[4-1.1]アケメネス朝ペルシア

4-1.アケメネス朝、パルティア、ササン朝

世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。このブログから世界史を深めてくれると嬉しいです。「問い」の設定や記事の最後にはパワーポイントもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!

※1記事で教科書0.5~1ページほどの文量です。実際の授業は記事複数分に相当すると思いますので、MQ、SQの設定などは各自で自由にアレンジしてください。

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はじめに

グシャケン
グシャケン

前回はこのような内容でした。

グシャケン
グシャケン

今回から西アジアと地中海世界をみていきます。今回は古代オリエント時代でも出てきた大帝国アケメネス朝についてです。なぜアケメネス朝は大帝国を築くことができたのでしょうか?

それでは一緒にみていきましょう!

古代オリエント文明については1-2.古代オリエント文明をご覧ください。

MQ:アケメネス朝が大帝国での中央集権を可能にしたシステムとは?

今回の時代はここ!

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アケメネス朝の誕生

話は紀元前7世紀にまで戻ります。

オリエントでは、初の統一王朝を築いたアッシリア王国が崩壊した後、4王国が分立する時代へと移っていました。

アッシリア王国、4王国分立については[1-2.9]オリエントの統一と分裂:アッシリア王国と4王国分立

メディア、リディア、新バビロニア、エジプト

キュロス2世(初代)

その4王国の中のメディアで、地方の王として即位し、後の大帝国であるアケメネス朝打ち建てたイラン人(ペルシア人)のキュロス2世が登場します。

キュロスが地方の王位に就いた前559年が、アケメネス朝建国の年とされている。

キュロス2はメディア王室の婿(むこ)として地方を任されていましたが、反乱を起こしてメディア王国を滅ぼしてしまいます。

ここから実質的に王朝を支配することになって、アケメネス朝ペルシアは建国されたんです。

グシャケン
グシャケン

アケメネス朝ペルシアとは「アケメネス家が支配するペルシア帝国」という意味になります。

その後、キュロス2世率いるアケメネス朝は破竹の勢いで勢力を拡大します。

4王国のうちのリディアや新バビロニアを支配して、エジプト以外のオリエントの統一に成功します。

キュロス2世

めちゃ強ですね。4王国も覇権争いで疲弊しているタイミングだったのかもしれませんね。

●ユダヤ人の解放

SQ:なぜユダヤ人はイェルサレムに戻ることができたのか?

ユダヤ人(ヘブライ人)たちは新バビロニアに母国を滅ぼされた後、バビロンまで連行された「バビロン捕囚」によって強制労働を強いられていました。

ユダヤ人(ヘブライ人)やバビロン捕囚については[1-2.7]ヘブライ人とユダヤ教をご覧ください。

しかし、キュロス2世によって新バビロニアが滅亡した際に解放されて、故郷イェルサレムに戻ることが許可されたんです。

ユダヤ人からしたら幸せなことですが、なぜキュロス2世はユダヤ人たちを奴隷のまま働かせず、解放してあげたのでしょうか?

それはキュロス2世がユダヤ人を「自国民」として扱ったためなんです。

キュロス2世
キュロス2世

アケメネス朝の民となったからには生活を保障してあげないと

ユダヤ人の人口は無視できないほど多いから保護した方が帝国の治安のためにもいいだろう。

と考えていたかもしれませんね。

SQ:なぜユダヤ人はイェルサレムに戻ることができたのか?

キュロス2世によって解放されて、アケメネス朝の民として扱われ保護されたから。

キュロス2世 ユダヤ人解放

これらのことからキュロス2世の政治力と異民族への寛容さがうかがえますね。

ユダヤ人もキュロス2世のことを「救世主」として讃えています。

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大帝国の建設

ダレイオス1世(3代目)

大帝国の建設

アケメネス朝は2代目のカンビュセス2世の時代にエジプトを征服することに成功し、見事オリエントの統一を果たしました。

しかし、カンビュセス2世は独裁的な王で、オリエント統一後の遠征で失敗が重なってしまうなど、徐々にその求心力を失い、後継者争いで内乱が起こるなど不安定が時期が続いてしまいました。

そんな中、内乱を鎮圧して3代目として即位したのがダレイオス1世でした。

ダレイオス1世(左の椅子に座っている人物)

ダレイオス1世は内乱を鎮圧し、その後の遠征では領土をエーゲ海からインダス川まで広げてアケメネス朝を大帝国にした全盛期のだったんです。

アケメネス朝ペルシア
グシャケン
グシャケン

イランでローリンソンが発見したベヒストゥーン碑文はダレイオス1世が内乱に勝利した記念として掘られたものでしたね。

ベヒストゥーン碑文については[1-2.3]メソポタミアの宗教と文化をご覧ください。

行政の中央集権化(サトラップ、「王の目」「王の耳」)

SQ:地方政治を安定させるための政策とは?

まずダレイオス1世は、帝国を民族ごとに20(またはそれ以上)の行政区に分けました。

そして各州に知事(サトラップ)を派遣して地方統治に当たらせたんです。

グシャケン
グシャケン

このサトラップ制度はアッシリアの頃からありましたが、行政区に分けたのはアケメネス朝が最初だったようです。

大帝国となってその重要性が増したことから、世界史探究ではアケメネス朝の分野で扱われています。

サトラップには王族や貴族が任命され、政治と軍隊の両方を任されて絶大な権力を持っていました。

グシャケン
グシャケン

ですが権力を握りすぎると中央政府に従わずに独立して反乱をおこそうとする勢力が現れそうですね。例として唐の節度使によって起きた安史の乱などがあります。

安史の乱については[2-4.7]安史の乱と社会変化をご覧ください。

では安定して統治してもらうためにあなたならどうしますか?

まずは絶対の信頼をしている人を選びます。

それでも不安なら監視して危険だとおもったらすぐにクビにします。

グシャケン
グシャケン

いい考え方ですね。

まさにダレイオス1世はそのような政策を打ち出しました。

絶大なサトラップが離反しないように置かれたのが「王の目」と「王の耳」でした。


王の目

サトラップを監視し、勤務状況を把握するために王直属の監督官

引用:「世界史の窓」、王の目、王の耳 (y-history.net)

王の耳

監察官である「王の目」の補佐官

引用:「世界史の窓」、王の目、王の耳 (y-history.net)

これらの組織を置くことでサトラップの反乱を未然に防いで、地方統治を安定させたんですね。

SQ:地方政治を安定させるための政策とは?

行政区にわけてサトラップを派遣し、その離反対策として「王の目」「王の耳」に監視させることで地方政治を安定させた。

サトラップ、「王の目」「王の耳」

ダレイオス1世は財政の安定にも努めました

陸交易を担うアラム人や、海上交易を担うフェニキア人らの商業活動を保護して税収の安定化を図ります。

アラム人やフェニキア人については[1-2.6]アラム人、フェニキア人をご覧ください。

そして新しい金貨と銀貨を鋳造して徴税貨幣を統一することで、徴税方法も一本化して確立させることに成功します。

いろんな貨幣が混じっていると為替が大変で効率が悪くなりますからね。

アケメネス朝の中央集権体制
歴史法則

国内の商業を担う民族を保護すると経済や財政が安定する。

交通ネットワークの構築(「王の道」、駅伝制)

広大な国土を中央から管理するためには、命令や報告(徴税、軍隊、モノの運搬など)の伝達がすぐに地方に伝わらないと混乱を招いてしまいます。

現代のようにFAXやメール、チャットなど当然ありませんからね。(笑)

そこで中央や地方との連絡が円滑におこなえるように作られたのが「王の道」でした。

「王の道」とは幹線道路の役割を果たす国道です。距離は2,000km以上に及び、首都のスサを中心に主要都市を結んでいました。

幹線道路・・・主要な地点を結び、道路網の骨格を形成する道路。

(引用:幹線道路(かんせんどうろ)とは? 意味・読み方・使い方をわかりやすく解説 – goo国語辞書

さらに政府の書状を早く目的地まで届けるために、20~30kmごとに宿場が設けられてリレー形式で伝える駅伝制も整備されました。

グシャケン
グシャケン

この駅伝制もアッシリアから使用されていましたね。

ちなみにアケメネス朝では、1人だと1か月かかるところを駅伝制では約1週間ほどで届けられたそうです。

「王の道」
都市開発

ダレイオス1世の時代には、交通ネットワークの拡大で新しい首都としてペルセポリスが建設されました。

ペルセポリスには王の住居があり、主に宗教儀式の場として活用されていました。

ペルセポリス 資料:『詳説世界史研究』山川出版社

ペルセポリスには帝国各地から訪れた貢納使節団が送られていました。

それが刻まれたレリーフには、民族衣装をまとった貢納者が描かれていることから、アケメネス朝の広大さが伝わってきますね。

ペルセポリスの「貢納のレリーフ」 資料:『詳説世界史探究』山川出版社

しかし、実際の政治の中心として役所などが置かれていたのはスサでした。

なので行政の首都がスサ宗教儀礼の首都がペルセポリスが担っていたというわけなんですね。

アケメネス朝の首都
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帝国の繁栄と滅亡

繁栄

これらの行政や財政、インフラなどを整備して国内の政治を安定化させたことで、アケメネス朝は約200年にもわたって繁栄することができたと考えられます。

加えて服属した異民族に対して、文化や宗教を否定せず、寛容的な政治をおこなっていました。

これも長期の繁栄に貢献したといえるでしょう。

アッシリアは高圧的な政治が原因で滅亡したことから、その歴史の反省から寛容的になったかもしれませんね。

アッシリアの政治
アケメネス朝の政治

衰退と滅亡(ペルシア戦争とアレクサンドロス大王)

ダレイオス1世は国内整備を充実させ、服属した異民族に寛容でしたが、服属を拒否したエーゲ海のギリシア人に対しては、罰を与えるべく遠征をおこないました。

これが世に有名なペルシア戦争です。

しかし、ギリシア側の巧みな戦術や天候にも恵まれなかったことで、この遠征に失敗してしまいます。

次の4代目のクセルクセス1世の時もギリシアに遠征しましたが敗北し、ペルシャ戦争は敗北に終わってしまいました。

それから王宮での内紛サトラップの反乱などが起きてしまい、アケメネス朝は次第に中央集権が弱体化していきます。

そして前330年ごろに、マケドニアのアレクサンドロス大王東方遠征によって、アケメネス朝は破れて支配されることになり、滅亡してしまいました。

アケメネス朝の滅亡
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まとめ

MQ:アケメネス朝が大帝国での中央集権を可能にしたシステムとは?

A:行政地区にわけてサトラップを置き、それを「王の目」「王の耳」に監視させることで地方政治を安定させ、中央管理が行き届くように「王の道」や駅伝制などのインフラも整備した。服属した異民族には寛大な政治をおこない治安を安定させた。これらのシステムによって大帝国での中央集権を可能にした。

グシャケン
グシャケン

今回はこのような内容でした。

次回はアケメネス朝崩壊後の西アジアをみていきます。2つの王朝がある要因で繁栄することになります。

それではお楽しみに!

今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!

「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク

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