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[10-3.1]清の中国支配と拡大

10-3.清

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はじめに

グシャケン
グシャケン

前回はこのような内容でした。

グシャケン
グシャケン

今回は清の中国支配と拡大についてです。清はどのようにして中国支配を確立させたんでしょうか。

それでは一緒にみていきましょう!

MQ:清はどのようにして中国を支配し、その後拡大していったのか?

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中国支配

清の台頭と明の滅亡

グシャケン
グシャケン

ここは[9-1.9]清の建国と明の滅亡の復習になります。

16世紀以降の中国では、明が財政難や政治混乱、重税や飢饉が重なったことで、各地で反乱が起きて社会が混乱していました。

ヨーロッパの進出によって最新式の火器が広がったこともあって、明の混乱の中で各地では強力な軍事力を持つ新興勢力が登場します。

その中でも存在感が強かったのが、中国東北部から台頭した女真族のでした。

グシャケン
グシャケン

清はヌルハチの後金から始まって、2代目のホンタイジで建国された王朝でしたよね。

清は中国東北部から内モンゴル、朝鮮半島まで領土を拡大して、中国本土へも進出しようと明と抗争していました。

しかしそのような中で、明を直接倒したのは清ではなく、農民反乱から頭角を現した李自成の反乱軍だったんです。

清の建国 明の滅亡 李自成

中国支配(順治帝)

当時、東北部の国境では明の武将だった呉三桂(ごさんけい)が清軍の侵入を食い止めていました。

呉三桂

しかし、明が滅亡した知らせを聞くと、すぐさま清に降伏して、自ら李自成を討伐するために清軍を中国へ招きいれて首都だった北京まで先導していったんです。

グシャケン
グシャケン

呉三桂の家族が北京で人質になってしまっていたので、一度は投降を考えたそうですが、家族と自分のその後を守るためにも、李自成ではなく清に助けを求めたようです。

清軍と呉三桂の攻撃を受けた李自成は北京から逃亡してしまい、清が北京を占領したことで、空白だった中国王朝の皇帝の座に当時3代目の順治帝(じゅんちてい)が座ることになりました。

順治帝

こうして、明が滅亡した後は清によって中国が支配されることになっていきます。

グシャケン
グシャケン

順治帝が中国を支配した時はまだ6歳だったので、摂政として叔父が実権を握って中国支配を指揮していました。

清の中国支配 順治帝 呉三桂

三藩

清が北京を占領して順治帝が皇帝の座に就くと、各地で明の皇族を祭り上げて反乱が勃発しますが、清軍や呉三桂などの漢人武将によって鎮圧されてしまいました。

こうして中国のほぼ全土を支配した清は、すべてを直接統治したわけでなはく、投降してきた呉三桂などの漢人武将に南の領土を分け与えて、藩王として統治させる三藩(さんぱん)制を採りました。

グシャケン
グシャケン

要は地方の自治を任せることにしたんです。南は反清勢力が根強い地域だったようで。

ちなみに呉三桂などの漢人武将の軍は清の八旗からも独立していて、特別扱いだったそうですよ。どうしてそこまでの待遇を受けたんでしょうか?

三藩 藩王 呉三桂 
三藩

SQ:なぜ清は漢人武将(三藩)を特別扱いしたのか?

ではなぜ、清に投降した漢人武将はここまで特別待遇を受けたんでしょうか。

グシャケン
グシャケン

清の民族と支配した経緯を考えてみましょう。

それには以下の2つの要因が挙げられます。

①明の旧勢力の懐柔

②地方の安定と軍事力の活用

なぜ清は漢人武将(三藩)を特別扱いしたのか?

①明の旧勢力の懐柔

清は中国を支配したとはいえ、女真族が新興勢力として占領しので、多数派の漢人から支持を得ないことには政治を安定させることができない状況でした。

そこで一刻も早く漢人から支持を得たい清の皇帝は、もともと明の有力武将だった呉三桂らに地方統治を任せることで、明の旧勢力の漢人たちを懐柔させて支持を得ようと考えたんです。

②地方の安定と軍事力の活用

そして2つ目が、呉三桂らの武将は自軍を率いたまま清に降伏してきたので、それなりの軍事力を持っていました。

彼らを三藩として地方統治を任せれば、彼らの軍事力をそのまま統治に活かすことができて、反清勢力に対する治安維持に役立てることができたんです。

グシャケン
グシャケン

要は、彼ら漢人武将の力を借りないと、中国支配を安定させることができなかったということなんです。

こうした理由から、漢人武将を藩王として地方統治を任せる特別扱いによって、漢人を懐柔して支持を得て、中国の支配を安定させようとしたというわけなんです。

SQ:なぜ清は漢人武将(三藩)を特別扱いしたのか?

明の旧勢力を懐柔し漢人の支持を得ること、そして漢人武将の軍事力を活用して地方の安定を図るために、特別待遇によって藩王として登用した。

なぜ清は漢人武将(三藩)を特別扱いしたのか?

鄭成功の台湾支配

清の中国支配に対して最も抵抗したのが、中国沿岸で海上貿易を営んでいた鄭成功(ていせいこう)でした。

グシャケン
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鄭成功は、明の時代に海上交易で成功して明の武官にも就いていた鄭芝竜(ていしりゅう)の息子で、日本人の母を持つハーフとして日本の平戸で生まれました。

鄭成功

明が滅亡した後、明と縁があった鄭氏親子は明の王族などを助けて、清に抵抗します。

グシャケン
グシャケン

鄭成功は明の王族を助けたことから、明の姓である「朱」をもらって“国姓爺(こくせんや)”と呼ばれるようになりました。ちなみに「爺」とは「旦那」という意味だそうです。

父親は途中で投降してしまいますが、息子の鄭成功は海上交易で得た潤沢な資金を使って、沿岸を襲撃して、清を翻弄するなどの抵抗を続けました。

鄭成功率いる武装船団は2万人以上の大船団を率いて、当時オランダが支配していた台湾に上陸してオランダ軍を追放し、台湾を支配下に置きました。

これによって鄭成功以降、3代にわたって台湾を支配することになり、台湾史上初の漢人政権が誕生しました。

グシャケン
グシャケン

その後、鄭氏は清に支配されるまでの22年間、台湾を支配していました。

鄭成功 台湾支配
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康熙帝

三藩の乱

清では順治帝の後に、康熙帝(こうきてい)が4代目の皇帝に就くことになりました。

グシャケン
グシャケン

康熙帝は中国王朝きっての名君として有名なんですよ。詳しい政策などは次回でみていきましょう。

康熙帝

康熙帝は周辺の脅威を排除して、皇帝に権力を集め中国全土を支配しようと考えました。

グシャケン
グシャケン

周りに気を遣う相手がいると自分のやりたい理想の政治がやりにくいですからね。

そこで一番康熙帝にとって脅威になったのが、国内で地方統治を任せていた三藩の存在でした。

三藩はそれぞれ藩王として、領地内の徴兵権や徴税権、官僚の任命権も握っているほどの権力を持っていて、ほぼ独立国家として地方に君臨していました。

中央政府から独立して独裁的な統治をしていた三藩に対して、康熙帝は清の脅威だと感じて三藩を廃止しようとします。

それに感づいた藩王の呉三桂が、他の藩王と結託して清に対して、明朝復興を掲げて挙兵して、三藩の乱が起こりました。

反乱軍は一時、南側の約半分を占領してしまうほど拡大していきましたが、徐々に康熙帝率いる清が優勢になっていき、約9年間の末に三藩の乱は鎮圧されて、中国での清の皇帝支配が確立されることになりました。

康熙帝 三藩の乱

台湾支配

康熙帝は鄭成功以降、反清勢力の拠点になっていた台湾の支配にも動きます。

グシャケン
グシャケン

隣の島国に、海上交易を邪魔してくる敵がいると厄介ですからね。

康熙帝は、厳しい海禁政策をとることで海上交易を制限し、鄭氏台湾の財源を絶とうとしました。

グシャケン
グシャケン

海禁政策では、沿岸の住民を内陸に強制移住させて無人化させるなど徹底されていたそうです。

この海禁政策によって徐々に財政難になっていった鄭氏台湾は、権力争いが起きしまうなどの混乱によって、弱体化が進んでいくことになりました。

それをチャンスとみた康熙帝はすぐさま台湾に軍を送って占領してしまい、降伏した台湾は清の領土として組み込まれることになりました。

康熙帝 鄭氏台湾支配
グシャケン
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ちなみに台湾支配後は、海禁政策はすぐに解除されたそうです。交易の利益は貴重な財源ですからね。

ネルチンスク条約

中国全土を平定して反清勢力を一掃した清ですが、すぐに国際問題に直面します。

まず直面した問題が、ロシアとの北方問題でした。

グシャケン
グシャケン

当時、ロシアはロマノフ朝のピョートル1世が支配していました。

ロシアは当時、毛皮などの特産を求めてシベリアを南下して、清の北側(満州)まで迫っていました。

ロシア商人や軍人による毛皮や金などの略奪が目立つようになり、内乱を平定したばかりの康熙帝は、これに対処するために北に軍を派遣します。

そうして清の北側で清軍とロシア軍の間で小競り合いが起きるようになり、その攻防は数年に渡って続きました。

3年ほど経ったところで、康熙帝がロシア皇帝ピョートル1世に和平交渉を持ちかけたことで、国境を定めたネルチンスク条約が結ばれることになりました。

ネルチンスク条約の内容

・アルグン川とスタノヴォイ山脈(外興安嶺、そとこうあんれい)を国境に定める。

・ロシアは城を放棄して、ネルチンスクで交易をおこなう。

などの内容が結ばれました。

グシャケン
グシャケン

この条約は初めて中国王朝が他国と対等な関係で結んだもので、ヨーロッパの国際法を意識しながら作られたそうですよ。

ちなみに通訳を担当したのは、清朝側のキリスト教宣教師だったそうです。

ネルチンスク条約 アルグン川 スタノヴォイ山脈(外興安嶺)
ネルチンスク条約

ジュンガルとチベット

そして、敵対していた清とロシアが急に歩み寄ったのには、当時外モンゴルで急速に成長していたジュンガルが関係していたんです。

ジュンガルはモンゴルだけでなく、チベットやトルキスタンにも勢力を拡大していたので、康熙帝は脅威となったジュンガルを討つべく軍を派遣します。

グシャケン
グシャケン

ロシアとも国境を接して対立していたので、ネルチンスク条約締結の流れになったんですね。

清軍はジュンガルを破って外モンゴルを支配し、ジュンガルが抵抗を続けていたチベットにまで侵攻して、ジュンガルとチベット仏教の保護者の地位をかけての対立が続きました。

ジュンガル
ジュンガル
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雍正帝、乾隆帝

雍正帝

康熙帝の後を継いだ雍正帝(ようせいてい)は、外モンゴルを支配したことをきっかけに、またしてもロシアと国境をめぐってもめるようになります。

雍正帝
グシャケン
グシャケン

雍正帝は教科書では影が薄いですが、康熙帝の後継としてのプレッシャーに負けないぐらいの努力家だったんですよ。

そこで、新たに国境を決めたキャフタ条約を結んで、両国の国境を画定させることになりました。

雍正帝 キャフタ条約

乾隆帝

その雍正帝の後を継いだ乾隆帝は、いまだチベットで抵抗を続けていたジュンガルを滅ぼすために遠征をおこないます。

乾隆帝

康熙帝の遠征によって一時的に弱体化したジュンガルは、内部で権力闘争が起きて混乱していました。

このタイミングで遠征をおこなった乾隆帝は、数回にわたってジュンガルを攻撃して破り、チベットからジュンガルを追い出して滅亡させることに成功します。

次いで東トルキスタンでもウイグル人が、清に反発してイスラーム王朝を建てようとしたので、乾隆帝はこれも鎮圧して、東トルキスタン一帯も支配下に入れることになりました。

乾隆帝は新たに領土に組み込んだ東トルキスタンを「新疆(しんきょう)」と名付けて支配することになりました。

グシャケン
グシャケン

「新疆」とは「新しい土地」という意味があります。

ここが中国で現在、新疆ウイグル自治区になっている所ですね。

乾隆帝 ジュンガル滅亡 新疆
新疆

こうして、清は順治帝の代に中国支配が始まり康熙帝、雍正帝、乾隆帝の3代に渡って拡大していったことで、現在の中国領土の原型が完成していったんです。

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まとめ

MQ:清はどのようにして中国支配を確立し、その後拡大していったのか?

A:明の混乱を背景に台頭し、漢人武将の懐柔と軍事力の活用によって支配を安定化させた。さらに、三藩の乱の鎮圧と台湾の併合、ロシアとの条約による国境の確定、西域への遠征による領土拡大を通じて、中国全土の支配を確立していった。

グシャケン
グシャケン

今回はこのような内容でした。

次回は、清の統治についてみていきます。今回は拡大の過程がメインでしたが、次回はその過程でんな統治がおこなわれていたのかについてみていきます。清の統治にはどんな特徴があったんでしょうか?

それでは次回もお楽しみに!

「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク

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