世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。復習や予習の際に使いやすい内容になっています。「問い」の設定や記事の最後には使用したパワポもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!※あくまで1例なので、「MQ」や「SQ」、スライド等は自由にアレンジしてください。
はじめに
前回はこのような内容でした。
今回はフィリッポス2世の後を継いだアレクサンドロス大王が世界帝国を打ち建ててヘレニズム時代を築く過程をみていきます。
ヘレニズム時代とは何でどんな意義があったのでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:アレクサンドロス大王が与えた影響とは?
今回の時代はここ!
アレクサンドロス大王の東方遠征
東方遠征とは?
フィリッポス2世暗殺後、後を継いでマケドニアを率いたのがアレクサンドロス3世(のちアレクサンドロス大王)でした。
※以後「アレクサンドロス大王」と表記
アレクサンドロス大王は若干20歳にしてコリントス同盟の盟主であるマケドニアの王座に就きました。
要はギリシアを支配する王に20歳で就任したわけです。私が20歳だった頃を思い出すと考えられないですね。(笑)
そして彼は、ギリシア人同士の闘争によく干渉していたアケメネス朝ペルシアを征服しようとする計画を立てます。
そして前334年に、アレクサンドロス大王は過去のギリシア侵攻への復讐という大義名分を掲げて、ギリシア連合軍を率いてアケメネス朝ペルシアに進軍しました。
これを東方遠征といいます。
SQ:なぜ東方遠征をおこなったのか?
東方遠征の理由には、表立ってはペルシア戦争のリベンジ、アレクサンドロス大王の領土拡大の野望などがよく言われますが、果たしてそうだったのでしょうか?
アレクサンドロス大王自身は、
この東方遠征は、自由なギリシアが、僭主や外国の王に支配されて奴隷のような状況にあるアジアの人々を解放するための戦いである!
と語っていました。
しかしその背景には、、、当時はギリシア人同士の長い戦争でポリス社会に人口減少や市民団の喪失などの変化が起きていましたよね。
なので中には、
昔にように安心して暮らせる場所(ポリス)が無くなってしまったから、統治者がどうにかしてくれ!
という声があってもおかしくなさそうですよね。
なので、ポリス社会を失ったギリシア人たちの不満と不安を解消する手段が求められて、そのはけ口として東方遠征をおこなったのではないかといわれています。
国民の不満や怒りが国内に向けられた際に、国民の注目を国外にそらす方法は近現代でも使われる政治手段ですね。
まあ、もちろんペルシア戦争の復讐という大義名分もあったでしょうけどね。これはあくまで一説ですので、ご注意を。
東方遠征の経過
対アケメネス朝ペルシア
そうして6万を超える軍を率いてアレクサンドロス大王はアケメネス朝に向けて進軍します。
そして当時のアケメネス朝の王ダレイオス3世と直接対峙したのがイッソスの戦いでした。
この戦いでは、数で不利でだったマケドニア軍でしたが、狭い場所でペルシア軍の騎馬が展開できなかったのと、アレクサンドロス大王自身がおとりとなって敵軍に隙を作って本陣に突撃する活躍などもあって、ペルシア軍は総崩れとなってしまいます。
大将のダレイオス3世はいち早く逃亡してしまったため、イッソスの戦いはマケドニア軍の勝利となりました。
ちなみにダレイオス3世は自分の妻や子どもを置き去りにして逃げたため、妻子たちはアレクサンドロス大王の捕虜となって丁重に扱われたそうです。ダレイオス3世は夫よりも王の立場を優先したということですね。
あと大量の豪華な金品なども手に入って、マケドニア軍は財政難をそれで克服したそうですよ。
その後、オリエントの地盤を固めるために、地中海のフェニキア人を苦戦したのち屈服させ、エジプトに関しては無抵抗で征服することにも成功します。
エジプトにて自らの名前を付けたアレクサンドリアという都市の建設を命じたのち、アレクサンドロス大王はアケメネス朝との決戦であるアルベラの戦いに挑みます。
アルベラの戦いでは、マケドニア軍の斜線陣によって再びペルシア軍を破り、ダレイオス3世はまたもや逃亡する羽目になってしまいました。
アレクサンドロス大王率いるマケドニア軍は、前330年に首都ペルセポリスの王宮を破壊し、ダレイオス3世も部下に殺害されてことで、名実ともにここにアケメネス朝ペルシアは滅亡してしまいました。
対インド
アケメネス朝ペルシアの支配を達成した後、目的を達成したコリントス同盟は解散となりました。
しかし、アレクサンドロス大王は遠征の歩みを止めず、軍を再編成してイラン高原を転戦し、ソグディアナも支配下に入れて、マケドニアは拡大していきました。
前327年にはカイバル峠を超えてインドへも侵入し、その領土は西北インドにまで達しました。
しかし、長い遠征による疲労で軍の士気は下がっており、インドのマガダ国の強い抵抗もあって、ここでようやく進行を断念してスサ(元アケメネス朝ペルシアの都)まで退却することになります。
東方遠征長い道のりでしたね。(笑)
この東方遠征は約7年にもおよんだので、そりゃ疲れますよね。
アレクサンドロス大王の統治
SQ:なぜ各地の統治体制をそのまま受け継いだのか?
アレクサンドロス大王はアケメネス朝を滅ぼした後、側近にペルシア人を積極的に起用して、アケメネス朝の統治体制をそのまま受け継いで自らもペルシア王を名乗りました。
エジプトでも自らファラオを名乗って統治してたんですよ。
本来ならマケドニアでのやり方をする流れですが、なぜアレクサンドロス大王は各地の統治体制をそのまま受け継いだのでしょう?
もし「明日からアメリカや中国のやり方で政治をしていく!それに従え!」と政府から言われたらどう感じますか?
正直、良くわからないですが、なんとなくいやです。
そうですよね。やり方がかわると生活もかわるので、おそらく慣れなくて過ごしにくく感じると思います。
アケメネス朝やエジプトは征服された身です。そこの国民が素直に他国のやり方を受け入れるとは考えずらいですよね。おそらく反乱が起きるでしょう。
なのでアレクサンドロス大王は征服地の統治が上手くいくように各国の宗教儀礼を通して民衆に「統治者」として認めてもらおうとしたのです。
そのためには体制を維持して自らもそこの統治者を引き継ぐ必要がありました。
そのほうが民衆は統治者が変わっただけでそれ以外は変わりなく過ごせますから、問題なしということになります。
このような理由からアレクサンドロス大王は各地で「王」や「ファラオ」となって統治したと考えられます。
「大王」と名付けられたのも、各国のアレクサンドロスに対する忖度によって神格化されたためです。
まあ、大帝国を築いた人物とは良好な関係を築いておくのが無難ですからね。
アレクサンドロス大王は各地の統治を引き継ぐ形をとりましたが、当然これに対して批判的な立場をとる人々もいました。
ペルシア人を側近に採用するアレクサンドロス大王に対して部下の部将が暗殺未遂をするという事件が起きたり、ペルシアの儀礼作法をマケドニアなどのギリシアにも導入しようとして反発を買って断念したりと、反発する動きがたびたび起こったりもしました。
大王の死とディアドコイ戦争
アレクサンドロス大王の死
反感を買いながらも若くして大帝国を築いたアレクサンドロス大王でしたが、前323年にバビロンにて32歳の若さで急死してしまいます。
人生も帝国もこれからというところで無念だったことでしょう。
そして問題だったのが、32歳という若さで亡くなったので、「遺言」がなかったんです。加えて後継者もアレクサンドロス大王にはいなかったんです。
部下たちはこれは困ったということで、異母兄弟を後継者として即位させて、側近に摂政を付けることで体制を再度整えようとしました。
摂政・・・君主が幼少や病気で政務を行えない場合に、代理に政務をおこなう役職
ディアドコイ戦争
後継者を置いてひと段落したマケドニアでしたが、有力な将軍たちで総督領を分け合うことになった後に問題が起こってしまいます。
それぞれの将軍が「後継者(ディアドコイ)」を主張して争い始めたんです。
そりゃ大帝国を引き継げるなら最高の名誉ですからね。
このディアドコイ戦争は、最終的には大きな3つの国に分裂して覇権を争いました。
・アンティゴノス朝マケドニア
・セレウコス朝シリア
・プトレマイオス朝エジプト
これらディアドコイ戦争は約50年もの間、展開することとなりました。
ヘレニズム時代
アレクサンドロス大王の東方遠征からディアドコイ諸国がローマによって滅ぼされる(最後はプトレマイオス朝エジプト)までの約300年間をヘレニズム時代といいます。
アレクサンドロス大王の東方遠征(前334)~プトレマイオス朝エジプトの滅亡(前30)
この時代は、マケドニアの進出によってオリエントやその周辺にギリシア風の都市が多数建設されて、ギリシア文化が広がりました。
ギリシアでもアテネなどは学術の中心地として栄えていましたが、それも徐々にエジプトのアレクサンドリアに王立研究所(ムセイオン)が設立されて大図書館が建設されるなど、経済・文化ともに中心地となっていきました。
ヘレニズム諸国は最終的にはローマに支配されてしまうことになりますが、ギリシアやオリエントの文化は消えることなく、都市を基盤とした生活は引き継がれていきました。
まとめ
MQ:アレクサンドロス大王が与えた影響とは?
A:ギリシア文化を波及させてヘレニズム時代を築き、都市を基盤とする人々の生活が長期間に渡って続けられたこと。
今回はこのような内容でした。
次回はギリシアの生活と文化についてやっていきたいと思います。
それでは次回もお楽しみに!
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男・橋場 弦(2022)、『詳説世界史探究』、山川出版社
・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男(2017) 、『詳説世界史研究』、山川出版社
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