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[10-2.2]ムガル帝国の解体

10-2.ムガル帝国

この記事で使用したPowerPointスライドは「note(グシャケン|note)」にてダウンロード可能です。PowerPointスライドやWordプリントのダウンロードは記事の最後に貼ってあるURLから!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!

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はじめに

グシャケン
グシャケン

前回はこのような内容でした。

グシャケン
グシャケン

今回はムガル帝国の衰退についてです。ムガル帝国は何が原因で衰退してしまったんでしょうか?

それでは一緒にみていきましょう!

MQ:ムガル帝国が解体した原因とは?

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南インド

ムガル帝国が北インドを支配して全盛期を築いていた頃、南インドではヴィジャヤナガル王国と呼ばれる王国がありました。

このヴィジャヤナガル王国は、デリー=スルタン朝時代にイスラーム勢力に対抗するヒンドゥー教徒たちによって、南インドに建国されたヒンドゥー教国でした。

このヴィジャヤナガル王国はインド洋交易によって発展し、西アジアから大量の馬を輸入したことで、強大な軍事力を持つもとになり、南インドで勢力を拡大していきました。

グシャケン
グシャケン

毎年、1万頭以上の馬を買っていたそうですよ。

しかし、ムガル帝国の成立後は、ムガル帝国との抗争で徐々に衰退していき、17世紀には地方の有力者が独立していったことで滅亡してしまいました。

その後、南インドでは地方政権が乱立して群雄割拠の状態になっていきました。

ヴィジャヤナガル王国
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アウラングゼーブ

領土最大化

南インドで混乱が続く中で、南インドにまで勢力を拡大したのが、ムガル帝国6代目スルタンのアウラングゼーブでした。

アウラングゼーブ

アウラングゼーブの南インド遠征によって、ムガル帝国は最大領土に達することになります。

領土が最大になったことによって、ムガル帝国はさらに繁栄していくのかと思いきや、なんとここからムガル帝国は衰退の道を歩んでいくことになるんです。

ムガル帝国 アウラングゼーブ 最大領土

地方腐敗とイスラーム優遇政策

アウラングゼーブ時代に地方政治を任されていた上級官僚たちは、短期間で交替になる制度だったことから、地方の特産品の生産を支援しようとはせず地租(ハラージュ)を増税して、短期間で儲けを出すことに必死になっていました。

こうした地方政治の腐敗によって、増税強化された地方では帝国に対しての不満が増していくことになりました。

ムガル帝国 アウラングゼーブ 地方政治の腐敗

また、ムガル帝国はアクバルの時代から少数派のイスラーム教徒が多数派のヒンドゥー教徒を支配するために、ヒンドゥー教に対して寛容的な政策をとることで政治を安定させていましたよね。

しかし、それもアウラングゼーブの時代に方針転換することになります。

アウラングゼーブが熱心なスンナ派イスラーム教徒だったことから、年齢を重ねるごとにヒンドゥー教などの非イスラーム教徒に対して厳しい態度をするようになっていったんです。

それまでヒンドゥー教に対して非課税だった人頭税(ジズヤ)を復活させてヒンドゥー教寺院をモスクに建て替えたり、官僚にヒンドゥー教徒を採用しなくなるなどの、イスラーム教を優遇する改革をおこないました。

アウラングゼーブ イスラーム優遇政策 人頭税(ジズヤ)の復活

財政難

こうした、「地方政治の腐敗」と「イスラーム優遇政策」によって、地方では非イスラーム教徒たちが反発して、各地で反乱が起こるようになります。

これに対して、アウラングゼーブは軍を派遣して軍事力で鎮圧してしまいます。

加えて、南インドに遠征してヒンドゥー教国を支配して最大領土を達成するなど、強硬姿勢を貫きました。

反乱の鎮圧や遠征など、度重なる出兵によって帝国は財政難が深刻化していき、地方の統治がままならなくなっていきました。

ムガル帝国 財政難

地方勢力の独立

マラーター王国

帝国の強硬姿勢に対する地方反乱はその後も続き、地方では有力者たちが弱体化した帝国を見限って、ムガル帝国から独立しようとする動きが出てきます。

強硬姿勢に反発した西インドのヒンドゥー教徒の地主層たちは、ムガル帝国に激しく抵抗し、ゲリラ戦によってムガル帝国軍を翻弄しました。

そしてヒンドゥー教徒たちは団結してムガル帝国に負けない勢力を作るために、マラーター王国を建国してヒンドゥー教国としてムガル帝国と対立しました。

反旗を翻したマラーター王国を征服するために、アウラングゼーブは遠征をおこないますが、アウラングゼーブ自身が高齢で遠征中に亡くなってしまったため、ムガル帝国の勢いがなくなってしまいます。

その隙を突いてラーター王国は北インドから南インドにかけて勢力を一気に拡大していくことになりました。

マラーター王国 
マラーター王国
シク教

もともと、イスラーム教とヒンドゥー教の融合を図った平和的な宗教だったシク教は、アウラングゼーブのイスラーム優遇政策で弾圧を受けたことで、平和路線から転換していきました。

ムガル帝国に対抗するために、平和路線から戦闘的な集団へと方針転換して、ムガル帝国と戦闘を繰り広げるようになっていったんです。

グシャケン
グシャケン

シク教の信者たちは常に武器を持つようになったようですよ。

それだけアウラングゼーブの政策によって、ひどい扱いを受けたんでしょうね。

西北インドのパンジャーブ地方では、各地でシク教徒たちがムガル帝国と戦いアウラングゼーブの死によってムガル帝国が衰退すると、西北インドにシク教徒の小王国が各地に誕生することになりました。

そして、西北インドにはシク教が一大勢力となって支配することになりました。

シク教の勢力拡大
シク教
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帝国の解体

非イスラーム教徒に強硬姿勢を貫いたアウラングゼーブが亡くなってしまった後ムガル帝国は一気に解体へと向かっていくことになります。

北インドから南インドにかけてマラーター王国が独立し、西方インドにはシク教徒の勢力が支配するようになっていき、南インドでも地方政権が乱立するなど、南アジアは群雄割拠の状態になっていきました。

グシャケン
グシャケン

ムガル帝国の領土は縮小して、デリー周辺を支配する小国になってしまいました。

加えて、そこに大航海時代によって進出してきたヨーロッパ諸国がインド洋沿岸に拠点を作って、インド洋交易に参入してくるなど、カオスな状況が生まれて、南インドは戦国時代に入っていくことになりました。

ムガル帝国の解体
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まとめ

MQ:ムガル帝国が解体した原因とは?

A:地方政治の腐敗とアウラングゼーブによるイスラーム優遇政策が引き金となり、非イスラーム教徒の反発と反乱が各地で拡大した。さらに、度重なる軍事遠征によって財政が逼迫し、統治力が低下した結果、マラーター王国やシク教徒などの地方勢力が台頭し、帝国は次第に解体へと向かっていった。

グシャケン
グシャケン

今回はこのような内容でした。

次回は、東アジアの中国で成立した清朝についてです。清朝の統治にはどんな特徴があったんでしょうか?

それでは次回もお楽しみに!

「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク

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グシャケン
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