではなぜネーデルラント(オランダ)の人々は、スペインの支配に反発したんでしょうか?
SQ:なぜネーデルランドの人々はスペイン支配に反発したのか?
以下の3つの構成で解説していきます。
①宗教的要因
②政治的要因
③経済的要因

①宗教的要因
イタリア戦争でスペインとフランスとが講和したことで、ネーデルランドにはある変化が起こりました。
フランスとの人の往来が自由になったことで、フランスからある人たちが入ってきたんです。
そう、プロテスタントです。
プロテスタントの中でもカルヴァン派の人たちがネーデルランドに入って来ることになりました。

カルヴァンはスイスで活動していましたが、出身はフランスだったので、カルヴァン派の宣教師をフランスに派遣して布教していたんです。
当時、ネーデルランドは、南部のフランドル地方を中心に毛織物業が盛んで、商業が発展している地域でした。

フランドル地方を含むネーデルランドは、中世から北ヨーロッパ商業圏に含まれていた地域でしたね。
なので、商工業者にとって、カルヴァンの「規律と勤勉を守る者が神に救済される条件」である予定説は、魅力的に感じられて、カルヴァン派はネーデルランドで急速に広がっていくことになりました。

しかし、スペインのフェリペ2世はカトリック化政策を推し進めていき、都市の自治権を奪うなど、カルヴァン派を含めて反対派を弾圧していきました。
これに対してネーデルランドのカルヴァン派はスペインに激しく抵抗するようになり、各地で反乱が起こるようになります。

この時、ネーデルランドのカルヴァン派は、スペインがカルヴァン派貴族を「乞食」と呼んだことから、乞食を意味する「ゴイセン」と呼ばれるようになりました。
こうした、カルヴァン派への弾圧が独立戦争の火種になっていくことになります。

②政治的要因
ネーデルラントでは、もともと貴族や都市がそれぞれの領地で自治をおこなっていた地域でした。
しかし、フェリペ2世は主権国家体制のもとで中央集権化を進めていき、現地の貴族や都市の自治権を奪ってしまいます。

奪われた方は、スペインのことを当然、根に持ちますよね。
このスペインによる中央集権化が、ネーデルランドの貴族や都市との緊張を高めていったんです。

③経済的要因
先ほども紹介した通り、ネーデルランドは商業がとても発展している地域でした。
しかし、ここでもスペインの中央集権化によって、商業都市はスペイン王国による統制を受けることになり、自由な交易活動が制限されてしまいました。
加えて、スペインは帝国を維持するために重税も課したことで、現地の商人や貴族などはスペインの経済統制と搾取に対して強く反発し、スペインと摩擦が起こるようになっていったんです。

これら①~③の要因が重なったことで、ネーデルランドではスペイン支配に対して強く反発するようになって、反乱が起こるようになっていったんです。
カルヴァン派への弾圧(宗教的要因)、自治権の侵害(政治的要因)、そして商業活動への統制と重税(経済的要因)が重なり、彼らの信仰・自由・生活が脅かされたため。

オランダ独立戦争の勃発
このネーデルランド各地で起きた反乱で、中心的存在になったのがオラニエ公ウィレムという人物でした。


英語では「オレンジ公ウィリアム」と読み、オレンジ色がシンボルカラーでした。なので現在のオランダでもシンボルカラーとしてオレンジが使われているんですよ。



オラニエ公ウィレムはもともとネーデルランドの一部を治める領主だったんですが、スペインのフェリペ2世のカトリックの強制に強く反発して、信仰の自由を求めて、スペインに対して抵抗するようになります。
しかし、カルヴァン派への弾圧が強まったことで、オラニエ公ウィレムは一時亡命することになり、海外で息を潜めました。
そして、ネーデルランドでカルヴァン派の反乱が拡大していくと、帰国して反乱の指導者になり、反乱軍を率いてスペインと激しく戦うことになりました。
これによって始まったのが、オランダ独立戦争です。

経過
オラニエ公ウィレム率いる反乱軍は、スペイン側を苦しめますが、次第に反乱側でカルヴァン派が多い北部と、カトリック派が多い南部で対立が起こるようになります。
この隙を狙ったスペインが工作を入れたこともあり、南部の州は反乱から離脱して、スペインの支配下に留まることになってしまいます。

この分裂によって、北部がオランダ、南部が後のベルギーになることになります。
南部が抜けてしまった反乱軍でしたが、北部のオランダはスペインからの独立を目指して、戦闘を続けることを決意します。
この反乱に残った北部の7州が、スペインからの独立を目指して結成したのが、ユトレヒト同盟でした。

もちろん、指導者はオラニエ公ウィレムです。

ユトレヒト同盟は「ネーデルラント連邦共和国」として独立を宣言し、オラニエ公ウィレムは総督に就くことになります。
※以後、「反乱軍」=「オランダ軍」と表記
スペインは「カトリックの盟主」を自称しているので、その独立を認めず、その後も戦闘は続いていきました。
独立戦争中、オラニエ公ウィレムがカトリック教徒の刺客によって暗殺されてしまうなど、オランダ軍はピンチに陥りますが、同じプロテスタントだったイギリスの支援などもあり、挫けず戦闘を継続させていきます。

イギリスもカトリックのスペインと対立していたので、「敵の敵は味方」理論てやつですね。
ちなみに当時のイギリスはエリザベス1世の時代でした。
独立
スペインにとって、経済的に発展しているオランダを失うことはダメージが大きかったので、オランダを奪還しようとしますが、イギリスの介入もあり、戦争は長期化してしまいます。
戦争の長期化によって、国力(財政)が疲弊していったスペインは、オランダ独立戦争が始まって40年あまりが経ったところで、休戦協定を結ぶことにしました。
この休戦協定によって、スペインはオランダの独立を事実上認めることになり、晴れてオランダは独立を果たすことになりました。


ただし、正式な独立の承認は、さらに約40年後のウェストファリア条約まで待つことになります。
スペインの全盛期の終焉
スペインは、オランダの独立を許したことで、重要な経済拠点を失ってしまい、税収が減ってしまい、財政的に大きなダメージを負ってしまいます。
しかし、その後も「カトリックの盟主」としてヨーロッパの戦争に介入していったことで、さらに財政難に陥っていきました。

この時期にアメリカ大陸産の銀の産出量が減ってきていたことも、財政に影響を与えました。
しかも、併合していたポルトガルでも独立の動きが出てきてしまい、ポルトガルの独立を許してしまいます。
ポルトガルとの同君連合も解消されてしまったことで、スペインはいよいよ衰退していくことになり、国力は急速に失われていき、全盛期は終焉を迎えることになりました。

まとめ
MQ:スペインは周辺とどんな関係を築いたのか?
A:ポルトガルを併合してイベリア半島を統一し、アジア・アフリカ・アメリカにまたがる広大な植民地を支配することで、周辺諸国と覇権的な関係を築いた。また、カトリックの盟主を自任し、宗教的影響力を背景にオスマン帝国やプロテスタント諸国と対立しつつ、同盟や戦争を通じて国際的な影響力を拡大した。

今回はこのような内容でした。

次回は、イギリスの動向についてみていきます。イギリスは絶対王政下で、いかに海外進出していったんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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