この記事で使用したPowerPointスライドは「note」にてダウンロード可能です。PowerPointスライドやWordプリントのダウンロードは記事の最後に貼ってあるURLから!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!
はじめに

前回はこのような内容でした。


今回は西ヨーロッパで権威を極めた教皇の権威が失墜していく過程をみていきます。教皇の権威はどのようにして落ちていったんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:教皇と国王の関係性はどのように変化していったのか?
今回の時代はここ!

「教皇のバビロン捕囚」
教皇の権威低下
ローマ=カトリック教会の階層制組織のトップに君臨する教皇の権力は、13世紀にインノケンティウス3世の時代に全盛期を向かえましたね。
しかし、その後十字軍を発足させましたが、最終的に聖地を奪還することができずに失敗に終わってしまいます。
この十字軍の失敗から国王や諸侯の教皇への信頼が揺らぎ始めます。
しかも、諸侯が十字軍による財政悪化や貨幣経済の発展による農奴解放から没落していった代わりに、国王が都市と結託などして中央集権化するなど権威を伸ばしていきました。
これによって、教皇の権威はさらに低下していくことになります。

アナーニ事件
しかし、13世紀に教皇になったボニファティウス8世は、

教皇権は国王に勝る絶対的権威である。
と信じていました。
そんな時、カペー朝フランス王フィリップ4世が戦費の調達と王権強化のために、教会や修道院の土地に対しても課税しようとしました。


それまでには、教会や修道院が持つ荘園には不輸不入権があって国が介入できなかったんです。

教皇さま、フィリップ4世が我々に課税しようとしているので、なんとかしてください!

教会や修道院への課税は禁止だ!教皇の権威は絶対だぞ!
と、フランスの教会からの要求に応えて、ボニファティウス8世はフィリップ4世に抗議して課税の禁止と教皇への服従を命令します。

しかし、政治の事情で課税を優先したいフィリップ4世は、

反対するならローマ=カトリック教会にもう献金しない!
ということで、教会への献金を停止してしまいます。

献金停止は財政支出を抑えられるんで、国民からも支持されたそうですよ。
国民も教皇より国王側に付いたので、フィリップ4世も教皇に対して強気な姿勢をとれたんですね。それだけ教皇権の影響力が弱くなっていたということですね。
献金を停止されてしまったボニファティウス8世は最後の手段に出ます。

フィリップ4世を破門にするぞ。
ということでフィリップ4世を教会から破門にする準備を始めたんです。

過去に破門にされた国王は教皇に屈した「カノッサの屈辱」がありましたからね。この破門をちらつかせることで教皇は権威を示していました。

この破門の準備している情報を聞きつけたフランスの国王派が大胆な行動に出ます。
なんとローマ郊外のアナーニにいたボニファティウス8世を捕まえて軟禁してしまったんです。現代でいう拉致事件ですね。
この教皇軟禁事件をアナーニ事件といいます。
ボニファティウス8世はその後数日間軟禁されてしまい、最終的に市民に助けられてローマへと逃れることができましたが、そのショックと怒りで事件の1か月後に亡くなってしまいました。

持病もあったそうなんですが、ボニファティウス8世は史上唯一の「憤死」によってこの世を去っています。
このアナーニ事件は、国王側がそれまで絶対的だった教皇を軟禁するという前代未聞の大事件でした。
ここから教皇権よりも国王の権力の優位であることが露わになっていきます。

「教皇のバビロン捕囚」
ボニファティウス8世の死後、選出された教皇によってローマにあった教皇庁をフランスのアヴィニョンに移すという計画が立てられます。
こうして教皇庁はアヴィニョンに移されて、その後約70年弱に渡って教皇はローマを離れることになってしまったんです。
この教皇がローマからフランスに約70年弱の間移った出来事を、古代のユダヤ人の「バイロン捕囚」になぞって、「教皇のバビロン捕囚」といわれています。

SQ:なぜ教皇庁がローマからフランスのアヴィニョンに移されたのか?
ではなぜ教皇庁はアヴィニョンに移動されたんでしょうか?
それはフランス王フィリップ4世の思惑があったからなんです。
ボニファティウス8世の後、1人挟んで教皇になったのがフランスの大司教だったクレメンス5世という人物でした。
この教皇を決める際に大変もめたらしく、最終的にフランス王フィリップ4世の支援もあってクレメンス5世が選ばれたそうです。

それだけフィリップ4世はアナーニ事件を通して、ローマ=カトリック教会に影響力を持っていたんですね。
フィリップ4世からすると王国統治の安定のためにはローマ=カトリック教会の介入が邪魔だと考えて、教皇を自分のコントロール下に置きたかったんです。

クレメンス5世もフィリップ4世の支援があって教皇になっていますから、文句は言えませんよね~。
なので、自分の影響下にある人物を教皇にするように仕向けて、なった後に圧力をかけて教皇庁をフランス国内に移動させて監視できるようにしたというわけです。
フランス王フィリップ4世が国内統治の安定のために、教皇を影響下に置こうとしたため。

「教皇のバビロン捕囚」といわれていますが、奴隷的な扱いを受けたわけではなくて、壮大な教会などが建設されて、教皇たちは豪華絢爛な生活をしていたそうですよ。
歴史的にみて、教皇の権威が国王に左右されてしまうほど落ちたという意味で「教皇のバビロン捕囚」と言われているんですね。

教会大分裂(大シスマ)
「教皇のバビロン捕囚」で教皇がフランスに移ったことで、もともと教皇庁があったイタリアのローマでは反発が起きます。

教皇様がローマにいないのはおかしい!教皇様をローマに返せ!
という批判から、神聖ローマ皇帝のカール4世の支援もあって68年間ぶりに教皇がローマに戻ることになります。

でも戻った後、すぐに病気を患って教皇は亡くなってしまいました。
そしてその後おこなわれた教皇の選出会議で、ローマ派とフランス派の間で対立が起きます。
その状況を聞いたローマ市民がしびれを切らして暴動を起こすような事態になってしまいます。
この事態を収拾するために最終的にはローマ派の教皇が選出されたんですが、この方は規律に厳しい方で聖職者たちの堕落を正そうとしました。

これに反発した聖職者たちが、ローマ派の教皇を無効にして新しい教皇を選出してしまったんです。
これに対してローマ派の教皇はそれを認めずにローマ教皇庁に居座ったので、新たに選出された教皇はフランスのアビニョンに戻ってしまい、教皇が2人いる状態になってしまいました。
この教皇がローマとアヴィニョンに2人いる状態になってしまったことを教会大分裂(大シスマ)といいます。
シスマ・・・教会の分裂を意味する語。ドイツ語で「 Schisma」


現在のローマ=カトリック教会では、ローマ派が「正統教皇」とされて、アヴィニョン派は「対立教皇」とされています。
※以後、ローマ教皇:「教皇」、アヴィニョン教皇:「対立教皇」
SQ:教会大分裂が西ヨーロッパに与えた影響とは?
教皇と対立教皇という2人の教皇が対立したことで、西ヨーロッパのキリスト教徒たちも2陣営にわかれて対立することになりました。
教皇たちはお互いに信徒たちも含めて破門しあい、西ヨーロッパでは宗教的・政治的な混乱が起きてしまいます。
教皇はそれまでローマ=カトリック教会の絶対的な宗教的権威で、西ヨーロッパ各国の王位継承権や戦争の解決を唯一仲介できる役割を担っていました。

現在の国際組織みたいな感じですかね。
その権威は十字軍時代が頂点でした。
しかし、先ほど説明した「教会大分裂(大シスマ)」が起きてしまった結果、教会の混乱によって教皇という仲介役を失ってしまった西ヨーロッパ各国では、戦争が長期化して政治的混乱が続いてしまうということが起きてしまったんです。

イギリスとフランスの間で起きた百年戦争などがその例ですね。
教皇並立による宗教的混乱によって、それまで西ヨーロッパ各国の問題解決の仲介役であった教皇が機能しなくなり、戦争が長期化するようになってしまった。
政治的仲介役の機能を失ってしまった教皇は、西ヨーロッパ各国への影響力が低下してしまい、さらなる権威低下に繋がっていきました。

教会大分裂に関しては、15世紀初めに開かれたコンスタンツ公会議によって教皇が統一されて解決されることになりました。
まとめ
MQ:教皇と国王の関係性はどのように変化していったのか?
A:十字軍時代までは教皇が国王の政治に影響を与えるような絶対的権威を持っていたが、十字軍失敗から国王の権威が向上していき、「教皇のバビロン捕囚」で国王の優位性が示され、教会大分裂(大シスマ)によって、西ヨーロッパでの政治的影響を失うなど教皇の権威が低下していった。

今回はこのような内容でした。

次回は教皇の権威低下によって起きた教会批判と魔女裁判についてやっていきます。教会批判に対して教会はとった対策とその影響とはいったい何だったんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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