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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回は西ヨーロッパ商業圏の発展についてです。なぜ西ヨーロッパで商業が発展したんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:なぜ西ヨーロッパ商業圏は発展することができたのか?
今回は特定の時代ではないので11世紀以降の西ヨーロッパを指しておきます!

貨幣経済の進展
貨幣経済の停滞
西ヨーロッパでは11世紀まで農業が中心の経済でした。
貨幣は銀貨がわずかに流通している程度で、荘園でも農民の貢納は生産物などの現物で納めるのが基本でした。

荘園や修道院では基本的には自給自足の現物経済だったんでしたよね。
要は西ヨーロッパは現物経済が中心で、貨幣経済が停滞していた農業社会だったんです。

SQ:なぜ西ヨーロッパでは11世紀まで貨幣経済が停滞していたのか?

ではなぜ貨幣経済が停滞していたのかわかりますか?
その理由とは、「分裂と外敵」と「封建社会」です。
まず西ヨーロッパではもともとフランク王国のカール大帝の時代に銀貨が鋳造されて流通していました。
しかし、その後フランク王国が分裂してしまったことで、銀貨の鋳造が領主(諸侯)や教会ごとにおこなわれるようになって質が落ちてしまったんです。
そこに追い打ちをかけるようにその時代に発展したのが「封建社会」でした。
分裂による混乱や、イスラーム勢力の侵入などによって各地で領主たちが農民を囲ってできた独自経済圏が“荘園”でしたよね。
その荘園では農民や修道院による自給自足の現物経済が基本だったので、そもそも貨幣が必要ない農業社会が出来上がっていったというわけなんです。
このような分裂や外敵の侵入によって形成された封建社会によって、西ヨーロッパでは貨幣経済が停滞していったんです。

まあ西ヨーロッパでは寒冷な気候で農業技術もまだ未発達だったんで、生産量が少なかったんですね。なので農業に依存する経済になってしまっていたんですね。
大げさにいうと、「みんな農業しないと生きていけない。」みたいな状況だったんです。
国家分裂や外敵の侵入などによって形成された封建社会が自給自足の農業社会が中心だったため、貨幣経済が停滞した。

貨幣経済の拡大
しかし、11世紀以降になってくると西ヨーロッパ社会に変化が起きます。
貨幣経済が拡大し始めたんです。
ではどのようにして貨幣経済が拡大していったんでしょうか?
①農業生産の拡大と人口増加
まず初めに起こったのが、農業生産の拡大です。
この頃になると、イスラーム勢力やノルマン人の進出が落ち着いて封建社会が安定するようになります。
封建社会が安定したことで、荘園で三圃制や重量有輪犂、水車などの技術革新が起こって生産量が数倍に上がっていき、人口増加が起こりました。
その頃始まった温暖化も相まって、この人口増加に伴って農地を拡大する開墾運動が起こったんです。
これらによってさらに農業生産が拡大していくことになりました。
②商業の発展
農業生産が向上すると、農民たちは余剰生産物を生活に必要なものと交換するために市場にアクセスするようになります。
余剰生産物・・・需要を超えた余った生産物
要は「モノの売買」いわゆる「商売」が活発になるんです。
商売が活発になると農業をせずに商売に専念する“商人”やモノづくりに専念する“職人”が増えていきます。
そうなるとますます商売が活発になっていき、商業が発展すると同時に市場を持つ都市も発達していきました。

③ムスリム商人とノルマン商人の交易活動
そして商業が発展すると、西ヨーロッパの周辺に進出していたムスリム商人やノルマン商人との交易が拡大していき、それらの交易によって一層商業が活発になっていきました。
以上の①・②・③の売買の過程で貨幣が使われるようになっていったので、自給自足の現物経済から都市を中心とした商工業の貨幣経済へと変化して、拡大していったという流れになるわけです。
モノの売買では「貨幣」が必要になりますから。
(①農業生産の拡大 → ②商業の発展) + ③ムスリム商人とノルマン商人の交易活動 = 貨幣経済の拡大


貨幣経済の拡大によって、荘園での貢納も現物から貨幣で納める(地代)ようになっていきました。
商業が発展するにつれて農民の所得は増えていきましたが、その分領主からの税金も高くなっていき、その後の農民一揆や荘園崩壊につながっていくことになります。
遠隔地貿易の発展
しかも西ヨーロッパの人口増加に始まる拡大運動の一環として起こった十字軍によって、西アジアへの交易路が開かれるとさらに交易が活発になっていきます。
これを受けて西ヨーロッパの商人たちが恩恵を受けて、遠隔地貿易によって商業都市が発展していきました。

ヨーロッパではローマ帝国時代から大ブリテン島(イギリス)から羊毛を輸入して加工する毛織物産業が発達していました。


ここでは遠隔地交易によって発展した2つの商業圏について解説していこうと思います。
地中海商業圏
まず遠隔地貿易で発展したのが地中海商業圏でした。

地中海交易自体はは古代から交易を担う民族を変えながらおこなわれていました。

教科書レベルでいうと、フェニキア人から始まり、ギリシア、ローマあたりですかね。
しかし、11世紀末から十字軍が始まると、兵士たちの出港地となったイタリア港市で十字軍ビジネスで交易が盛んになります。
そして上記でも説明した通り、西アジアへの航路が開かれると、ビザンツ帝国やムスリム商人との東方交易(レヴァント貿易)が盛んになってこれらの都市はより一層繁栄していきました。

以下に東方貿易で取り扱われたモノをまとめておきますね。
●輸入品
エジプト産:小麦、砂糖
インド(南アジア)・東南アジア産:香辛料、宝石
中国産:絹織物、陶磁器
●輸出品
主に銀貨
特にアジアから持ち込まれた香辛料は西ヨーロッパの人々の生活必需品として重宝されました。
東方貿易(レヴァント貿易)ではこういった奢侈品(しゃしひん)が西ヨーロッパに輸入されていたんですね。
奢侈・・・必要以上に豪華なものやサービスを享受すること。贅沢。


SQ:なぜ地中海商業圏では奢侈な交易品が好まれたのか?

ではなぜ西ヨーロッパでは奢侈品が好まれたんでしょうか?
それは当時の上流階級の状況を考えてみましょう。
西ヨーロッパでは封建社会が落ち着いて、余剰生産物によって農民の収入が増加して貨幣経済が発展したんですよね。
それによって農民から税(貢納や地代)を徴収している荘園領主の収入も増加したので、ステータス(地位)を示すためや投資目的で交易品による贅沢が加速していったんです。

今でいうと、お金持ちがステータスのために外国車を乗り回すような感じですかね。
人はいつの時代でも見栄(マウント)を張りたくなる生き物なんです。
加えて贅沢品は投資対象にもなったので、このような需要から交易では奢侈品が好まれるようになったんです。
封建社会が安定して貨幣経済が発展したことで、余剰資産がある荘園領主が奢侈品を求めたため。
なのでこの地中海商業圏は一言でいうと、
地中海商業圏=奢侈品が中心

またイタリアの港市以外にも内陸のミラノやフィレンツェなどの都市も地中海交易によって繫栄しました。
これらの都市は川が多く流れているので、西ヨーロッパ交易の中継地としてローマ時代から栄えていたんです。
主にこれらの都市では毛織物や金融業(金貸し業)で繁栄しました。

なぜ金融業が発展したかというと、交易などの事業には大量の資金が必要になるので、交易に必要なお金を募ったり、貸したりする機会が増えて職業化していったというわけなんです。
交易品以外にも、サトウキビや綿花、果実などの栽培方法も西アジアから使わって、イベリア半島を中心に栽培されるようになりました。

ヨーロッパで有名なワインの原料であるブドウの栽培もこの時に伝わったんですよ。
こうした技術が伝わったのも、この地中海商業圏のおかげだったんですね。
北ヨーロッパ商業圏
そしてもう一つの大きな商業圏が北海・バルト海を中心にできた北ヨーロッパ商業圏です。

この商業圏の中心は北ドイツ諸都市でした。
・リューベック
・ハンブルグ
・ブレーメン

海産物、木材、穀物、塩、毛織物など

これらの交易品を見て何が共通点かわかりますか?

奢侈品ではなく生活に必要なモノが多いように感じます。

そうですね。
この北ヨーロッパ商業圏が地中海商業圏と比べて特徴的だったのが、交易品の中心が「生活必需品」だったことなんです。
北ヨーロッパ商業圏=生活必需品が中心
北ドイツ諸都市では、もともとこのような生活必需品の生産が盛んだったので、自然とそれらを周辺に輸出するようになり、代わりに他の必需品を輸入するという関係ができていました。

現在のベルギーがある地域は当時フランドル地方と呼ばれていて、海を挟んで北にあるイギリスから羊毛を輸入して加工する毛織物産業が盛んでした。
特にガンやブリュージュといった都市で盛んに毛織物が生産されて、商業都市として繁栄しました。

フランドル地方もローマ時代から毛織物産業がありましたが、貨幣経済の拡大で一気に繁栄していきました。
逆にイギリスは北ドイツの諸都市やフランドル地方に羊毛を輸出する北海貿易で発展し、特に中心地のロンドンは商業や金融の都市として発展していきました。


二大商業圏の中継地

この「地中海商業圏」と「北ヨーロッパ商業圏」という2つの大きな商業圏が作られたことで、その間に挟まれた地域はどんな影響を受けるでしょうか?

中継貿易で繁栄します!

その通りですね。古代オリエントのリディア王国でも説明しましたが、巨大な文明や国家に挟まれた地域は中継貿易によって発展するという法則がありましたね。
2つの文明(商業圏)に挟まれた地域は中継貿易によって繁栄する。
この法則が西ヨーロッパでも適用されて、2つの商業圏に挟まれた内陸部では交易路が整備されて交易の中継地になった都市が発展していきました。
代表的なのはフランスのシャンパーニュ地方と呼ばれる地域です。
ここでは毎年定期市が開かれて、フランドルの毛織物やフランスのワイン、イタリア商人が東から持ち込んだ絹織物や香辛料など、各地の特産物が取り引きされて繁栄しました。

ちなみにみなさん、“シャンパン”というお酒はご存じですか?
これはシャンパーニュ地方もワインの産地で、独特の炭酸ガスが発生するワインが作られたことから、地名をとって“シャンパン”と呼ぶようになったんですよ。なのでシャンパンはシャンパーニュ地方で採れたワインを指すので、他の産地のものは“スパークリングワイン”と呼ぶそうです。
シャンパーニュ地方以外にもドイツのニュルンベルクやアウクスブルなどの都市も中継地として繁栄しました。


まとめ
MQ:なぜ西ヨーロッパ商業圏は発展することができたのか?
A:封建社会が安定したことで余剰生産物の売買から商業が発展し、貨幣経済が拡大した。これに加えてムスリム商人やノルマン商人の活動が活発になり、西アジアへの交易路も開拓されたことで地中海商業圏や北ヨーロッパ商業圏が形成され、発展することができた。

今回はこのような内容でした。

次回は今回扱った中世の都市の発展を中心にみていきます。中世ヨーロッパの都市はどのような存在だったんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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