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[11-4.2]オランダ衰退の始まり

11-4.オランダ、イギリス、フランスの繁栄

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はじめに

グシャケン
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前回はこのような内容でした。

グシャケン
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今回はオランダの衰退についてです。ヨーロッパ経済の覇権を握ったオランダでしたが、なぜ衰退していくことになったんでしょうか?

それでは一緒にみていきましょう!

MQ:なぜオランダは衰退していったのか?

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オランダの繁栄と貿易摩擦

オランダの台頭

グシャケン
グシャケン

この章は、オランダの繁栄を複数の記事でまとめているので、ここで時系列を整理しておきましょう。

経済発展を遂げたオランダは、世界初の株式会社とも言われる「オランダ東インド会社」を設立して、海外進出を推し進めていきました。

さらにその後、オランダ独立戦争でスペインとの休戦協定によって事実上の独立を果たすと、オランダはヨーロッパの中継貿易に本格的に参入していき、バルト海から地中海、さらには新大陸や東南アジア、日本にまで商船を送り出していきました。

この急速な勢力拡大は、当然ながら他のヨーロッパ諸国と摩擦を生むことになります。

特に、スペイン無敵艦隊を破って海洋国家としてすでに台頭していたイギリスと対立するようになり、オランダ東インド会社が東南アジアでイギリス人を逮捕・処刑した「アンボイナ事件」では、両国の緊張が一気に高まって、関係が悪化することになりました。

しかし、東南アジアから他のヨーロッパ諸国を排除したことで、香辛料貿易を独占することに成功します。

その後もオランダの勢いは止まらず、三十年戦争の講和条約であるウェストファリア条約では、国際的にも正式な独立国家として認められるまでに成長していきます。

こうしてオランダは、商業・金融・海運の三拍子が揃った「海の覇者」として、黄金時代を築くことになりました。

オランダの台頭

イギリスと衝突

しかし、海の覇者として君臨するようになったオランダに対して、真っ向から挑戦を申し込んだのが、かつての同盟国であるイギリスでした。

17世紀中頃、海洋国家だったイギリスでは、政治的にも力を持ち始めた貿易商たちが、オランダの中継貿易によって自国の利益が圧迫されていると感じていました。

彼らは、

イギリスの貿易商人
イギリスの貿易商人

イギリスの港に運ばれる商品が、なぜオランダ船によって運ばれてくるんだ!?

と疑問を抱くようになり、オランダ船を締め出すために、議会に対して強く働きかけるようになります。

その声に応える形で、イギリス議会は「航海法」という法律を制定します。

この航海法は「イギリス本土や植民地の港に入る船舶は、イギリス船と貨物の産出国・積出国でなければいけない。」と定めた法律でした。

これによってオランダは、イギリスへの中継貿易ができなくなってしまったんです。

グシャケン
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この航海法は、オランダにとってまさに「海の道(貿易ビジネス)を閉ざす法」となったんです。

オランダは自由に行き来していたイギリスへのアクセスが制限されてしまい、オランダの貿易ネットワークは大きな打撃を受けてしまいます。

このイギリスによるオランダへの貿易摩擦が、後のイギリス=オランダ(英蘭)戦争へと発展していくことになります。

オランダとイギリスの衝突 イギリス=オランダ(英蘭)戦争
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イギリス=オランダ(英蘭)戦争

第1次(1652~1654)

イギリスの航海法に従って、イギリス戦艦がドーヴァー海峡でオランダの商船が違反していないかを確認しようとした際に、オランダの護衛艦がこれを拒否したことで、両艦隊の間で砲撃が起きてしまいます。

これによって勃発したのがイギリス=オランダ戦争(第1次)でした。

イギリス海軍はこれを見越して準備万端だったんですが、オランダ海軍は準備不足だったことで敗戦が続き、多くの船を失ってしまいました。

しかし、当時のイギリス政府戦争継続をあまり望んでいなかったので、両国で講和条約が結ばることになり、戦闘は一時落ち着くことになります。

グシャケン
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この時、イギリス政府の中心だったのが、ピューリタン革命を指導したクロムウェルでした。

第1次イギリス=オランダ(英蘭)戦争

第2次(1665~1667)

しかしその後、イギリスでは再び海上貿易を独占するためにオランダに強気な姿勢を取ります。

航海法を強化すると同時に、北アメリカのオランダ植民地に侵攻していき、中心都市ニューアムステルダムを占領してイギリス領にして、「ニューヨーク」と改称してしまったんです。

グシャケン
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現在の「ニューヨーク」はここで誕生したんですね。

これに反発したオランダが宣戦布告して起こったのが、第2次イギリス=オランダ戦争でした。

オランダは第1次で敗北したことを教訓に、海軍を大幅な増強に成功していました。

グシャケン
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この海軍増強の資金には、対日貿易で得た銀も使われたそうですよ。

増強したオランダ海軍はイギリス海軍を次々と破っていき、イギリス海軍の拠点を奇襲して戦艦を焼き払うなどの成果をあげました。

しかし、海上で快進撃をみせたオランダでしたが、陸の大国だったフランスの動きが怪しくなったのを察知して、イギリスと講和することになります。

グシャケン
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この講和条約で、航海法の一部が緩和され、イギリスはスリナムという土地をオランダに譲渡して、ニューアムステルダム(ニューヨーク)はイギリス領として確定することになりました。

第2次イギリス=オランダ(英蘭)戦争

第3次(1672~1674)

第2次イギリス=オランダ戦争でオランダに苦戦してしまったイギリスは、同じくオランダを警戒していた大国フランスと密約を結びます。

グシャケン
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ここでも「敵の敵は味方」理論ですね。

こうして、オランダを警戒していたフランスとイギリスがオランダに侵攻して開戦したのが、第3次イギリス=オランダ戦争でした。

特にフランス軍は驚異的な猛攻でオランダの国土の約半分を占領してしまうなど、オランダは存亡の危機に立たされてしまいます。

そんな混乱の中、民衆の期待を背負ってオランダ総督に就任したのがオラニエ公ウィレム3世でした。

ウィレム3世(ウィリアム3世)
グシャケン
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この人物はオランダ建国時の初代総督オラニエ公ウィレムの孫にあたる人物です。

第3次イギリス=オランダ(英蘭)戦争 オラニエ公ウィレム3世

ウィレム3世は、この危機的状況を打開するために、オランダの地形そのものを武器に変えるという大胆な策に打って出ます。

干拓地を守る堤防を自らの命令で開放して、国土の一部を水没させる「洪水作戦」をおこなったんです。

水に沈んだ土地は天然の要塞となって、フランス軍の進軍を阻んで徹底抗戦で臨みました。

一方、海ではオランダ海軍が奮戦して、なんとかイギリス艦隊の上陸を阻止し続けていました。

そうしているうちに、イギリスは財政難になっていき、国内で戦争継続に対する不満が高まっていきました。

そしてついには、イギリス議会が国王に対して戦費の支出を拒否するということが起きて、イギリスは戦争を継続することができなくなってしまいました。

こうしてイギリスとオランダの間で講和条約が結ばれることになり、イギリス=オランダ戦争は終結することになりました。

第3次イギリス=オランダ(英蘭)戦争 終結
グシャケン
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イギリスとの戦いはここで終わりましたが、フランスとはその後4年ほど戦闘が続いたそうです。

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ウィレム3世の外交戦略と衰退の始まり

政略結婚

この国家の存続の危機を乗り越えたことで、ウィレム3世の名声は一気に高まりましたが、まだフランスという脅威が残っていました。

当時のフランス王ルイ14世はまだ領土を拡大させようとしていたので、ウィレム3世はこれに対抗するために、かつて敵対したイギリスとの関係修復に動き出します。

その象徴が、イギリス王チャールズ2世の弟ジェームズ(後のジェームズ2世)の娘だったメアリとの政略結婚でした。

この婚姻によって、イギリスとオランダは和解することになり、フランスに対抗するための同盟関係を築くことに成功したんです。

この後、イギリスでは名誉革命が起きて、イギリス国王が不在になってしまい、先代国王の娘と結婚していたウィレム3世(ウィリアム3世)がイギリス王に就くことになります。

こうして、ウィレム3世はオランダとイギリス両国の王を兼ねることになり、イギリス=オランダ同君連合として、陸のライバルであるフランスに対抗することになりました。

ウィレム3世(ウィリアム3世)の政略結婚

衰退の始まり

ィリアム3世が亡くなった後は、イギリスとの同君連合は解散しましたが、フランスに対抗するために、その後もイギリスとは協力関係を築いていました。

しかし、このイギリスとの同盟では協定が結ばれていたんですが、この協定によって、オランダは次第に衰退していくことになったんです。

オランダのイギリスとの協調

①オランダの海軍力の制限

オランダは協定で、イギリスの海上覇権を認めて、オランダ海軍の規模を一定以上に拡張しないことを認めていました。

これは、イギリスが「海の支配者」としての地位を確立しつつあった時期で、オランダにとっては国境守るための苦渋の選択でした。

②貿易の制限とイギリス優位の確立

オランダは、イギリスの植民地貿易への干渉を控えることも認めていました。

特に、イギリスが獲得した奴隷貿易の権利などに対して、オランダはイギリスとの競争を避けなければいけなくなったんです。

これにより、オランダの中継貿易は縮小していくことになり、逆にイギリスが大西洋貿易の中心になっていきました。

③安全保障と引き換えの譲歩

オランダはフランスの侵攻を防ぐために、南ネーデルラント(現在のベルギー)に要塞を設置するための権利を得ていました。

しかし、その代償として、イギリスの貿易政策に協力することを約束したことで、オランダは経済的な主導権もイギリスに譲る形なってしまったんです。

①オランダの海軍力の制限 ②貿易の制限とイギリス優位の確立 ③安全保障と引き換えの譲歩 

このように、ウィレム3世の死後も、オランダはフランスの脅威に備えるためにイギリスとの協調を選びましたが、その代償として海軍力と貿易の自由を徐々に手放していくことになりました。

これら協定の条件によって、「海洋帝国」を築いたオランダは、海上覇権をイギリスに譲ることになり、国力は次第に衰退していくことになったんです。

グシャケン
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自国を敵から守るために払った犠牲は、後々見ると大きかったんですね。

「海洋帝国」オランダの衰退
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まとめ

MQ:なぜオランダは衰退していったのか?

A:オランダはイギリスとの貿易摩擦やイギリス=オランダ(英蘭)戦争により、海軍力と中継貿易の自由を失い、さらにフランスの脅威に対抗するためにイギリスと協調した結果、海上覇権と経済的主導権を譲り渡すことになり、次第に国力が衰退していった。

グシャケン
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今回はこのような内容でした。

次回は、イギリスのピューリタン革命についてみていきます。この革命はイギリス社会にどんな新しい秩序をもたらしたんでしょうか?

それでは次回もお楽しみに!

「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク

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グシャケン
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