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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回は清の統治についてです。女真族が建国した清は、どのような統治をおこなったんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:清はどのように多民族国家を統治したのか?
多民族国家
征服王朝
中国全土を支配した清は、もともとは中国東北部で半農半猟をおこなっていた女真族(満州人)が建てた王朝でしたよね。
なので、女真族は大多数の漢民族を支配し、周辺の諸民族も支配する征服王朝でした。
なので、王朝の維持のためには漢民族を含めた諸民族からの理解と支持が不可欠だったんです。
そこで採った政策が二重統治体制でした。

二重統治体制
大多数の漢民族に対しては、前王朝の明を直接倒したのは清ではなく李自成であり、その李自成を倒したことで中国王朝を支配したことを主張して、支配に対する理解を得ようとしました。
支配体制も科挙による官僚採用など、明の制度の多くを継承して、中国歴代王朝の制度を継ぐ中華皇帝として政治を行いました。
しかし漢民族だけでなく、女真族(満州人)やルーツのあるモンゴル人に対しても、民族の習慣や制度を守り、モンゴル帝国の伝統を引き継ぐ遊牧国家のカアン(ハン)としても振舞いました。
こうして清の皇帝は、中華皇帝とカアン(ハン)という2つの顔を持つ君主として、王朝を支配していたんです。


具体的な政策についてはこの後にみていきますね。
3人の皇帝
清の前半では、歴史的にみても珍しい3代に渡る優秀な皇帝が続いて全盛期を築きました。
彼ら3人の皇帝は、中華皇帝とカアン(ハン)の2つの顔を兼ね備えた皇帝独裁によって帝国を繁栄させました。

普通はダメな息子に継がせて、衰退してしまうパターンが多いなか、3代続いたのはほんとにすごいことなんですよ。
以下に3人の皇帝と、簡単な紹介をしておきますね。
・4代目皇帝(在位1661~1722年)
・三藩の乱を鎮圧し、国内の安定を確保。
・台湾を制圧して清の領土に組み入む。
・ロシアとネルチンスク条約を締結し、対等な外交を展開。
・西洋文化や科学を積極的に導入。

康熙帝は清の領土を急拡大させて全盛期の基礎を築いた人物なんです。

・5代目皇帝(在位1722~1735年)
・康熙帝の息子で、実務に非常に厳格。
・皇帝直属の諮問機関を設置し、中央集権を強化。
諮問機関(しもんきかん)・・・専門家が助言するための相談機関
・財政改革を推進し、税制を整備。
・思想統制を強化し、儒教的秩序を重視。

雍正帝は他の2人に比べると、存在感が薄めですが、名君だった康熙帝の後というプレッシャーと戦いながら、皇帝の仕事に励んでその全盛期を次世代に受け継いだ皇帝です。
政治に関する書類をすべて自分でチェックして訂正していたそうですよ。

・6代目皇帝(在位1735~1795年)
・雍正帝の息子で、清朝の全盛期を築く。
・領土を最大に拡張。
・古典の大編纂をおこなうなど、文化事業を推進。
・詩や書画の才能もあった芸術皇帝。

乾隆帝の時代が、一番領土も大きく文化的にも発展した、まさに全盛期の時代でした。


SQ:次の史料から、康熙帝はどのような評価を受けていたのか?

以下の史料は、キリスト教宣教師だったブーヴェという人物が康熙帝について書いたものです。これを呼んで康熙帝をどのように評価していたのかを考えてみましょう。
いやしくも帝王たる者はキリスト教信仰の美質を備えていなけれなりません。この帝王(康熙帝)は今なお不幸にも偶像教の信仰にとらわれておられます。しかし、この皇帝の行動はもとから半ばキリスト教的でありますので、神はこの帝王にも聖なる教えの資質を与えてくださることを私どもは期待しております。そもそも満州人はつねに戦争を心がけておりますから、一切の武芸を尊んでおります。また漢人は、学問こそ自国のほとんど全価値だとみなしております。それ故、康熙帝は文武両道に精進して、自己の統治すべき満州人にも、漢人にも好感を持たれようと努められたのであります。あれほど広大な国内に発生した事件で、多少重大なものならば、すべて皇帝の御前に運び出されますが、この山のような国務の決済も、康熙帝に対しては、一種の娯楽に過ぎないかと思われるほど、皇帝は国家の政治の決済において流れるがごとき手腕を得られたのであります。
この文章で康熙帝を評価している部分は2つあります。
康熙帝は文武両道に精進して、自己の統治すべき満州人にも、漢人にも好感を持たれようと努められた
満州人(女真族)は武芸を重視していて、漢人(漢民族)は学問を重視していたので、康熙帝はそのどちらも習得して、文武両道によって両方からの支持を得ようとしていたんです。
その努力をブーヴェは評価しているんですね。
そして次の部分は、
山のような国務の決済も、康熙帝に対しては、一種の娯楽に過ぎないかと思われるほど、皇帝は国家の政治の決済において流れるがごとき手腕を得られた
というところです。
これは皇帝が決めなければいけない事が多すぎたにも関わらず、康熙帝は趣味を楽しんでいるかのように、それらをすばやく裁いていく仕事ぶりをみて関心しているんです。
以上のことをまとめると、康熙帝が受けていた評価は以下のようになります。
文武両道を実践することで満州人や漢人から広く支持を得ようと努めた点や、膨大な国務を流れるような手腕で処理する姿勢から、優れた統治者として高く評価されていた。
後の2人も康熙帝に負けない仕事ぶりを見せたことで、この3人の皇帝の活躍によって、清の全盛期が築かれていったんです。

皇帝は普段は首都の北京にある紫禁城で政治をおこなっていましたが、夏の暑い時期になると、北のモンゴル高原の狩場や離宮で移って、狩りやモンゴル相撲をおこなって皇帝の権威を騎馬遊牧民に示すような習慣をおこなっていました。

紫禁城は明の永楽帝の時代に建てられたものですが、荒廃した城を清の皇帝が再建・増改築を繰り返して、現在の姿になったそうですよ。

藩部と理藩院
清は多民族を抱える広大な領土を支配していましたが、すべてを直轄地として中央集権したわけではありませんでした。
王朝(中央政府)の直轄地だったのは、中国内地と東北部、台湾だけだったんです。
他のモンゴルや青海、チベット、新疆(しんきょう)は藩部という制度で統治されていました。

藩部とは、その地域民族の有力者に統治を任せる間接統治で、文化や慣習をそのまま残しながら、清の監督のもとで民族社会(政治も含めて)が維持される制度でした。

多民族を刺激せずに清に対して支持を得る目的がありました。
この藩部を間接的にコントロール・監視する目的で中央官庁に理藩院が作られ、六部から独立した機関として藩部を統括していました。

理藩院の長官には女真族(満州人)が選ばれていたそうです。

モンゴル藩部・・・モンゴル王侯が首長を務めて「部族制」によって統治していました。

清の皇族とも婚姻関係を結ぶ制度があり、清と密接な関係を築いていたそうです。
チベット藩部・・・チベット仏教の指導者ダライ=ラマを最高指導者とした、「宗教政治」によって統治されました。
新疆藩部・・・ウイグル族の地元有力者(ベグ)を首長として統治されていました。

繰り返しになりますが、このように藩部を置くことで、その土地の習慣や宗教にはほとんど干渉せずに、多民族からの支持を得ていき、広大な領土を支配することができたというわけなんです。

特にチベット仏教を手厚く保護したことで、モンゴル人やチベット人からの支持を得ることができて統治が安定したようです。
まとめ
MQ:清はどのように多民族国家を統治したのか?
A:中華皇帝とカアン(ハン)という二つの立場を使い分けることで、漢民族と周辺民族の両方から支持を得た。また、藩部制度によって地域の有力者に統治を任せ、文化や宗教に干渉しない間接統治を行うことで、多民族の理解と協力を得ながら、広大な領土を安定的に支配した。

今回はこのような内容でした。

次回は清の統治②(漢民族)についてみていきます。多数派を占めた漢民族に対して、清はどのような政策をおこなったんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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