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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回はモンゴル帝国が解体された後のアジアについてみていきます。どんな勢力図の変化が起きたんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:モンゴル帝国解体後にアジア各地の勢力図はどのように変化したのか?
2つの新帝国(ティムール朝、明朝)
東西ユーラシアを統一したモンゴル帝国は、14世紀に起きた気候変動によって疫病や飢饉が続き、反乱や内紛が起きたことで、モンゴル帝国は解体されていきましたよね。
その時期にチャガタイ=ハン国の内紛の中で台頭して建国されたのがティムール朝でした。
ティムール朝はモンゴル帝国の意志を受け継いで、中央アジアから西アジアまで広がる大帝国を築きました。
そしてもう一つが、東アジアを支配していた元朝(大元)を滅ぼして北のモンゴル高原に追いやり、中国王朝を復活させた明朝でした。

明朝については次回以降に詳しくみていきます。
モンゴル帝国解体後は、この西のティムール朝と東の明朝という2つの大帝国が成長して勢力を拡大させていきました。

オスマン帝国とモンゴル勢力
オスマン帝国
西の大帝国ティムール朝のさらに西には、イスラーム政権であるオスマン帝国がバルカン半島から小アジアにかけて勢力を拡大しつつありました。

ティムール朝とのアンカラの戦いで敗れたことで、一時的に拡大は足踏みしましたよね。
このオスマン帝国についても後々詳しく扱うので、お楽しみに。

モンゴル勢力のその後
モンゴル帝国のカアン(皇帝)として君臨していた元朝(大元)のモンゴル人たちは、明朝に滅ぼされた後、北のモンゴル高原まで退くことになりました。
そして、モンゴル高原の東側を支配したモンゴル人たちは、明朝以降「韃靼(タタール)」と呼ばれるようになっていきます。

「韃靼」とは昔から北方の遊牧民を指す言葉だったんですが、中国王朝を復活させた明朝では、以前の支配者だったモンゴル人たちを異民族扱いすることで、自分たちの支配を正当化しようとして、あえてこのような言い方をしたそうです。
対して、モンゴル高原の西側を支配していた遊牧民たちはオイラトと呼ばれるようになり、次第に勢力を拡大して、東側の韃靼(タタール)と争うようになっていきました。
こうしたモンゴル勢力は度々、明朝との国境である長城を超えて侵入し、明朝を脅かす存在として北方を支配しました。

日本と朝鮮半島
倭寇
東アジアの日本や朝鮮も、モンゴル帝国が解体された14世紀に激動の時代を迎えます。
日本では鎌倉幕府に不満を持つ武士たちを取り込んだ後醍醐天皇が挙兵して、鎌倉幕府を滅ぼします。
しかし、後醍醐天皇による天皇中心の政治(建武の新政)は武士を軽くみていたので、武士たちの不満が溜まっていき、有力武士だった足利尊氏が挙兵して京都に新たな幕府を開きました。
これが室町幕府の誕生ですね。

室町幕府は新しい天皇をたてて、後醍醐天皇を排除しようとしました。

後醍醐天皇はこれに対して、南の吉野まで逃れて室町幕府に徹底抗戦の構えをみせました。
こうして、各地の武士がそれぞれの陣営について、南北に分かれて争った南北朝時代が訪れました。

朝鮮半島では、高麗が元朝(大元)に服属していましたが、紅巾の乱によって元朝(大元)が滅亡しそうになると、王朝内で親元派と反元派に分かれて対立が起きます。
この政治闘争に加えて中国から反乱軍がなだれ込んで来るなど、高麗は混乱に陥りました。

そんな時代に現れたのが、倭寇(わこう)と呼ばれる海賊たちでした。
この倭寇たちは朝鮮半島から中国沿岸にかけて食糧と人を略奪する海賊行為を繰り返し、幕府や高麗、明朝などの海上交易に被害を与えて、頭を抱えてしまうほど活発に活動していました。

だって海運を好き勝手暴れられたら交易が台無しですからね。
倭寇は主に九州などの西日本の武士や商人、漁民たち(倭人)が中心だったと言われ、中には朝鮮人や中国人も倭寇として海賊行為をしていたそうです。

SQ:なぜこの時期に倭寇の活動が活発になったのか?

ではこの時代に、なぜ倭寇が活発に海賊行為ができたんでしょうか?
それには東アジア全体の情勢が関係していました。
まず、日本では南北朝に分かれて内乱が起こっていたで、国内が混乱してしまい、地方では幕府のコントールが効かなくなり、ほとんど無法地帯のような状況になってしまいました。
このような状況で、九州などの西日本では武士や商人、漁民などが沿岸で略奪行為をするようになってしまったんです。

日本海や朝鮮、中国沿岸では元朝による海運整備で海上交易が盛んでしたからね。金目の物がたくさん往来していたのを狙っていたというわけです。
このような略奪行為が常態化していき、彼らは周辺諸国から”倭寇”と呼ばれるようになっていったんです。
日本の南北朝時代による混乱で、地方統制が効かず、海賊行為をする連中が出現した。

そして中国ではモンゴル帝国が衰退して元朝の支配力が低下してしまったことと、高麗でも社会不安や政治の混乱が続いたことで、こちらも地方統制が効かなくなり、沿岸周辺の治安が保てなくなり、倭寇の略奪行為を取り締まることが難しくなってしまったんです。

要は、そこまで見ている余裕がなかったんです。
モンゴル帝国(元朝)の衰退、高麗での政治混乱によって、沿岸付近の治安が保てなくなったため。
こうした理由から、日本人だけでなく大陸の人々も含めた倭寇が出現し、海上での活動を活発におこなえたというわけなんです。
南北朝時代の混乱や元朝の衰退、高麗の政治的不安定により地方の統制が弱まり、沿岸地域での治安悪化が進み、海賊行為が増加しました。

朝鮮王朝の建国と南北朝統一
高麗では親元派と反元派に分かれて政治闘争が起きていましたが、国内では中国から紅巾の乱による反乱軍が押し寄せてきたり、沿岸では倭寇の侵略を受けたりと混乱していました。
高麗王朝はこれを上手く対処することができず、民衆たちの不満が高まっていきます。

軍人たちが活躍するようになったので、政治闘争もあって王権の力は弱まっていきました。
そのような時に、倭寇の討伐で功績を上げた武将の李成桂(りせいけい)が不満の持つ人々から支持を集めていきました。

そして、李成桂がクーデターを起こしたことで高麗は滅亡し、朝鮮王朝が建国されました。

李成桂は土地改革をおこなって貴族たちの私有財産を没収することで、権力を集中させました。

そして、朝鮮王朝が建国されたと同じ年に、日本でも室町幕府第3代将軍の足利義満によって南北朝が統一されて混乱が収束していきます。
朝鮮と日本での混乱が治まり、室町幕府と明朝の間で勘合貿易がはじめられたことで、海上交易が王朝や幕府によって管理されるようになり、倭寇の活動は収まっていくことになりました。

勘合貿易とは、勘合符(割符)という2つに割った札を発行し、それを所持した船とだけ貿易できるという対倭寇システムでした。


まとめ
MQ:モンゴル帝国解体後にアジア各地の勢力図はどのように変化したのか?
A:中央アジアから西アジアにかけてティムール朝が拡大し、オスマン帝国は小アジアやバルカン半島で成長した。一方、中国では元朝が滅びて明朝が成立し、日本では南北朝の動乱を経て室町幕府が誕生し、朝鮮半島では朝鮮王朝が建国されたことで、14世紀末には新しい政治秩序が形成されて一応の安定をみせた。

今回はこのような内容でした。

次回は、中国の明朝の統治についてです。明朝の統治にはどんな特徴があったんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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