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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回は近世のイギリスの海洋進出についてです。イギリスはいかにして海外進出を実現させていったんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:絶対王政期のイギリスは、どのようにして海外進出を実現したのか?
アルマダ海戦
オランダへの支援と海賊行為
前回の[11-3.3]スペインの全盛期とオランダの独立で、オランダはスペインから事実上独立することになりましたよね。
そのオランダ独立戦争が起きた際に、オランダを支援して独立に貢献したのが、テューダー朝イギリスだったんです。

テューダー朝の時代に、宗教改革によってイギリス国教会ができて、カトリックから独立したことで、スペインとは対立関係になっていたんですよね。
スペインと対立していたイギリスはまだ当時、海洋進出で広大な海外植民地を持っていたスペインに大きく出遅れていて、国家としては発展途上でした。
なので、スペインに対抗するだけの国力もなかったので、イギリス国王はある大胆な行動にでます。
なんと、当時のイギリス女王エリザベス1世は、海洋進出するついでに、スペインの植民地や貿易船を襲撃して財宝や貿易品を奪い、イギリスに持ち帰る海賊行為(私掠行為、しりゃくこうい)を、王国公認で許可したんです。

王国から依頼された海賊船は、奪った戦利品の一部(1割ほど)を手にすることができたそうです。民間船だけでなく、海軍の軍人も同じく海賊行為をしていたそうです。
あと、この海賊行為(私掠行為)は、イギリスだけではなく、近世ヨーロッパ全体でみられました。イギリスが特に利用していたみたいですが。

勃発
オランダ独立戦争に介入してきて、イギリスに植民地や貿易船を襲撃されていたスペインは、

イギリスめ!邪魔ばっかしやがって!うっとうしい!
となりますよね。
なので、当時のスペイン王フェリペ2世は、これに対抗するために、無敵艦隊(アルマダ)と呼ばれた強大なスペイン海軍をイギリスに派遣して、イギリスの制圧に乗り出しました。
ここにアルマダ海戦が起こったのですが、双方の海軍力は以下の通りでした。
・スペイン海軍(無敵艦隊)の戦力
130隻の船団で正規軍艦は28隻、他も武装した大型船。8000人の水夫、18000人の兵士、大砲2500門、鉄製砲1000門を装備。
・イギリス海軍の戦力
正規軍艦は34隻で、寄せ集めの海賊船163隻。
参照:サイト「世界史の窓」、アルマダ戦争/アルマダ海戦
この通り、イギリス海軍は海賊船の寄せ集めだったので、スペインの無敵艦隊に対して圧倒的に不利な状況だったんです。

双方の海軍は、ブリテン島とユーラシア大陸の間に位置する、ドーヴァー海峡で激突することになりました。
戦力的に不利だったイギリス海軍は、大型戦艦で小回りが利かないスペイン艦隊に対して、距離を取って、砲撃しては退くという「小回り」作戦を採りました。
スペイン艦隊は、大型船で敵船に近づいて兵士が乗り移って制圧するという戦法が得意だったので、撃っては退くイギリス船に近づくことができなく、砲撃だけを受けてしまい、段々と被害が拡大していきました。
イギリス海軍は「小回り」作戦によって、戦いを有利に進めることには成功しましたが、無敵艦隊に決定的なダメージを負わせるほどの火力はなかったので、最終的にアルマダ海戦は引き分けに終わってしまいました。


その後、スペインは陸上部隊と連携してイギリス上陸を計画しましたが、通信技術の限界で連絡が取れず、作戦は失敗に終わってしまいました。
無敵艦隊の壊滅
そして、無敵艦隊がスペインに帰ろうとした時に、事件が起きたんです。
なんと暴風雨に遭ってしまい、多くの戦艦が沈没してしまったんです。
3割以上の戦艦と、約半数もの兵士を失ってしまいました。

なんと戦闘ではなく、自然災害で壊滅してしまったんですね。
その後、無敵艦隊は再建されたんですが、イギリス海軍を壊滅させることはできず、このアルマダ海戦を機に、海洋覇権はイギリスに移っていくことになりました。

この時にイギリスはスペイン艦隊が壊滅したことを誇張するために、「無敵艦隊」と呼ぶようになったんですよね。

イギリスの海洋進出
北アメリカへの進出
さきほども説明した通り、イギリスはスペインやポルトガルに大きく遅れながら、テューダー朝のもとで海洋進出に本格的に乗りだしていきます。

テューダー朝が成立する前は、内戦のバラ戦争でそれどころではなかったですからね。
カボット父子が国王ヘンリ7世、8世のもとで北アメリカを探索して、エリザベス1世のもとではドレークという人物が世界周航を達成するなど、積極的に北アメリカを中心に探索活動をおこないました。


このドレークが、世界周航しながらスペインに対して海賊行為を行っていました。アルマダ海戦でもイギリス艦隊の副総司令官を務めてました。
エリザベス1世の時代に、初めて北アメリカ大陸に植民しようと計画しますが、失敗に終わってしまいます。
しかしその後、国王ジェームズ2世の代に改めて植民計画がおこなわれて、建設されたジェームズタウンがイギリス最初の植民地となりました。

その後、ジェームズタウンを中心に拡大した植民地は、処女王エリザベス1世の功績から、「ヴァージニア」と名付けられました。
現在のアメリカ合衆国の首都ワシントンD.Cの南にある州ですね。
ちなみにジェームズ2世はこの後に起こる、名誉革命で亡命した国王ですね。


第1次囲い込み(エンクロージャー)
海洋進出が進んだエリザベス1世の時代に、イギリス国内では領主や地主(ジェントリ)が農民から土地を取り上げて、柵や石垣で囲って羊の牧場にしてしまう、「囲い込み(エンクロージャー)」と呼ばれる現象が起きていました。

その後、18世紀に2度目の「囲い込み」が起きたので、これは「第1次囲い込み」と呼ばれています。

SQ:なぜこの時代のイギリスで「囲い込み」が起きたのか?社会への影響も考えてみよう。
では、なぜこの時代にそのような「囲い込み」が起きたんでしょうか?
16世以降、イギリスの海洋進出が交易が活発になると、海外でイギリス産の毛織物が人気になります。

羊毛は丈夫で保温効果が高くて人気だったんです。
毛織物の輸出量が増えていき、需要が高くなったことで、 原料となる羊毛の価値(値段)は上がっていきました。
この羊毛ブームに目をつけたのが、領主や地主(ジェントリ)たちだったんです。
彼らはより多くの儲け(利益)を出すために、 領地内で農民(小作人)が耕していた土地を没収してしまい、羊の牧場に変えてしまったんです。
これが、いわゆる「囲い込み(エンクロージャー)」の始まりでした。

この「囲い込み」が起こったことで、社会にも変化が起こります。
土地を追い出された農民たちは、 村を離れざるを得ず、仕事を求めて都市へと移っていきました。
彼らの多くは、都市の工場で働くことになり、賃金をもらう労働者として働くようになりました。
こうして、封建的な農村社会から、 資本主義的な労働社会への変化が起こり始めていったんです。

失業や犯罪の増加などの社会問題に対して、トマス=モアは『ユートピア』で、「囲い込み」を「羊が人間を食べている。」と表現して、 利益のために人間の生活が犠牲になっている状況を批判しました。
毛織物の輸出が増加し、羊毛の価値が高まったため、領主や地主はより多くの利益を求めて農民の土地を取り上げ、牧羊地へと転換したため。これによって農民は土地を失い、都市へ移住して工場労働者となり、イギリス社会は封建的な農村社会から資本主義的な労働社会へと変化していった。

この「囲い込み」によって、土地を追われた人たちの「貧困化」という社会問題などは起きましたが、イギリスの羊毛生産量はグングン増えていき、毛織物産業はイギリスを代表する産業へと成長していました。

東インド会社の設立
イギリス国内で毛織物産業が発達したことで、商人たちが毛織物の輸出経路の拡大や、それと引き換えに購入するアジア物産の輸入拡大を求めるようになります。
そして、利益を求めるロンドンの大商人たちは、当時の女王エリザベス1世に働きかけました。

我々にアジア貿易を任せてもらえれば、王室に莫大な利益をもたらすことを約束いたします!
という感じに、インドなどのアジア貿易を独占するために、エリザベス1世に貿易独占の許可を得ようとしたんです。
当時、イギリス王室は、先を行くスペインやポルトガルに追いつきたいと思っていたので、
ロンドン商人たちに王国から特許を与えて、アジア貿易の独占を許可したんです。
それによって設立されたのが、東インド会社と呼ばれる組織でした。

エリザベス1世も、スペインやポルトガルのアジア進出に追いつきたかったんでしょうね。お互いの利益が合致したわけです。
この東インド会社は、王室をスポンサーにして、1航海ごとに資金を集める方式の、ロンドン商人たちによる貿易会社でした。

出資した人たち(イギリス王室など)は、航海が成功したら利益の一部を得ることができる方式でした。
この貿易特許会社である東インド会社によって、イギリスはアジアに割って入るように進出していくことになり、その後貿易の枠を超えて、植民地経営を任されるようにもなっていきました。

イギリス東インド会社のその後については、また今度やっていきましょう。
ちなみに、正式名称は「東インド諸地域に貿易するロンドン商人たちの会社」で、略して「東インド会社」なんです。

まとめ
MQ:絶対王政期のイギリスは、どのようにして海外進出を実現したのか?
A:王室が私掠船を公認して民間の海賊行為を利用し、スペインの富を奪って海軍力を強化した。また、毛織物産業の発展を背景に、商人に貿易独占権を与えて東インド会社を設立し、国家と民間が連携して海外進出を実現した。

今回はこのような内容でした。

次回は、フランスの宗教内戦についてみていきます。フランスでは宗教対立が激化しますが、どのように収束していったんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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