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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回はイギリスとフランスの覇権争いについてです。なぜこの両国の争いは世界規模に発展したんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:なぜ両国の覇権争いは単なるヨーロッパ内の争いにとどまらず、世界規模の覇権争いへと発展したのか?
イギリス VS フランスの構図
重商主義に基づく海外進出
近世中期までのヨーロッパでは、婚姻関係でヨーロッパ中に勢力を拡大したハプスブルク家と、多くの人口を抱えて土地が豊かなフランスのブルボン家が台頭した時代でした。
しかし、度重なる戦争によってこの2つの王家はヨーロッパでの覇権を失っていくことになりました。
三十年戦争によってハプスブルク家が、スペイン継承戦争によってブルボン家の力が削がれたことで、ヨーロッパは勢力均衡の時代に入ることになりました。
しかしその中で、島国の利点を活かして大きな政治問題に巻き込まれず荒廃を免れていたイギリスと、覇権は失ってもヨーロッパ最大の人口を誇っていたフランスを中心に、ヨーロッパや海外植民地で覇権をめぐる争いが起こるようになっていきます。

イギリスは議会と王権がせめぎ合った結果、立憲君主政が確立して、フランスは太陽王ルイ14世のもとで絶対王政を極めて、政治体制が対極している国家でした。
このように政治体制は異なっていましたが、両国とも共有していたのが「富こそ力」という“重商主義”という考え方でした。
この重商主義に従って、イギリスもフランスも海を越えて、植民地の獲得競争に乗り出していき、やがて衝突することになるんです。

この一連の覇権争いは「第2次英仏百年戦争」と呼ばれることもあります。

イギリスのリード
そしてこの2国間の覇権争いでリードすることができたのがイギリスでした。
スペイン継承戦争でのユトレヒト条約で、ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸をつなぐジブラルタル海峡などの地中海の要衝を獲得したことで、イギリスは海上覇権を一気に引き寄せていきました。

ジブラルタル海峡は地中海への入り口ですからね。
ジブラルタル海峡を押さえたことによる対アフリカ貿易、フランスから獲得したアメリカ大陸の植民地を介した対アメリカ大陸との貿易を優位におこなえるようになったんです。


しかし、ここで注目すべきは獲得領土よりも次のことだったんです。
そして、それらよりも重要視したいのが、アシエントと呼ばれるスペイン領アメリカ植民地に輸出する黒人奴隷の貿易独占権の獲得でした。

スペインでは先住民の人口減によって、アシエンダ制と呼ばれる制度で黒人奴隷を輸入していましたね。
スペインは徐々にイギリスやオランダなどに海上覇権を奪われていたことから、アフリカとの交易ルートや商船の力が弱まっていました。
なので、スペインはスペイン領アメリカへ供給する黒人奴隷を他国の商人に「奴隷を供給する権利」として売ることで、労働力と税収の両方を確保しようとしていたんです。
それがアシエントと呼ばれる制度でした。

まさにアウトソーシングってやつですね。
イギリスはユトレヒト条約でフランスからこのアシエントを獲得しました。
これによってイギリスがアフリカから中南米のスペイン領に輸出する黒人奴隷の貿易を独占することになり、大西洋貿易に積極的に進出していくことになりました。

植民地獲得戦争
フレンチ=インディアン戦争
そんな海上覇権で台頭するイギリスとヨーロッパ大陸の大国フランスが、アメリカ植民地を巡ってぶつかったのが、フレンチ=インディアン戦争でした。

この時、イギリスとフランスはアメリカ大陸だけでなく、世界各地で覇権争いをしていたことから、それら全てを含めて七年戦争と呼び、フレンチ=インディアン戦争はその一部でした。
「七年戦争の北米戦線がフレンチ=インディアン戦争」的な感じでしょうか。

当時、イギリスのアメリカ植民地は大西洋沿岸に集中していたのに対し、フランスはそれよりも東の内陸部を支配していました。
そしてフランスがイギリスの植民地拡大を阻むように進出していったので、両国は対立して一触即発の状態になります。
フランスはイギリス勢力を排除するために、その地に暮らす先住民部族(インディアン)と同盟を結んで、イギリス植民地軍に攻撃を仕掛けます。
これによって、北アメリカ大陸でイギリスとフランスが激突するフレンチ=インディアン戦争が始まったんです。

フランスがインディアンと同盟したことから「フレンチ=インディアン戦争」と呼ばれているんですが、全てのインディアンがフランス側に付いたわけではないので、注意が必要です。

戦争初期は先制攻撃したフランスが優勢でしたが、イギリス本国からの支援が本格的になると形勢が逆転していきます。
次々とフランス側の要衝がイギリス軍によって占領されていき、イギリスの勝利が決定的になっていきました。

イギリスはピットという人物が指揮を執っていたんですが、フランスの要塞を奪った際にそこをピッツバーグと名付けて、現在でもアメリカ合衆国の地名になっているんですよ。
そしてパリ条約によって講和することになり、フレンチ=インディアン戦争を含む七年戦争は終結することになりました。

パリ条約
パリ条約では主に以下のような内容が決められました。
イギリス
・フランスからカナダ、ミシシッピ川以東のルイジアナを獲得
・スペインからフロリダ(代わりにキューバを返還)を獲得
・その他、ミノルカ島(地中海)、セネガル(アフリカ)、グレナダ・トバゴ(西インド諸島)などを獲得
フランス
・イギリスやスペインに北アメリカ植民地を割譲
・インドでは領土を保持するも、その他の地域でイギリスの優越を認める。


では、このパリ条約によってイギリスとフランスの植民地にはどんな影響があったんでしょうか?
SQ:パリ条約によってその後のイギリスとフランスの植民地にどんな影響を与えたのか?
このパリ条約によって、イギリスは17世紀から続けてきた海外進出の集大成として、「植民地帝国」を完成させることになりました。

さらにその後に産業革命が始まったことで、イギリスは「世界の工場」として世界のトップを走っていくことになります。
しかし、戦争の勝利は財政赤字という課題も残しました。

植民地で起きたことなんだから、植民地に負担させよう。
という、財政難の負担をアメリカ植民地に課税という形で押し付けたことで、後にアメリカ独立戦争という形になって爆発することになります。

一方、フランスにとってこのパリ条約は「最もみじめな条約」と呼ばれるほどの屈辱になってしまいました。
アメリカの植民地を全て失ってしまい、植民地国家としての地位が転落する決定打となりました。
この時はルイ15世の時代だったんですが、かつてルイ14世が築いた「ヨーロッパ最強」のイメージは失われてしまい、残ったのは膨大な戦費の借金だけになってしまいました。
その後、アメリカ独立戦争が勃発すると、フランスはイギリスへの復讐として独立側に参戦しますが、それが財政破綻を決定的にしてしまい、フランス革命へとつながっていくことになります。

イギリスは広大な植民地を獲得し、「植民地帝国」としての地位を確立した。一方フランスは植民地を大幅に失ってしまい、国際的地位が低下してしまった。
三角貿易
三角貿易とは?
イギリス領アメリカ植民地が拡大し、アシエント(黒人奴隷貿易の独占権)も獲得したイギリスは、大西洋貿易に積極的に進出していきます。
そして、そこでイギリスが展開したのが三角貿易とよばれる貿易システムでした。

三角貿易は後に近代のアヘン戦争でも出てくるので、区別するために「大西洋三角貿易」と呼んだりもします。
この三角貿易は、[ヨーロッパ~アフリカ~アメリカ]を三角形にように海路で結んで、商船が常に商品を積んでいる状態にして、最大限の利益を出せるように設計された貿易システムでした。
①[ヨーロッパ → アフリカ]
イギリスから出港した船が、武器や綿織物などの工業製品を積んでアフリカ西岸へ輸出。
②[アフリカ → アメリカ・西インド諸島]
アフリカでこれらの商品と引き換えに黒人奴隷を購入して、彼らをカリブ海や北アメリカ大陸南部のプランテーションへ輸送。
③[アメリカ・西インド諸島 → ヨーロッパ]
プランテーションによって栽培された砂糖・タバコ・綿花・コーヒーなどの商品作物を積み込んで、ヨーロッパへ輸入。
また①に戻ってループ・・・

こうして商船の積荷が空にならないように常に商品を積んで利益を最大化する三角貿易が完成したんです。

SQ:三角貿易はイギリス本国・アメリカ植民地・アフリカにそれぞれどんな社会変化をもたらしたのか?

ではこの三角貿易によって、それぞれの地域ではどんな変化をもたらしたんでしょうか?
・イギリス本国
まずイギリス本国では、三角貿易によってもたらされた富が社会の隅々にまで広がっていくことになりました。
リヴァプールなどの港町は、綿織物や鉄製品、武器などをアフリカに輸出する貿易拠点として栄えて、製造業を中心に好景気を迎えることになりました。

要は作れば作るほど儲かったんです。
好景気によってイギリス国内の労働者の雇用も拡大していき、ほぼ全ての人が仕事に就ける完全雇用を達成することになりました。
さらに、砂糖や紅茶、コーヒーといった嗜好品が一般庶民の生活にも浸透していき、嗜好品を楽しむ消費文化が根付いていきました。

これをいわゆる「生活革命」と言ったりします。
三角貿易で蓄積されていった莫大な利益は、後の産業革命の原動力としても活用されることになり、イギリスは「世界の工場」へと成長していくことになります。

・アメリカ植民地
一方、アメリカ植民地やカリブ海の西インド諸島では、三角貿易によって連れてこられた黒人奴隷が、社会構造そのものを変えていきました。
プランテーションが拡大していき、砂糖や綿花、タバコといった商品作物の大規模栽培が主流になっていきます。
その労働力を担ったのが黒人奴隷だったので、彼らはイギリス経済を支える一方で、先住民などの現地の経済は無視されてしまい、ヨーロッパに比べて文明や経済が発展途上になっていきました。

プランテーションではヨーロッパで消費される商品しか作ってないですからね。
そして経営者である白人と労働者である黒人奴隷の間には深い人種階層も生まれてしまい、現代まで続く人種差別という問題を生むことにもなりました。

アメリカでは近現代を通して黒人差別が社会問題になっていますもんね。

・アフリカ
アフリカ西岸では、三角貿易は現地の経済を活発にしたわけではなく、むしろ社会の破壊と分断をもたらすことになりました。
現地の支配層たちによって、働き盛りの人たちが奴隷として連れ去られてしまい、その地域は深刻な人手不足になっていきました。
奴隷の供給をめぐって部族間で激しく争うようにもなり、武器などの工業製品と引き換えに人を売るというビジネスが、アフリカ西岸の秩序と平和を崩壊させていくことになったんです。
また、イギリス製の武器や生活用品に依存するようになっていったことで、地元の産業は衰退してしまい、経済も衰退して貧困化していく人々も増えていきました。
そして、貧困に陥ったり捕虜になった人々がまた奴隷として連れ去られる負の連鎖が起こり、ますますアフリカ西岸の発展は停滞していくことになりました。

こうしたアフリカの混乱と弱体化は、後のヨーロッパ列強による植民地支配の土壌をつくることにもなってしまいました。

このように、大西洋三角貿易は、それぞれの地域に異なる変化をもたらしました。
イギリスでは産業と消費の先進的な社会が生まれて、アメリカでは人種と労働の分断社会が形成され、アフリカでは人口と秩序が失われていく停滞を生むことになりました。
イギリス本国に産業の発展と嗜好品文化の浸透をもたらし、生活革命が起きた。一方、アメリカ植民地では黒人奴隷によるプランテーション経済が拡大し、人種階層と差別の構造が形成された。アフリカでは奴隷貿易による人口流出と部族間抗争、現地産業の衰退により、社会の秩序が崩壊した。
まとめ
MQ:なぜ両国の覇権争いは単なるヨーロッパ内の争いにとどまらず、世界規模の覇権争いへと発展したのか?
A:両国が重商主義に基づいて富と植民地を国力の源と考え、政治体制の違いを背景に戦費を調達しながら、アメリカ・アフリカ・アジアにまで影響を及ぼす経済・軍事競争を展開したため。

今回はこのような内容でした。

次回は近世でのポーランドのスウェーデンについてです。主権国家体制の中でこの2つの国はどのような国家を築いたんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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