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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回はアメリカ大陸の開拓の2回目となる「征服編」です。中南米にあった先住民文明はスペインによって征服されてしまいます。なぜ先住民文明は征服されてしまったんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:なぜスペインは中南米のインディオ文明を征服することができたのか?
「征服者」(コンキスタドール)
「征服者」(コンキスタドール)
SQ:なぜスペインは「征服者」(コンキスタドール)を派遣したのか?
コロンブスのアメリカ大陸到達以来、カリブの島々では金が見つかるようになります。
探索する中で、現地人から「黄金の国がある。」という情報を得たことでスペイン国内では、

新世界(アメリカ大陸)には大量の金銀が採れるらしいぞ。
という資源への期待感が高まります。
当時、スペイン王国は統合や戦争によって、財政的に厳しい時期が続いていたので、このアメリカ大陸への資源に大きな期待を抱くようになるんです。
なので、ここからスペイン王国は新たな資源を獲得するために、アメリカ大陸に征服者(コンキスタドール)を派遣するようになっていきます。
王国の財政難を解決し、新世界で得られるとされた大量の金銀などの資源を獲得するため。

コルテス
スペイン王はユカタン半島に大量の金を抱えるアステカ王国という文明があることを突き止めて、コルテスという人物を派遣します。

コルテスはメキシコに上陸して植民都市を建設して、そこからアステカ王国の首都のテノチティトランに向かいます。
テノチティトランに到着したコルテス一団は都市を見て仰天します。
当時、テノチティトランは湖の上にそびえる巨大都市で、当時世界最大級の人口をもつほど大規模な都市だったんです。

16世紀にスペイン人が訪れた際には、「ヨーロッパの中心都市にも劣らないほど立派だ。」というような記録が残っているほど実は立派な都市だったんですよ。
加えてアステカ王国は金を宗教儀式や装飾にたくさん使っていたので、コルテス一団はその豪華さに仰天しました。

アステカ王国は数万の軍を即座に動かせるほどの軍事力を持っており、コルテス一団は約400人ほどの小規模だったんですが、白人の騎兵や火器を初めてみたアステカ王は、

無駄な衝突はさけて、伝統に乗っ取って丁重にもてなそう。
という感じで、アステカ王は無駄な衝突を避けるために、丁重にコルテスをもてなして、豪華な金品を献上しました。
これを好機と見たコルテスは、隙を見てアステカ王を拘束してしまい、スペイン兵に監視させながら王国全土から莫大な金銀財宝を集めさせたんです。

軍事力で劣勢だったので、国王を生かして操り人形にしたんですね。

その後、アステカ王が民衆から見限られてアステカ市民の暴動が起きてしまい、コルテス率いるスペイン軍は多大な犠牲を出しながら命からがら都市を脱出するなど、一時は劣勢に追い込まれてしまいます。
しかし、コルテスはアステカ王国の支配に不満を持つ部族を味方につけたり、スペイン人が持ち込んだ疫病(天然痘)によって、免疫のないテノチティトランの人口が激減してしまうなどの出来事があって優勢になっていきます。
そして味方につけた反乱部族と共に、コルテスはテノチティトランを再び征服することに成功して、アステカ王国は滅亡してしまい、スペインの植民地になりました。

テノチティトランを破壊して建設された町が、現在のメキシコシティの始まりなんですよ。

ピサロ
そしてもう一人の代表的な「征服者」(コンキスタドール)がピサロという人物です。

ピサロはバルボアによって南アメリカ大陸が探索された際に、現地人から聞いた「南にある黄金帝国」を探すためにスペインによって派遣されました。
何度か探索に挑戦した後に、現在のペルーに位置するインカ帝国内に到達することに成功します。
インカ帝国は周辺の部族をまとめあげる大帝国で、国家機構が整備されていて、帝国から伸びる道も草一つも生えていないほどに整備されていました。

なので、逆にピサロ率いるスペイン軍の侵入しやすかったそうです。
インカ帝国に関しても[1-5.2]中南米の先住民文明をご覧ください。

スペイン軍は完全に武装していたんですが、インカ皇帝は、

神託では、静観して監視せよとのことだ。
ということでピサロたちを招き入れたんすが、ピサロがインカ皇帝にキリスト教への改宗を進めた際に皇帝が激怒して聖書を破り捨てたのをきっかけに、スペイン軍は「神への冒涜」だとして銃で射撃し、広場で待機していたインディオを次々と射殺してしまいます。
その後、ピサロは抵抗するインカ皇帝を捕虜にして、後日処刑してしまいました。

ピサロはスペインでコルテスと面識があり、アステカ帝国征服の経験から、インディオは王が殺されたらたちまち抵抗できなくなるから、まず皇帝を殺すことだと助言されていたそうですよ。
ちなみにインカ皇帝は捕虜になった際に、解放してもらうために部屋を金品で埋め尽くしたそうです。
その後もインカ帝国の抵抗や反乱が続きましたが、最終的には鎮圧されてインカ帝国は滅亡することとなりました。

インカ帝国でもスペイン人が持ち込んだ疫病が流行して、人口が減少し、衰退していました。
こうしてアステカ王国やインカ帝国はスペインによって征服されてしまったんですが、スペインに限らず、北アメリカ大陸でもイギリスやフランス、オランダ人などが武力で先住民を圧倒して土地を支配しました。
植民地経営
エンコミエンダ制
「征服者」(コンキスタドール)などによって財宝が略奪し尽されると、スペイン王国から「キリスト教の布教を条件に、インディオを労働や貢納をさせてもよい。」という、植民地経営の委任許可を得ます。
この制度をエンコミエンダ制といいます。

国王も「征服者」たちの功績に見合う報酬が必要と感じたので、その土地の経営を任せて甘い汁を吸わせたというわけなんです。
エンコミエンダ制によって植民地経営を委任された入植者は、ヨーロッパから持ち込んだ小麦やサトウキビなどの農作物の栽培や、金銀などの採掘の労働力にインディオを使い、開発を進めていきました。
本来この制度は、インディオは保護して、租税という形で労働をさせる目的でしたが、入植者たちは次第に無視するようになっていき、利益のためにインディオたちを無給で働かせる強制労働に変わっていきました。
ポトシ銀山やメキシコで銀山が発見されると、このエンコミエンダ制によって、多くのインディオが強制労働によってヨーロッパ人たちに酷使されるようになっていきました。

ちなみにスペインはフィリピンでもこのエンコミエンダ制で統治していたそうです。

ラス=カサスのインディオ保護活動
このエンコミエンダ制のような過酷な強制労働や、ヨーロッパから持ち込まれた疫病(天然痘など)によって、インディオの人口は激減していくことになりました。

約1000万人いたとされるインディオは10分の1の約100万人にまで減少したといわれています。
しかし、このような行為に対してヨーロッパで批判する人もいたんです。
それがドミニコ修道会の修道士だったラス=カサスという人物でした。

ラス=カサスは若い頃にエスパニョーラ島(現在のハイチやドミニカ共和国)の遠征に参加していて、そこで植民地経営を直接見ていた人物でした。


エスパニョーラ島では以下のようなことがありました。参考としてどうぞ。
彼らは、誰が一太刀で真二つに斬れるかとか、誰が一撃のもとに首を斬り落とせるかとか、内臓を破裂させることができるかとか言って賭をした。彼らは母親から乳飲み子を奪い、その子の足をつかんで岩に頭を叩きつけたりした。また、ある者たちは冷酷な笑みを浮かべて、幼子を背後から川へ突き落とし、水中に落ちる音を聞いて、「さあ、泳いでみな」と叫んだ。彼らはまたそのほかの幼子を母親もろとも突き殺したりした。こうして彼らはその場に居合わせた人たち全員にそのような酷い仕打ちを加えた。さらに、彼らは漸く足が地につくぐらいの大きな絞首台を作り、こともあろうに、われらが救世主と12人の使徒を称え崇めるためだと言って、13人ずつその絞首台に吊し、その下に薪をおいて火をつけた。こうして、彼らはインディオたちを生きたまま火あぶりにした。(引用:ラス=カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』染田秀藤訳 岩波文庫 1976)
このようなキリスト教の教えに反するような残虐な行為がおこなわれているのを目の当たりにして、ラス=カサスは帰国後に修道士になって、入植者の行為を批判し、インディオの保護活動をおこなうようになったんです。
ラス=カサスは活動の中で、入植者たちの残虐行為を告発して、エンコミエンダ制を廃止するために『インディアスの破壊についての簡潔な報告』という報告書を書いてスペイン国王に直訴もおこなったりもしています。

当時のスペイン王はエンコミエンダ制を見直すことを約束したそうですが、現地からの反発も多くて結局は実現しませんでした。
SQ:なぜアメリカ大陸では残虐行為が許されていたのか?

ではなぜこれだけのインディオに対する残虐行為が許されていたんでしょうか?
それは以下のラス=カサスの報告書の一部を呼んで考えてみましょう。
彼らのその有害きわまりない盲目ぶりは度を越し、ついに彼らはインディオ向けの降伏勧告状(レケリミエント)を作成することを思いつき、実際にそれを作成し、…読んで聞かせることを命じた。降伏勧告状とは、インディオに対して、キリストの信仰を受け入れ、カスティリャ王国に臣従するよう勧告し、もし言うとおりにしなければ、情け容赦ない戦争を仕掛けられ、殺されたり捕らえられたりする云々、と言い聞かせる文書であった。…そのようにして、スペイン人は、彼らが征服(コンキスタ)と呼ぶ活動をおこない続けた。征服とは、残忍な無法者たちがおこなう暴力的な侵略であり、それは神の法のみならず、あらゆる人定の法にも背馳し、…劣悪な所業である。(引用:ラス=カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』染田秀藤訳 岩波文庫 1976)
ここで注目すべきは、
「キリストの信仰を受け入れ、カスティリャ王国に臣従するよう勧告し、もし言うとおりにしなければ、情け容赦ない戦争を仕掛けられ、殺されたり捕らえられたりする云々、と言い聞かせる…」
という部分です。
これはインディオを異教徒の非文明人として見下していて、キリスト教への改宗と王への服従を強制することで「暴力を正当化」していたことがわかります。
キリスト教への改宗の義務も、もはや強制労働や暴力のための形式でしかありませんでした。
このような方法によって、スペイン人によるアメリカ大陸での残虐行為が許されてしまったというわけなんです。

おまけに本国からは遠くて、入植者に統治権も委任しているんで、本国からだと何をしているかが不透明で、監視するのが難しかったんです。そりゃ監視がなければ好き放題しますよね。
スペイン人がインディオを異教徒・非文明人とみなし、キリスト教への改宗と王への服従を強制する「正当な戦争」として暴力を正当化していたため。

アシエンダ制
エンコミエンダ制による過酷な労働と疫病の蔓延によってインディオの人口は次第に激減してしまい、植民地では労働力が不足するようになってしまいます。
そこでエンコミエンダ制に変わって普及したのが、“アシエンダ制”と呼ばれるものでした。
アシエンダ制とは、入植者たちに土地を与えて農業開拓をさせて、労働力としてインディオの代わりにアフリカから連れてこられた黒人が奴隷として労働する大農園制度でした。

ヨーロッパ大航海時代初期の、アフリカ西岸探索の時期から黒人奴隷貿易は始まっていましたよね。
ちなみにアフリカ人の黒人は高い致死率を持つ疫病のマラリアに耐性があったので、重宝されたそうですよ。
ここからアメリカ大陸の黒人史が始まっていくんですね。

アシエンダ制は基本的には現地(植民地)で必要な食糧を生産する目的で作られた制度なので、輸出用の商品作物を生産するプランテーションとは少し特徴が違うので、違いについて注意しておきましょう。
メキシコ特産のテキーラもこのアシエンダ制で作られていたそうですよ。
まあ、結局あとで次第にプランテーションに変化していくんですが・・・

ここで、エンコミエンダ制とアシエンダ制との違いについてまとめておきましょう。みなさんも自分でまとめてみてください。
スペイン国王から、「征服者」が「インディオをキリスト教に改宗させる。」という名目で、彼らを働かせる権利をもらう制度。
実際には、インディオを強制的に働かせることが多く、病気や過酷な労働で多くの命が失われた。
エンコミエンダ制による労働力不足から始まった、大農園(アシエンダ)をスペイン人が持ち、黒人奴隷を使って作物を育てる制度。
さらに簡単にまとめるとこんな感じです。
エンコミエンダ制・・・インディオを使った支配と労働
アシエンダ制・・・黒人奴隷を使った大農園経営

プランテーションの始まり
アシエンダ制は現地食糧の生産が目的でしたが、ポルトガル領のブラジルでも黒人奴隷を使った大規模農園の開発が進んで、こちらでは輸出用の商品作物が栽培されるようになっていました。
このような入植者が現地人や黒人奴隷を労働力として、“輸出用の商品作物”を栽培する仕組みをプランテーション(大農園)と言います。
このプランテーションは西インド諸島でも17世紀以降におこなわれて、スペイン・イギリス・フランス・オランダなどが砂糖やコーヒー、タバコなどが大規模に生産されて、ヨーロッパに輸出されていきました。

後にアメリカ大陸では綿花プランテーションも盛んになっていきます。

植民地支配構造とガレオン貿易
支配構造
このようにして、中南米はスペインやポルトガルの植民地になっていきました。
植民地は、総督と呼ばれる本国から派遣された官僚と、「征服者」(コンキスタドール)に代わって黒人奴隷を使ったプランテーション(大農園)を経営する白人の地主の2つの支配層によって構成されていました。

入植者たちに支配されていた先住民(インディオ、インディアン)や黒人奴隷の間にもキリスト教(ローマ=カトリック)の信仰が広まっていきました。

ガレオン貿易
中南米を支配・開拓したスペインは、メキシコで採れた銀をガレオン船でアカプルコからフィリピンのマニラまで運び、中国と交易するガレオン貿易をおこなうようになっていきます。
ガレオン貿易は年1回の往復で、片道の航海で約3か月半から半年かかる危険な航海でした。
しかし、中国特産品の積荷はメキシコで2倍以上の高値で売れたので、大きな利益を生んでいました。

利益のために交易品を積み過ぎてしまって、30隻以上のガレオン船が沈没したそうです。
この太平洋を横断するガレオン貿易によって、スペイン王国は莫大ば利益を得て、中国にも大量の銀が流入して社会構造に変化が起こるような影響を与えました。

しかし、ガレオン貿易に参加できたのはスペイン人商人とカトリック教会だけだったので、フィリピンには利益は還元されず、フィリピン人は積荷などで強制労働を強いられたので、フィリピン経済は停滞していくという負の側面もあったんですよ。

まとめ
MQ:なぜスペインは中南米のインディオ文明を征服することができたのか?
A:インディオ文明の征服において、スペインは少数の兵力ながら火器や騎兵といった軍事技術を駆使し、部族間の対立を巧みに利用して味方を増やした。さらに、天然痘などの疫病によって人口が激減したことで、アステカ王国やインカ帝国といった強大な文明を崩壊させて征服することができた。

今回はこのような内容でした。

次回は商業革命と大西洋世界に成立についてみてきます。大西洋世界とはいったいどんな特徴を持っていたんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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