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[7-3.5]フランス:全国三部会

7-3.西ヨーロッパの変化

この記事で使用したPowerPointスライドは「note」にてダウンロード可能です。PowerPointスライドやWordプリントのダウンロードは記事の最後に貼ってあるURLから!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!

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はじめに

グシャケン
グシャケン

前回はこのような内容でした。

グシャケン
グシャケン

今回はフランス王権の変化についてです。フランスの身分制議会だった全国三部会はイギリス議会とどのような違いがあったんでしょうか?

それでは一緒にみていきましょう!

MQ:フランス王権の変化と全国三部会はイギリス議会とどのような違いがあったのか?

今回の時代はここ!

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カペー朝

弱小王権

カペー朝フランス王国は[5-2.9]フランク王国③(分裂)でも登場しましたが、この王朝じゃフラン王国分裂後の西フランク王国で、ノルマン人の侵入を防いだユーグ=カペーが諸侯からの推薦で国王となって成立した王朝でしたよね。

そんなカペー朝ですが、国王が支配していたのはパリやオルレアン周辺だけで国王はあくまで一諸侯で地方政権の1つにすぎなかったんです。

もともと対ノルマン人で手を組んでいた諸侯たちで王国が構成されていたので、国王よりも勢力が大きい大諸侯が当たり前のようにいるなど、カペー朝の王権は実はとても弱かったんです。

グシャケン
グシャケン

支配によって統一したことで、王権が強かったノルマン朝の流れを組むイギリスとは違いますね。

しかも、ヘンリ2世がプランタジネット朝イギリス王国の国王となったことで、フランス国土の西半分がイギリス王国領になってしまうなど、とても複雑な関係になってしまいました。

なのでここからカペー朝歴代国王王国内のイギリス領の奪還に奮闘することになっていきます。

カペー朝 ユーグ=カペー
カペー朝領土 弱小王権

フィリップ2世

そんなカペー朝の王権拡大の基礎を築いたのが、フィリップ2世という国王でした。

グシャケン
グシャケン

以前[4-2.9]ポリス社会の変化とマケドニアで〝フィリッポス2世″という名前が似ている人物が登場しているので、混在しないように注意しましょう。

フィリップ2世

フィリップ2世は第3回十字軍にも参加していて、イギリスと仲が悪かったので早々に引き上げて、王国内のイギリス領に侵攻してリチャード1世と争ました。

グシャケン
グシャケン

この時いち早く帰国して王国の統治に専念したことが、後の拡大の基盤になったんです。

リチャード1世が亡くなった後も、後継のジョン王とも戦い勝利をおさめたことで、一部を除いてほとんどの大陸イギリス領を奪うことに成功して、領土奪還の目標を叶えることができたんですね。

こうして広大なイギリス領を奪還したことで、ここからカペー朝による王国統一の第一歩が始まったわけなんです。

グシャケン
グシャケン

王権を強化したフィリップ2世でしたが、ある問題で教皇インノケンティウス3世に破門の脅しを受けてそれに屈しているんです。

さすがに当時のフィリップ2世でも教皇には太刀打ちできなかったんですね。

フィリップ2世

ルイ9世

フィリップ2世の時代、南フランスにはキリスト教の異端宗派だったアルビジョワ派(カタリ派)が聖書者堕落に対する運動を拡大して勢力を大きくしていました。

これに対して教皇インノケンティウス3世の要請によってフランスの諸侯たちがアルビジョワ派のせん滅のためにアルビジョワ十字軍を組織して、アルビジョワ派と激しい戦闘が繰り広げられました。

なんとこの戦いは約20年もの間続き、最終的にアルビジョワ派に勝利したのがルイ9世の時代でした。

ルイ9世

このルイ9世がアルビジョワ派をせん滅したことで、カペー朝の王権は南フランスまで拡大しました。

ルイ9世 アルビジョワ派(カタリ派) アルビジョワ十字軍 

そしてルイ9世は熱心なキリスト教徒でもあったので第6回、7回十字軍に参加しましたが、第7回の遠征中に病気にかかってそのまま亡くなってしまいました。

しかし、ルイ9世は修道士ルブルックをモンゴル帝国に派遣して、東方のキリスト教勢力との連携を模索するなどキリスト教のために熱心活動したことがローマ=カトリック教会から評価されていたりもしているんです。

グシャケン
グシャケン

ルイ9世は十字軍での功績も合わせてローマ=カトリック教会から国王で唯一「聖人」の称号をもらっているんですよ。

ルイ9世 ルブルック
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全国三部会

SQ:なぜ身分制議会である全国三部会は開催されることになったのか?

フィリップ4世

そしてカペー朝の全盛期を築き、その後の絶対王政の基礎を築くほどフランス王権を強化したのがフィリップ4世という国王でした。

フィリップ4世

フィリップ4世は結婚や相続などで領土を拡大していき、さらに領土を拡大させるために軍事力の強化をおこなおうと考えます。

フィリップ4世
フィリップ4世

戦費を調達するために、これまで免税だった教会や修道院にも課税させてもらいます。

ということで、このフィリップ4世の教会や修道院への課税しようとしましたが、教皇ボニファティウス8世から反発されて対立することになってしまいます。

そこでフィリップ4世は、

フィリップ4世
フィリップ4世

課税するために各身分の代表者を集めて承認を得るぞ!

ということで課税の承認を得るために開かれた身分制議会が、全国三部会呼ばれるものだったんです。

SQ:なぜ身分制議会である全国三部会は開催されることになったのか?

教会や修道院への課税をめぐって教皇と対立したことで、国内勢力から承認を得て支持を固めるために開催された。

フィリップ4世 全国三部会

このフィリップ4世が開催した全国三部会とは、フランスを代表する身分制議会で構成は以下のようになっていました。

全国三部会

第一身分・・・聖職者

第ニ身分・・・貴族

~ここまでが特権階級(免税など)~

第三身分・・・平民(都市商人、平民)

このように全国三部会は各身分の代表者が集まった身分制議会で、国王の新たな課税を協議して承認するために、国王が召集する議会でした。

全国三部会
グシャケン
グシャケン

ここまではイギリスの模範議会と似ていますが、全国三部会とイギリス模範議会にはある違う点があります。どこだかわかりますか?

イギリス議会は王の課税に対して貴族たちの反発から開催された王権を制限するための議会でしたよね。

しかし、フランスの全国三部会は課税に反発する教皇に対して、国王が国内の支持を得るために開催した議会でした。

これらのまとめるとこんな感じ、

イギリス議会・・・王権を制限するために開催

フランス全国三部会・・・王権を強化するために開催

ということになり、王権に対して開催する目的が違うかったんですね。

イギリス議会とフランス全国三部会の違い

そして、この全国三部会で国内の支持を得て王権を強化したフィリップ4世は対立していたローマ=カトリック教会に対して強気な行動をとっていきます。

対立していたボニファティウス8世がアナーニ事件後に亡くなると、ローマ=カトリック教会に圧力をかけてフランス人を教皇を擁立させ、教皇庁をフランスのアヴィニョンに移動させる「教皇のバビロン捕囚」を起こすなど、王権強化に積極的になっていきました。

そして王国内で独立した勢力になっていたテンプル騎士団を弾圧して土地や財産を没収するなど、王権をさらに強化して国内を統一していき、その後の絶対王政の基礎を築いていくことになっていったというわけです。

フィリップ4世 アナーニ事件 「教皇のバビロン捕囚」 テンプル騎士団解体
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まとめ

MQ:フランス王権の変化と全国三部会はイギリス議会とどのような違いがあったのか?

A:イギリス議会は王権を制限する形で貴族主導で発足したものだが、フランスの全国三部会は王権を強化する目的で国王主導で開催された身分制議会という点で異なっている。

グシャケン
グシャケン

今回はこのような内容でした。

次回は、今回まで紹介してきたイギリスとフランスが長期にわたって衝突した百年戦争についてです。この百年戦争によって両国はどのような状況になっていったんでしょうか?

それでは次回もお楽しみに!

「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク

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グシャケン
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