この記事で使用したPowerPointスライドは「note」にてダウンロード可能です。PowerPointスライドやWordプリントのダウンロードは記事の最後に貼ってあるURLから!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!
はじめに

前回はこのような内容でした。
スライド(前回まとめ)

今回は中世に発展した都市についてみていきます。いったい中世の都市は西ヨーロッパでどんな存在だったのでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:中世の都市は西ヨーロッパでどのような存在だったのか?
今回の時代はここ!

自治都市の成立
もともと中世ヨーロッパの都市とは、“司教座都市”が発展してできたものでした。

そもそもこの「司教座都市」とはいったい何でしょうね?
この“司教座都市”とは、ローマ=カトリック教会で高位聖職者とされる大司教や司教が置かれて管轄している都市のことを指します。
この司教座都市には高位聖職者がいたので、階層制組織によって周りの荘園や教会からヒトやモノが集まりやすい状況でした。
なので、ヒトとモノが集まりやすいので自然と司教座都市を中心に都市が発展していき、中世の都市の基盤になっていったというわけなんです。
これらの司教座都市は商業が発展して市場の規模が大きくなっていくにつれて都市化が進んでいき、中世都市が形成されていきました。

こうした都市は(司教なども含む)封建領主の保護下で統治されていましたが、11世紀頃から次第に封建支配から抜け出して自治を求めようとする動きが出てきます。
これによって最終的に誕生したのが自治都市なんです。
SQ:なぜ都市は自治を求めたのか?

ではなぜ都市は自治を求めるようになっていったんでしょうか?
そのヒントは、[7-1.4]西ヨーロッパ商業圏の発展でも解説した貨幣経済と商業圏の拡大にあります。
当時の西ヨーロッパでは「封建社会」が浸透していました。
都市でも封建領主に保護してもらう代わりに貢納をする義務がありました。
しかも封建領主は都市に対して領主裁判権を持っていたので、何かあった時の裁量も封建領主に委ねられていました。
要するに、都市は封建領主に対して多くの義務と負担があったんです。

これらの義務と負担があって、都市は封建領主に守ってもらえていたんですけどね。

しかし、この関係が11~12世紀にかけて変化していきます。
この頃は農業生産の拡大や十字軍による交易路の開拓などによって、貨幣経済と商業圏の拡大が西ヨーロッパで起きていました。
なので、都市では遠隔地貿易や中継貿易などによって市場の規模が大きくなっていって、商業都市が発展していたんです。
これによって何が起こるかというと、、、
都市では商人を中心に、商業によって富を築いた裕福市民や大商人が現れるようになるんです。
そしてこれらの裕福な市民が、

封建領主は俺たちから富や権利を搾取している!この理不尽な支配から脱するべきだ!
まあ、封建領主に富も権力も握られては裕福層も面白くないですからね。
このように貨幣経済の拡大を背景に、裕福になった都市の市民層が封建領主からの支配から独立しようという運動から自治が求められたんです。
貨幣経済の拡大によって裕福になった市民層を中心に、封建領主の支配から独立しようという運動が起きたため、自治を求めた。

北イタリア
コムーネ(自治都市)の成立
中世都市の中でも北イタリアは自治化への動きが活発におこなわれました。

自治の要求は貨幣経済の拡大が原因の一つでしたよね。北イタリアでは十字軍以降、東方貿易(レヴァント貿易)が盛んだったので、いち早く貨幣経済が浸透して自治運動が起きたんです。
経済力をつけた都市たちは封建領主に対して自治を要求します。
これに対して封建領主も権利を奪われたくないので、これを拒否して抗争になります。
しかし、富を蓄えている都市はその経済力で強力な軍隊を雇うことができて、おまけに教皇からの支持を得ることで抗争を優位に進めていきました。

教皇からすれば、封建領主が力をつけ過ぎると脅威になってしまうので、都市を支持して封建領主の力を削ごうとしたと考えられます。
そして、最終的に封建領主から自治権を獲得することに成功して、封建領主の貢納の免除や領事裁判権が及ばないコムーネ(自治都市)が成立しました。

人はいつの時代も富と権力を追い求めるんですね。
ちなみにコムーネ(自治都市)の代表的存在はミラノとかですかね。
北イタリアのコムーネ(自治都市)では封建領主との抗争の中で城壁を築いて城郭都市になっていました。
しかし、独立後は都市の周辺にある農村も封建領主から奪って併合していたので、コムーネ(自治都市)は一種の共和国のような存在となっていきました。

普通に周辺と外交関係も結んでいたみたいですよ。
その後コムーネ(自治都市)となった都市では、大商人たちが貴族層となっていって封建領主にかわる権力者に代わっていくことになります。

ロンバルディア同盟
自治都市として支配から独立した北イタリア諸都市でしたが、12世紀ごろから神聖ローマ皇帝がイタリアに進出していきたことで危機に陥ります。
神聖ローマ皇帝は、イタリアでローマ戴冠をおこなうことを目標にイタリアを支配下に置こうとするイタリア政策がおこなわれました。

このイタリア政策は一つには皇帝が保護していた封建領主の権利が都市に奪われていることへの報復だったともいわれています。
“見栄のため”よりもこちらの“実権復刻”の方が政策的に現実的ですね。
特に神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世は4回も遠征をおこなってミラノを破壊してしまうなど、北イタリア諸都市は危機に陥ります。

フリードリヒ1世は第3回十字軍に参加して事故死してしまった皇帝でしたね。
そこで北イタリア諸都市は対抗するために、都市同士で同盟を結ぶことにしました。
これによって対イタリア政策の同盟として結ばれたのがロンバルディア同盟でした。
ロンバルディア同盟=政治的・軍事的同盟
この同盟によって北イタリア諸都市は神聖ローマ軍を撃退することに成功して、見事に神聖ローマ皇帝に都市の自治権を認めさせることができました。

北ドイツ
帝国都市(自由都市)
北イタリア諸都市は封建領主から自治権を手に入れて、周辺の農村も合併した領土を持つ共和国のような存在になっていったのが特徴でしたが、北ドイツの自治都市は他の方法で自治を獲得していきました。
北ドイツ諸都市も、もともとは封建領主の支配下に入っていましたが、支配から脱するために神聖ローマ皇帝を利用したんです。
封建領主への税負担から逃れるために神聖ローマ皇帝(ドイツ王)から特許状を得て、皇帝直属の帝国都市(自由都市)として自治権を獲得するという方法でした。

神聖ローマ皇帝も封建領主の勢力拡大には危機感を感じていたので、都市に対して特許状を許可していたんです。
これによって皇帝は危険分子(封建諸侯)を弱体化させ、都市は自治権を得られるというWinWinの関係ができたというわけです。機転が利く方法ですね。
このように自治権を獲得した帝国都市では、都市の自治権が与えられる代わりに神聖ローマ皇帝への軍役や税負担などはありました。
なかには税が免除される自由都市もあったんですが、それらは“帝国都市とほぼ同じ”扱いで明確な違いはないそうです。
帝国都市(自由都市)は皇帝直属になったことで、諸侯と同じ地位として存在することができました。

自治都市では移り住めば自由市民になれたので、封建社会の農奴制などの環境から解放されることを意味して「都市の空気は(人を)自由にする。」ということわざができました。

ハンザ同盟
北ドイツ諸都市があった地域は北ヨーロッパ商業圏に属していたので、生活必需品を中心に交易が盛んでした。
しかし、地中海商業圏で中心だった奢侈品とは違って、生活必需品は単価が低いので大量に仕入れて売りさばかないと利益が出にくい特徴があったんです。
なので、北ヨーロッパ商業圏の都市では交易で安定した利益を出すためには商人や都市同士の協力が必要不可欠だったんです。
そのような経済的な事情から、都市同士でお互いの交易を保障し合うために発足されたのがハンザ同盟でした。
ハンザ同盟=経済的同盟

ハンザ同盟に参加している都市は交易の際にいろいろな特権を持つことができて、それをお互いに監視しながら保障していました。
以下はその特権の一部です。
・関税の免除
・市場(特定商品)の独占
・紛争の際の法的保護
・軍事的保護
これらの特権により、ハンザ同盟は北ヨーロッパ商業圏を支配して、貿易を繁栄させることができたんです。

ハンザ同盟は国家間がするような同盟とは違い、「交易で協力しよう。」という経済的な理由でできたので、参加都市の入れ替わりも激しくて結構ルーズだったみたいです。


各地域の特色
北イタリア
封建領主から独立を勝ち取ったコムーネ(自治都市)は共和国のような存在となりましたよね。
都市には農奴制から逃れようとする農民が移り住んで、人口が増加していきました。
しかし、商業や手工業の発展による商人や職人たちの中産階級化は、都市を支配する大商人(貴族)たちに不満を持つようになって対立していくことになりました。
なかにはそれを莫大な財力で押し潰す、フィレンツェのメディチ家のような独裁政治をおこなう都市もあらわれました。

北ドイツ
北ドイツでは帝国都市としてハンザ同盟に参加する都市が北ヨーロッパ商業圏を担う存在になっていました。
経済的な同盟でしたが、交易の権利が脅かされそうになると共同で軍を出して国家と戦うなど、政治的な勢力としても存在を増していきました。

イギリスやフランス
イギリスやフランスの諸都市は、国王との結びつきが強かったので、行政の中心地として発展していきました。
SQ:なぜイギリスやフランスの諸都市は、国王との結びつきが強かったのか?

なぜイギリスやフランスの諸都市は国王との結びつきが強かったんでしょうか?
ヒントは十字軍です。ちなみにこれは以前の復習にもなります。

十字軍によってイギリスやフランスでは権力構図に変化が起きましたよね。いったいどんな変化でしたか?

十字軍が失敗したので、教皇の権威が低下してしてしまい、十字軍を担った諸侯や騎士の力が弱体化してしまいました。

すばらしい。その通りです。
[7-1.3]十字軍②(影響)でも説明した通り、十字軍によって相対的に国王の権威が上がっていったんですよね。
十字軍の失敗によって弱体化した教皇や諸侯、騎士に代わって国王の権威が上がったことで、諸都市はその国王の保護下に入って繁栄しようしたわけなんです。
十字軍の影響で国王の権威が向上したことから、その保護下に入って繁栄しようとしたため。

まとめ
MQ:中世の都市は西ヨーロッパでどのような存在だったのか?
A:商業が発展するにつれて封建領主の支配から脱して独立する自治都市が現れた。北イタリアでは周辺の農村も合併した共和国的な都市が現れ、北ドイツでも皇帝の特許状によって帝国都市として自治権を獲得する都市が現れた。これらの自治都市は同盟を結ぶことで、軍事的・経済的に周辺諸国に影響を与える存在となっていった。

今回はこのような内容でした。

次回は、そんな中世の都市で生活していた人々についてみていきます。中世の都市ではいったいどんな生活がおこなわていたんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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