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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回は明朝の頃の日本の動向についてみていきます。国際交流が進んだ時期に日本ではどんな変化が起きていたんでしょうか。
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:国際交流の発展は日本にどんな影響を与えたのか?
南蛮貿易の活発化
交易の活発化と新興勢力の台頭
明代後期の銀の需要増を発端とする国際的な商業ブームには日本も重要な位置を占めていました。
それが先ほども紹介した”日本産の銀”です。
日本で石見銀山が見つかるなど、東アジアで銀の一大産出地となったことで交易の目玉として注目されるようになります。
特に中国産の生糸や陶磁器などと日本の銀を交換する交易は東アジアで一番利益が得られるものだったので、明の海禁政策を破って密貿易する倭寇の活動が活発になりました。
倭寇による銀の密貿易には日本人や中国人だけでなく、ポルトガル人などのヨーロッパ人も交易に参加するようになり、国際的な交易へと発展していきました。

そんな中、16世紀中頃にポルトガル商人を載せた船が日本の種子島に漂流して、鉄砲の技術が伝わったのもこの時期だったんです。

このポルトガル人を載せていた船は倭寇の頭目だった王直の船だと考えられているんですよ。
鉄砲の伝来によって、日本でもすぐに自国生産が始まり、これを活用した織田信長や豊臣秀吉の天下統一事業にも重要な役割を果たしました。



特に織田信長が武田の騎馬隊を破った長篠の戦が有名ですよね。

豊臣秀吉の天下統一と南蛮貿易
SQ:豊臣秀吉が天下統一できた推進力とは?
日本が戦国時代の頃、明朝では国際的な商業発展による圧力から海禁政策が緩められて民間の海上交易が再開されます。
しかし、その後も倭寇の拠点だった日本とは直接交易することは許されませんでした。
日本産の銀が交易品として人気だったのと、[中国ー日本]の直接交易ができなかったことに金の匂いを感じ取ったのが当時アジアに海洋進出していたポルトガルでした。

ポルトガルは東南アジアに進出後、明朝の許しを得てマカオを拠点に東アジアにも進出していました。

マカオはポルトガルが中国から借りている形でしたが、アヘン戦争後に清朝の弱体化を口実に19世紀末に植民地にしています。中国に返還されたのは1999年でした。
なので、中国の生糸や陶磁器をマカオに運び、そこから日本に持ち込んで銀と交換する中継貿易を始めたんです。
日本の長崎にも交易拠点を作ったポルトガルは、この中継貿易によって日中貿易の中心になっていきました。
日本ではポルトガル人のことを”南蛮人(なんばんじん)”と呼んだので、この交易を南蛮貿易と呼びます。

九州の大名たちも鉄砲や火薬を手に入れるために南蛮船(ポルトガル船など)の来航を認め、初め各地に南蛮貿易の拠点が作られていきました。
しかし長崎の大名の大村純忠が交易の利益のためにキリスト教徒になったことと、長崎の港が大型帆船が停泊するのに丁度良い水深だったことから、長崎が南蛮貿易の中心地として急速に発展していきました。

貿易だけでなく、教会の建設などを通じて南蛮文化の受け入れも進み、長崎は日本における西洋文化の窓口となっていきました。
こうして銀の輸出によって莫大な利益が動くようになった長崎に目を付けたのが、当時、勢力を拡大していた豊臣秀吉だったんです。

織田信長も南蛮貿易を積極的におこなって利益を得るのと、海外進出に興味を持っていました。
ちなみに豊臣秀吉は、九州大名(特にキリシタン大名)たちに南蛮貿易の利益を独占されるのを恐れていました。
豊臣秀吉は南蛮貿易の拠点だっや長崎を直轄支配し、石見銀山も支配下に入れるなど、南蛮貿易の利益を手にして財政を盤石にして、軍事力を強化させていきました。
南蛮貿易による莫大な利益を背景に軍事力を強化した豊臣秀吉は、天下統一事業を推進していき、1590年に見事天下統一を成し遂げたというわけなんです。
長崎や石見銀山の支配化など、南蛮貿易による莫大な利益を手にしたことで、財政と軍事力を強化できたこと。


朝鮮侵攻
日本を統一した豊臣秀吉は、日本だけに飽き足らず大陸の明朝の支配を目指して2度にわたる朝鮮侵攻をおこないます。

朝鮮侵攻には大義名分はなく、豊臣秀吉の野心でおこなわれた侵攻だといわれています。しかし、天下を統一して武将たちに新たな恩賞を与えられず、不満が起こるのを防ぐためでもあったと言われています。
まあ約100年間に渡って戦国時代が続いたので、武士たちは戦いの場を求めていたんでしょうね。
日本ver・・・文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役
朝鮮ver・・・壬辰(じんしん)・丁酉(ていゆう)の倭乱

①文禄の役・壬辰の倭乱
豊臣秀吉は1592年、約16万の兵を朝鮮王朝に送り込み、鉄砲隊を駆使して首都の漢城(現在のソウル)を占領し、平壌まで迫る快進撃を見せます。

この時、日本は約100年間の戦国時代で鍛え抜かれた武士、それに対して朝鮮は約200年間の平穏期だったので、経験値の差で序盤に日本が圧倒できたんです。
しかし、そこから朝鮮の民衆や義勇兵の激しい抵抗に遭い、明朝からの援軍が到着すると膠着状態になってしまいます。

明朝は朝鮮王朝と朝貢関係にあったので親分として助けに来てくれたんです。
そして海上でも李舜臣(りしゅんしん)率いる朝鮮水軍が活躍したことで、日本の補給路が断たれて苦戦を強いられます。

この日本が苦戦したのと、当時明朝が北方の女真との戦いもあって長期化を避けたがったことから、講和交渉が始まり一時停戦となります。


②慶長の役・丁酉の倭乱
しかし、豊臣秀吉が明の降伏を要求したことで交渉が決裂してしまい、秀吉は朝鮮南部の支配を狙って再び朝鮮侵攻をおこないます。
これが慶長の役(丁酉の倭乱)です。
再戦では明朝が14万の援軍を送り、朝鮮民衆の抵抗も激しかったことで、日本軍は朝鮮南部にとどまり苦戦を強いられます。
海上でも同じく李舜臣の亀甲船が日本水軍を圧倒して日本軍は苦戦してしまいます。
そんな状況だったので、日本国内では戦争への疲れが広がり、豊臣秀吉が亡くなったのをきっかけに撤退することが決まり、朝鮮侵攻は終結することになりました。

李舜臣はこの戦いで戦死してしまいましたが、現在でも朝鮮の救国の英雄として人気があるそうですよ。

朝鮮侵攻後
朝鮮侵攻は結果、日本では領土拡大が一切できずに失敗に終わってしまい、豊臣政権の崩壊に繫がりました。
明朝では遠征による財政負担によって弱体化してしまい、後に清に政権を奪われることになってしまいました。
ですが、一番の被害者は朝鮮で、何年も戦場となったことで国土が荒廃して人口が激減してしまう事態になり、国力が著しく低下してしまいました。
加えて多くの陶磁器の職人が日本に連れ去られてしまい、金属活字や印刷機材を根こそぎ持っていかれたことで、朝鮮王朝ではその後、文化の停滞が起こってしまいました。
逆に日本はヒトやモノなどの「朝鮮文化」を多数持ち帰ったことで、陶磁器や儒学などの「文化の伝承」が起きて文化発展ました。

日本の有田焼、唐津焼、萩焼、薩摩焼などはこのとき連れてこられた朝鮮人が始めたものだそうですよ。文化への影響すごいですね。
しかし、これらの人たちは捕虜として持ち帰られたので、「文化の伝承」というよりも「文化の略奪」という捉え方もできますね。

江戸幕府
朱印船貿易
豊臣秀吉の死後、日本で実権を握ったのが徳川家康でした。

再び天下を統一した徳川家康は江戸に幕府を建てて、ここに江戸時代が始まります。
徳川家康は交易の利益を得るために海外貿易を推進し、幕府が交易の利益を確保するために貿易を許可制にして、朱印状を発行して、その朱印船だけが海外貿易に参加できる朱印船貿易がおこなわれました。

朱印船貿易は豊臣秀吉が始めたもので、九州大名に貿易の利益を独占させないために始めたものでした。
朱印船は東南アジアなどに派遣されて、香木・鹿皮などの東南アジアの特産や、生糸・陶磁器・絹織物などの中国特産を輸入して、日本産の銀などを輸出して利益を得ていきました。

そうして東南アジアの各地には朱印船貿易に従事する日本人たちが住み着くようになり、中国の貿易商人による華人街に加えて、日本人による日本町も多く作られました。

タイのアユタヤ朝やフィリピンのマニラなどに日本町が作られ、アユタヤには1500人以上の日本人が住んでいたそうですよ。
ちなみにカンボジアのアンコール=ワットには当時の日本人の落書が残っているそうです。
鎖国
上記の南蛮貿易でも説明した通り、当時、日中貿易が東アジアで最も儲けられるビジネスだったので、中継貿易による利益を得ようとする集団が現れます。
上記でも出てきた、マカオを拠点としたポルトガルに加えて、台湾を拠点にしたオランダやスペインなどのヨーロッパ勢力が進出してきて、中継貿易の利益を巡って争うようになっていきました。

オランダはマカオに進出しようとして失敗してしまったので、台湾に上陸して拠点にしていきました。スペインもいたんですが、その後蹴散らして独占しています。
江戸幕府は長崎に進出してきたヨーロッパ諸国と朱印船貿易を積極的におこなっていましたが、次第にオープンな海外貿易が消極的になっていきます。
そして最終的に江戸幕府は日本人の海外渡航や、ポルトガル人やスペイン人の来航を禁止して、オランダ人や中国人のみと交易をする統制政策を採っていきます。
これがいわゆる「鎖国」政策と呼ばれるものです。

SQ:なぜ江戸幕府は鎖国政策に移行したのか?

ではなぜ積極的だった海外貿易を統制する鎖国政策が採られるようになったんでしょうか。
ヨーロッパ諸国は海外進出する際に商人と一緒にキリスト教宣教師も乗せていました。
当時、ヨーロッパ諸国とローマ=カトリック教会は切っても切れない関係でしたからね。カトリック教会(イエズス会)が海外布教をする代わりに商船の支援をしていたんです。
イエズス会・・・ローマ=カトリック教会の宣教と教育を使命とする修道会。
ザビエルをはじめとするキリスト教宣教師がもたらす南蛮貿易の利益を得るために、西日本ではキリスト教徒になる大名たちが現れます。
これに危機感を感じたのが豊臣秀吉でした。
豊臣秀吉はキリシタン大名がイエズス会に長崎などの拠点を寄進してイエズス会のものになったり、キリスト教勢力が拡大し、南蛮貿易の利益をキリシタン大名たちに独占されることを恐れました。

加えてヨーロッパ諸国は奴隷として日本人を海外輸出していたので、豊臣秀吉はそれらに憤慨して海外から買い戻したりしたそうです。
なので、豊臣秀吉はバテレン追放令によって長崎を直轄支配にして、キリスト教宣教師たちを追放することにしました。

キリスト教信仰は一旦禁止になりましたが、江戸幕府になって海外貿易が積極的に推進されたことで、キリスト教宣教師たちの布教活動が黙認されるようになっていきます。
しかし、キリスト教が広がっていき、幕府の体制も整備されていくと、キリスト教信仰が徳川幕府を脅かす存在になると考えられていきます。

キリスト教は平等意識が高いので、武士中心の江戸幕府の体制に不満を持つキリスト教徒が多かったんです。
しかも、当時貿易相手国だったオランダとイギリスが、

ローマ=カトリック教会のポルトガルとスペインは、布教を口実に植民地化を計画しているらしいですよ。
とビジネスライバルのことを幕府に告げ口したことで、幕府とカトリック教国との関係が悪化していったんです。
ヨーロッパ諸国同士の利益の奪い合いも要因になっていたんですね。
そして江戸幕府は段階的に、キリスト教の信仰禁止や日本人の海外渡航禁止、ポルトガル人やスペイン人の来航禁止をおこなったことで、鎖国体制へと移っていったというわけなんです。
キリスト教信仰が幕府の支配体制を脅かすと考えられたうえに、ポルトガルやスペインが布教を口実に植民地化を狙っているという情報を得たため、ローマ=カトリック教国との関係を断ち、国内の安定を守るために鎖国政策をおこなった。

まとめ
MQ:国際交流の発展は日本にどんな影響を与えたのか?
A:南蛮貿易による利益をもたらし、鉄砲や南蛮文化の流入によって軍事力と文化が大きく変化した。豊臣秀吉の天下統一や江戸幕府の朱印船貿易、鎖国体制など、政治・経済・外交の展開に深く影響を与えた。

今回はこのような内容でした。

次回は新興勢力「女真」による明朝の滅亡と清朝建国についてみていきます。なぜ女真族が台頭して明は滅亡してしまったのか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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