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[3-1.2]マウリヤ朝

3-1.仏教と南アジア

世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。復習や予習の際に使いやすい内容になっています。「問い」の設定や記事の最後にはパワーポイントもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!※あくまで1例なので、「MQ」や「SQ」、スライド等は自由にアレンジしてください。

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はじめに

グシャケン
グシャケン

前回はこのような内容でした。

グシャケン
グシャケン

今回は南アジアで初めての統一王朝であるマウリヤ朝についてです。なぜ統一王朝が誕生したのか?その中で仏教がどんな発展をしていったのかについてもみていきましょう!

MQ:南アジア初の統一王朝で仏教はどんな発展を遂げたのか?

今回の時代はここ!

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アレクサンドロス大王の侵入

南アジアではマガダ国が有力でしたが、決して南アジア全域を支配したわけではなく、周辺には小国が興亡する群雄割拠の状態でした。

しかし、その状況を打開する事件が前4世紀に起きます。

それがギリシアのマケドニアから東方遠征でやってきたアレクサンドロス大王の侵入でした。

アレクサンドロス大王 出典:https://sekaishilibrary.com/alexanderthegreatcontents/

アレクサンドロス大王はギリシアを統一後、東方遠征をおこないオリエントのアケメネス朝を滅ぼして世界帝国を打ち立てていました。

アレクサンドロス帝国と東方遠征

オリエント統一後、その矛先が南アジアにも向きます。

アレクサンドロス大王は西北インドまで侵入し、小国を次々と征服していきます。

西北インド・・・現在のアフガニスタンからインダス川流域

西北インド

南アジア諸国のピンチ!

そこで奮闘したのが有力だったマガダ国です。当時はナンダ朝が治めていた時代でした。

グシャケン
グシャケン

「ナンダ朝マガダ国」を簡単にいうと、「ナンダ家が治めるマガダ国」という意味になります。日本でいうと「徳川家が治める日本」を「徳川朝日本」と呼ぶ感じでしょうか。

ナンダ朝マガダ国は、アレクサンドロスがインダス川を越えてインド内部に侵入するのを防ぐために、悪戦苦闘します。

しかし、アレクサンドロス軍はマガダ国のインド象部隊に苦戦したり、長期の遠征で疲労していたこともあり、ナンダ朝マガダ国は内部まで侵入されることなく、退却させることに成功します。

なんとか滅亡は免れましたが、アレクサンドロス軍の影響で西北インドではギリシア系の王朝が誕生するなど、混乱は続きました。

アレクサンドロスの侵入と退却後
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チャンドラグプタ王

南アジア統一

SQ:なぜ統一王朝が誕生したのか?

アレクサンドロス大王の侵入による混乱は、南アジアにある変化をもたらしました。

アレクサンドロス大王の侵入に影響をうけて、南アジアを統一しようとする動きが出てきたんです。

外敵の侵入は各地の勢力バランスが崩れるため、新興勢力が台頭しやすい状況になります。

ナンダ朝もアレクサンドロス軍を退却させたとはいえ、そのダメージは大きく全盛期に比べると衰退していました。

このような状況から名を馳せる人物が登場します。

その人物とは、マウリヤ朝を建国したチャンドラグプタ王です。

チャンドラグプタ王

彼は謎の多い人物ですが、マガダ国の支配下で恵まれない身分から成り上がっていき、名声を上げました。まさに下剋上。

西北インドで挙兵し、その地域のギリシア政権を一掃することに成功します。

その勢いのままマガダ国にも侵攻して、前317年にナンダ朝マガダ国を滅亡させてしまいます。

その後は、都をパータリプトラに置き、南アジアの中心地を押さえたことで、周辺諸国も支配していき、気づけばマウリヤ朝は南アジア初の統一王朝へと成長していきます。

SQ:なぜ統一王朝が誕生したのか?

大敵の侵入によって、各地の勢力バランスが崩れことで統一の機運が高まり、統一王朝が誕生した。

マウリア朝
グシャケン
グシャケン

チャンドラグプタ王は現在では「インド人の最大の王」として賞賛されています。

統治

チャンドラグプタ王下でのマウリア朝は、それまでの国と比べて中央集権的な統治が行われました。

中心地のガンジス川流域を直轄地とし、それ以外を4つの属州に分けて王子を派遣して統治させました。

中央政府も多くの官僚制や軍が組織され、税制も整備されました。

マウリア朝の統治体制

暴君から仏教徒へ

帰依(きえ)・・・神仏や高僧を信じてその力にすがること。仏教信者になること。

マウリア朝の最盛期は3代目のアショーカ王の時でした。

このアショーカ王は即位当時、「暴虐のアショーカ」と呼ばれたほどの暴君だったんです。

王位継承をめぐって兄弟たちと争い、99人もの異母兄弟を殺して即位したといわれています。

まず99人も兄弟がいたことにビックリですね。(笑)

即位後も領土拡大を進めマウリヤ朝の最大領土を達成します。その領土は、現在の南端を除くインド全域とパキスタンとバングラデシュまでに及びます。

アショーカ王
マウリヤ朝

しかし、デカン高原にあった強国のカリンガ国との争いでは、民間人合わせて数十万人に犠牲者を出してしまうほど、壮絶なものになりました。

カリンガから15万人の捕虜を連行して10万人を殺害したと言われています。そのうち多くのバラモン階級も犠牲になりました。

戦いには勝利したものの、さすがのアショーカ王も多くの犠牲に対して深く悔い、悩んでしまいます。。

そこで出会ったのが仏教でした。

そこからアショーカ王は改心して仏教に帰依し、「戦争から平和」路線へと統治の舵を切っていきます。

アショーカ王の仏教帰依

仏教の発展

アショーカ王が仏教の帰依後におこなったことは大きくわけて以下の3つです。

アショーカ王の政策

①ダルマによる政治

②仏典の結集

③仏教の布教

それでは1つずつみてきましょう。

①ダルマによる政治

ダルマとは「法律や、守るべき正しいおこない(倫理、道徳、正義など)」という意味で、仏教誕生以前から各ジャーティごとに存在していました。

しかし、ブッタはダルマを「すべての人に当てはまる人生の指針」として捉えていました。

アショーカ王はこのブッタの教えをもとに、ダルマをマウリヤ朝の国家理念に採用しました。

まあ要は・・・

アショーカ王
アショーカ王

みんな欲にまみれず、正しい行いをして生活していきましょう。

という感じでしょうか。

これをもとにマウリヤ朝各地には民衆を教化するため勅令を刻ませた石柱が数多く残っています

マウリヤ朝の石柱碑地図
アショーカ王石柱頭部のライオン 出典:『詳説世界史探究』山川出版社
②仏典の結集
グシャケン
グシャケン

石碑の中央にある花柄は「法輪」と呼ばれ、現在のインド国旗にも採用されているんですよ。

インド国旗

ブッタの死後(前500年頃)、仏教団の中ではブッタの教えについて意見の違いがみられるようになっていました。

なので正しく仏教を伝えられるように、説法を整理して統一しようとしました。

このような動きを仏典の結集(けつじゅう)といいます。

グシャケン
グシャケン

結集(けつじゅう)」という読み方には注意してくださいね。

この仏典に結集は全部で4回おこなわれました。

仏典の結集

第1回・・・ブッタ死後の翌年。

第2回・・・第1回から約100年後。

第3回・・・マウリヤ朝アショーカ王の治世。

第4回・・・クシャーナ朝カニシカ王の治世。

第1回と2回は教団の長老たちによって編纂されましたが、第3回ではじめて国家事業としておこわれた点で、アショーカ王は仏教徒から「仏教史の中で理想的な王」として評価されています。

ダルマ、仏典の結集
③仏教の布教

アショーカは仏教の考えを広める布教活動にも熱を入れていました。

自らの王子を南島のスリランカに派遣して仏教を布教させたり、現在のミャンマーに位置するビルマにも布教をおこないました。

これらの地域に布教された仏教は後の上座部仏教のもととなり、東南アジアへの仏教発展に強い影響を与えています。

上座部仏教・・・小乗仏教ともいう。伝統的な出家(修行)で自己救済しようとする宗派。主に南アジア、東南アジアに布教。

大乗仏教・・・大衆を救済しようとする宗派。民衆の信仰を重視。上座部の後に誕生し、主に東アジアに布教。

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王朝の衰退

アショーカ王は仏教の教えに沿って、国内に道路を造り、井戸や病院、薬草園を造るなどのインフラを整えて、国民のQOLが向上する政策をおこないました。

QOL・・・Quality of Life(クオリティ・オブ・ライフ)の略。生きがいや満足度などの「生活の質」。

しかし、度重なる外征や軍隊や官僚組織の維持費が次第に財政難を招いてしまいます。

加えて仏教を保護したことによってバラモン階級からの反発もうけたことにより、統治も不安定になっていきました。

アショーカ王の死後、これらの要因によってマウリヤ朝は衰退していくことになります。

マウリヤ朝の衰退
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まとめ

MQ:南アジア初の統一王朝で仏教はどんな発展を遂げたのか?

A:アショーカ王が帰依したことで保護され、ダルマの施行や仏典の結集、各地にそれを伝える石柱を建てるなど、国家事業と共に仏教が広がっていき発展を遂げていった。

グシャケン
グシャケン

今回はこのような内容でした。

次回は、衰退したマウリヤ朝に代わって新たな王朝が誕生し、仏教の発展が新たな段階に入っていきます。

それではお楽しみに!

今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!

「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク

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