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[10-3.3]清の統治②(漢民族)

10-3.清

この記事で使用したPowerPointスライドは「note(グシャケン|note)」にてダウンロード可能です。PowerPointスライドやWordプリントのダウンロードは記事の最後に貼ってあるURLから!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!

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はじめに

グシャケン
グシャケン

前回はこのような内容でした。

グシャケン
グシャケン

今回は清の漢民族に対する統治についてです。漢民族社会に対して、清はどんな政策をおこなったんでしょうか。

それでは一緒にみていきましょう!

MQ:清は漢民族に対してどのような政策を採ったのか?

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軍制と中央官制

緑営と八旗

清は[10-3.2]清の統治①(多民族国家)でも話した通り、領土の大部分が中国で、人口や経済力で圧倒的な割合を占めていたのは漢民族でした。

なので、もともと明の支配下だった漢民族をどのように統治するかは、女真族(満州人)の清にとって重要な課題だったんです。

※以下、満州人と呼称。

清は官僚制や科挙などの制度は明からほぼほぼ受け継ぎ儒学を重視するなど、それまでの中国王朝の伝統を引き継ぐ形で統治しようとしました。

グシャケン
グシャケン

清が漢民族に歩み寄った感じですね。明の後期に増税された税金も免除してあげたそうですよ。

しかし、軍制や中央官制では明の時代とは違い、清の独自の制度が作られました。

清 中国伝統の継承と独自制度

清では皇帝直轄軍として満州人で編成された八旗がありましたよね。

清の中国支配後は、その満州八旗に加えてモンゴル八旗や漢人八旗も編成されて、家族ごとに土地が与えられ、「旗人」という身分が世襲制で与えられました。

グシャケン
グシャケン

要は、八旗に所属する軍人は特権身分として清の支配層になっていったんです。

そして、その八旗に加えて新たに編成されたのが、漢民族で編成された緑営(りょくえい)という組織でした。

グシャケン
グシャケン

緑色の旗を掲げていたので、こう呼ばれています。

緑営は2代目の順治帝の時に作られた部隊で、首都北京に常駐する部隊各地方に配置される部隊に分かれていて、一番多い時で60万人が編制されていました。

八旗と緑営

SQ:なぜ緑営が編制されたのか?

ではなぜ緑営が編制されることになったんでしょうか。

編成された目的としては以下のものがあげられます。

緑営編成の目的

兵力の補完と地方の治安維持

②旧明兵の再編成による統治の安定化

まず1つ目が「①兵力の補完と地方の治安維持」です。

地方では盗賊や反乱など、大小さまざまな問題が起こります。

これを増員したとはいえ、皇帝直属の八旗だけでは広大な領土すべてを取り締まるのには限界があったんです。

そこで素早く地方の問題に対処できるように、地方の指揮下に常備軍(緑営)を置いて、治安維持の実働部隊にしたんです。

そして2つ目が「②旧明兵の再編成による統治の安定化」です。

明の滅亡後、漢民族の兵士が大量に投降していました。

彼らを放置すると失業の不満から反乱が起きてしまう可能性があったので、緑営として再雇用して彼らの雇用を保障し、地方の治安維持として活用したんです。

グシャケン
グシャケン

加えて、八旗が次第に特権階級化して支配層になっていったので、軍事力として機能しなくなっていき、緑営が必要とされるようになったんです。

ちなみに三藩の乱では40万もの緑営が鎮圧に当たったそうですよ。

以上の①、②の目的から、緑営が編制されました。

SQ:なぜ緑営が編制されたのか?

広大な領土における治安維持と不足する軍事力を補完し、旧明兵の再編成による統治の安定化を目的として編制された。

なぜ緑営が編制されたのか?

軍機処

また、中央政府の要職に就く官僚は、満州人と漢民族が同数になるように採用され、満州人の影響力を残しつつ、漢民族を入れて中国統治に活かそうとしました。

雍正帝(5代)の時代には皇帝直属の諮問機関として軍機処(ぐんきしょ)と呼ばれる組織が作られ、国政・軍政の最高機関として皇帝を支えました。

諮問機関しもんきかん・・・政策を決定するために助言する組織。

軍機処が創設された理由としては、

中央政府では満州語が使われていたんですが、中国各地から届く報告書は漢文だったので、いちいち満州文に翻訳する必要がありました。

これだと時間がかかってしまい、事務が滞るわ機密は漏れるわで問題が続出してしまったんです。

そこで雍正帝が考えたのが「軍機処」でした。

最初は軍事専門の機関として、満州人と漢民族の事務官をそれぞれ配置して、漢文は漢人が、満州文は満州人が文書を処理するという分業スタイルにしたことで、処理がスピーディーになっていきました。

結果、軍機処は軍事だけじゃなく、国内政治まで扱うようになっていき、清朝の最高機関へと成長していったんです。

グシャケン
グシャケン

まさに「効率化が国を動かす」って感じですね。

ちなみに軍機処は清の滅亡まで続き、軍機大臣は清のNo.2を担う要職になっていきました。

軍機処

このように明の制度を継承しつつ軍政や中央官制では独自の制度によって満州人の影響力を残しつつ、漢民族と折り合いをつける政策をおこなっていたんですね。

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漢民族への文化継承と統制

編纂事業『康煕字典』『四庫全書』

清は中華皇帝として中国の伝統を重んじる政策をおこなっていましたよね。

清の皇帝自ら中国学問に熱心に取り組み、朱子学なども学んでいました。

康熙帝はそのような取り組みの中で、漢字辞書である『康熙字典』を編纂させました。

グシャケン
グシャケン

この字典は、史上初めて画数順の部首配列を採用した辞書で、その後の漢字辞典の基準を築いた画期的な字典だったんですよ。

乾隆帝(6代目)の時代には、全国から書籍を集めて『四庫全書』にまとめる大編纂がおこなわれました。

10年の歳月をかけて編纂されて、全部で7部作られて各地に保管されて学問研究に貢献しました。

グシャケン
グシャケン

ほとんどはその後の内乱や戦争で焼き払われて失ってしまいましたが、、、

このように、清の皇帝たちによって学者たちが優遇され、中国の伝統を引き継ぐ事業がおこなわれました。

『康煕字典』 『四庫全書』

文字の獄

中国の伝統を引き継いだ一方、清への批判は厳しく取り締まるようにしていて、批判的な文章や言動を罰する文字の獄がおこなわれました。

雍正帝は清を批判した学者を処刑して一族を奴隷にしたり、乾隆帝は『四庫全書』を編纂する際に各地から提出された書物から、王朝批判の文章をあぶり出そうとするなどの対策が採られていました。

文字の獄

辮髪

なかには、満州人の伝統的な髪型である辮髪(べんぱつ)を漢民族の男性に強制するなど、満州文化の強制をおこなった例もありました。

辮髪は頭髪を剃り、後頭部だけを長く伸ばして編み、背後に長く垂らす髪型のことで、清が中国を支配した際に服従の証として辮髪を強制させました。

グシャケン
グシャケン

初めは強制で始まりましたが、やがてそれが当たり前になっていき、中国人の習慣として辮髪がおこなわれるようになっていきました。

たしかに「THE 中国人」て感じがしなくもないですね。

辮髪
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史上最長の征服王朝

このように、漢民族との同化を進めつつも、満州人としての文化やアイデンティティを巧みに維持・強制することで、清は約270年という長きにわたり、中国を支配することに成功しました。

これは単なる武力による支配ではなく、柔軟な統治方針と文化政策の融合による成果といえます。

キタイ(契丹、遼)やモンゴル帝国など、過去の征服王朝も一時的には広大な領域を支配しましたが、いずれも数十年から百年程度で滅亡してしまいました。

それに比べて清の統治は圧倒的に長く史上最長の征服王朝として中国に君臨することになったんです。

清 中国史上最長の征服王朝
グシャケン
グシャケン

征服者でありながら、征服された民族の文化を受け入れ、同時に自らの文化を守り抜いたそのバランス感覚こそが、清の持続力の源だったのかもしれませんね。

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まとめ

MQ:清は漢民族に対してどのような政策を採ったのか?

A:中国の伝統を尊重しつつ、八旗・緑営による軍制や軍機処を通じて満州人の支配体制を維持した。文化面では『康熙字典』『四庫全書』の編纂によって漢文化を受容する一方、辮髪の強制や文字の獄により満州文化の保持と統制を図った。

グシャケン
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今回はこのような内容でした。

次回は、清と周辺諸国についてです。明の時代と比べて、周辺諸国とどのような関係を築いていたんでしょうか。

それでは次回もお楽しみに!

「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク

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