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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回は、アメリカ独立戦争についてです。なぜ北アメリカの13植民地は、イギリスから独立することになったんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:なぜ北アメリカの13植民地は、イギリスからの独立を決意したのか?
七年戦争後
緊張と不満の高まり
北アメリカのイギリス領だった13植民地は、もともとイギリス本国の重商主義体制のもとで発展していきましたよね。
しかし、イギリス本国は利益と産業を守るために、航海法を改正して、植民地の自由な貿易や工業の発展を制限していました。

例えば、植民地で採れる鉄鉱石は本国に輸出されて、加工された鉄製品を逆に植民地が購入するという構造が義務づけられていたんです。
そんな中、18世紀中頃に起こった七年戦争では、イギリスはフランスとの北アメリカの覇権争いに勝利して、カナダなどの広大な領土を獲得することになります。

しかし、この戦争の勝利の代償として抱えたのが、“巨額の財政赤字”でした。
イギリス本国は、この財政赤字を解決するために、植民地への課税を強化する政策を打ち出していくことになります。
なので、当然、本国からの課税強化に対して、不満が起きます。
加えて、本国は北アメリカ植民地で先住民との対立が絶えなかったことかから、植民地の西方拡大を制限する宣言を出します。

先住民と戦闘になると、財政を圧迫してしまいますからね。
本国としては、先住民との衝突を避けて、出費を削減しようとしましたが、発展のために新たな土地を求めていた植民地人にとっては、この政策は不満を溜めることになりました。
北アメリカ植民地では、フランスの脅威が去ったことで、統治が安定して経済も発展し、本国への依存度が下がっていたことで、

もう、本国の保護がなくてもやっていけるよね。
という意識が芽生え始めていました。
こうして、本国と植民地の間で政治的な溝ができ始めていきました。

植民地の反発
印紙法
そして、イギリス本国が財政難を克服するために、北アメリカの13植民地に対して、課したのが「印紙法」と呼ばれるものでした。
これは、新聞や広告、パンフレット、さらには大学の卒業証書など、あらゆる印刷物に本国で発行された印紙を貼ることを義務づける課税制度でした。
印紙・・・税金を納めた証として公文書や印刷物に貼る、政府発行のラベル
最高で10ポンドもの印紙税が課されて、大学の卒業証書にも2ポンドが課されることになりました。

当時の10ポンドは現在の日本円にすると25万〜30万円にもなるんですよ。
大学の卒業証書の2ポンドは、今で言えば5〜6万円にもなります。これじゃあ、教育を受けること自体が経済的に大きな負担になってしまいますね。
当然、この印紙法は北アメリカ植民地に大きな衝撃を与えることになりました。
特に言論・出版の自由を制限するとして、印刷業界から強い反発が起きました。
このような印紙法に対して、植民地側はあるスローガンを叫ぶようになります。
それが、
「代表なくして課税なし」
という言葉でした。
これは当時、植民地が本国の議会に議員を選出させることができなかったので、

こちらの意見も聞かずに政策を決定するのは正当ではない!
「代表なくして課税なし」
「代表なくして課税なし」というスローガンが誕生したんです。
このスローガンは瞬く間に植民地全体に広がっていき、印紙販売人を襲撃したり、印紙を焼き捨てたりするといった抗議運動が起きて、イギリス製品のボイコット運動までに発展していきました。

抗議運動では、印紙販売人を街中でつるし上げたり、国王の銅像を倒したりしていたそうですよ。

本国に抗議するために、植民地側は13植民地の代表を集めて、印紙法の撤廃を本国政府に要求します。
このような植民地側の抗議によって、本国側も渋々、印紙法を撤廃せざるを得なくなりました。

茶法とボストン茶会事件
しかし、それでもイギリス本国の財政難は解決されることはなく、その後に新たに制定されたのが「茶法」と呼ばれるものでした。
これは、13植民地に輸入する「茶」の販売権を東インド会社に独占させるというものでした。

イギリス文化の影響で、北アメリカ植民地でも「ティー(茶)」を飲む文化が根付いていました。
この「茶法」によって、もともと茶を販売していた植民地の商人たちは大きな打撃を受けました。
特に反発が激しかったのがマサチューセッツ植民地のボストンと呼ばれるところでした。
そして、この茶法に反対するボストンの住民が起こした事件が「ボストン茶会事件」と呼ばれるものでした。
これは、ボルトン住民のグループが先住民に変装して、ボストン港に停まっていた東インド会社の船に乗り込んで、積まれていた茶箱342箱を海に投げ捨てるという事件でした。

茶箱342箱は、当時で約18,000ポンドの価値があり、現在の日本円で約3,800万円相当もしたそうですよ。東インド会社からしたら大損害ですね。※2026年2月時点で1ポンド ≒ 210.55円を参考

事件の犯人は特定されず、植民地人たちが「ただの茶会を開いただけさ」と皮肉を込めて証言したことから「ボストン茶会事件(Boston Tea Party)」と名付けられたそうです。
この事件に激怒したイギリス本国は、ボストン港を封鎖するなどの強硬策をおこない、植民地の自治をさらに制限する法律を次々と制定していきました。
これにより、植民地側の反発は一層強まっていき、13植民地の連携が進んでいくことになりました。


アメリカ独立戦争の勃発
大陸会議と武力衝突
イギリス本国の強硬姿勢に対して、植民地側は13植民地の代表が集まって「第1回大陸会議」を開いて、対抗策を協議することになりました。
しかし、イギリス本国は13植民地側の要求を拒否してしまい、ついに軍事力で押さえつけようとして、軍を派遣する強硬策に出ます。
そして、イギリス軍が植民地軍と衝突したことで始まったのが、アメリカ独立戦争でした。

武力衝突が起きた後、植民地側ではフィラデルフィアで第2回大陸会議が開かれて、13植民地が協同してイギリス本国に対抗することが決定されます。

なかにはケベックやフロリダなど、大陸会議に参加しなかった植民地もありました。
そこでは、ヴァージニア出身のワシントンが植民地軍の総司令官に任命され、民兵たちで組織された植民地軍がイギリス軍と激突することになりました。

この戦いで植民地軍は勇敢に戦いましたが、弾薬不足やイギリス軍との組織力の差を見せつけられます。
植民地軍は後退を繰り返して劣勢に立たされ、圧倒的な軍事力を誇るイギリス軍が戦闘を優勢に進めていきました。

植民地側も独立よりも「本国との関係改善」を望む声も多かったので、一致団結できない状況が続きました。

独立の機運上昇『コモン=センス』
戦争が長引く中で、劣勢に立たされた植民地軍でしたが、1776年にある大きな転機が訪れます。
それが、イギリス出身の思想家ペインが著した『コモン=センス』という小さなパンフレットの出版でした。

この『コモン=センス』の出版によって、植民地では一気にイギリスからの独立の機運が高まっていくことになるんです。

SQ:なぜ『コモン=センス』は独立の機運を高めたのか?

では、なぜ独立の機運を高めることになったんでしょうか?
ペインは『コモン=センス』の中で、イギリスの王政を「論理的におかしいこと」として、13植民地がイギリスから独立することが「常識(コモン=センス)」であるという主張をしたんです。

ジョージ3世(イギリス国王)の臣民である限り自由は得られず、専制者の奴隷となるか、独立して自由を手にするかの二択である!
加えて、アメリカが独立することによって、イギリスなどの諸外国と対等な貿易が可能になり、それはアメリカにとってもイギリスにとっても利益になるとも説きました。
小さなパンフレットの内容は、前線で戦う植民地軍で読まれただけでなく、大陸会議の指導者たちにも大きな影響を与えて、10万部を超えるベストセラーとなりました。
『コモン=センス』は、植民地人に対して「イギリスから独立するための戦い」という戦う目的を明確にして、どちら側に付くか迷っていた人たちの背中を押す原動力になったんです。

ペインの主張は、ルソーの社会契約論やロックの自然権思想の影響を受けていて、植民地人に「自由で平等な共和国」という新たな国家を示しました。
こうして『コモン=センス』によって、植民地側全体が団結したことで、イギリスからの独立機運が高まっていったんです。

ペイン自身も独立戦争の前線に立って、最後まで戦闘の行方を追っていたそうですよ。
イギリス王政を非合理と批判し、独立こそが「常識」であると訴えることで、植民地人に戦う目的を明確に示し、自由で平等な共和国の姿を提示したため、独立の機運を高める原動力となった。

合衆国の誕生と独立戦争の展開
独立宣言
そして、1776年7月4日、13植民地の代表は再びフィラデルフィアに集まって、指導者のジェファソンらによって起草された「独立宣言」を採択します。


ジェファソンはたったの2週間で草案を書き上げたそうですよ。
そしてこの「独立宣言」の採択によって誕生したのが、新たな国家「アメリカ合衆国」でした。

正確には、独立宣言の翌年に名付けたそうです。
独立宣言の具体的な内容については、次回の授業でみていきましょうね。


※以後、「植民地」は「アメリカ」と表記
独立戦争の展開
独立戦争の初期は、軍事力で勝っていたイギリス軍が優勢でしたが、ここでアメリカ軍側に救世主たちが現れます。
ヨーロッパでイギリスのライバルだったフランスがアメリカ側で参戦してきたんです。

覇権争いに敗れて、勝機を伺っていたんですね。
ちなみにこの時のフランス王はブルボン朝のルイ16世でした。
続いてスペインも加わり、さらにロシアなどがイギリスを孤立させるために「武装中立同盟」を結成して、イギリス海軍の行動を制限しようとしました。

この武装中立同盟とは、エカチェリーナ2世が提唱したもので、中立の立場で軍事力によって、自国の貿易利益を守るための同盟でした。
でも実際は、イギリス軍による対アメリカ海上封鎖の邪魔をする目的で結成されていました。スウェーデン、デンマーク、プロイセン、ポルトガルなどが参加していました。

他にもフランスのラ=ファイエットやポーランドのコシューシコなど、後に自国で革命運動をした人たちも、専制政治を打倒するために義勇兵として参加していました。

ラ=ファイエットはフランスの貴族出身で、後にフランス革命が起きた先に、「人権宣言」を起草した人物なんです。
コシューシコに関しては[11-5.1]ポーランド、スウェーデンをご覧ください。


このように、イギリスの覇権を崩したい国や人たちの援軍や支援を受けたことによって、アメリカ軍は、次第に形勢を逆転していき、イギリス軍に対して有利に戦闘を進めていきました。
そして、最終決戦となったヨークタウンの戦いでアメリカ・フランス連合軍がイギリス軍に勝利したことで、イギリスはついに戦争を終わらせることを決意することになったんです。
両軍の間でパリ条約が結ばれて、アメリカ合衆国は正式に独立が承認されることになりますた。
おまけにミシシッピ川以東の広大な領土がアメリカ合衆国に譲渡されることになり、アメリカ合衆国は国際的に認めらえた国家として、北アメリカに成立することになりました。


まとめ
MQ:なぜ北アメリカの13植民地は、イギリスからの独立を決意したのか?
A:七年戦争後にイギリス本国からの課税強化や拡大の制限などに不満を募らせ、反発を強めた。本国の強硬策によって植民地の連携が進み、『コモン=センス』が独立の正当性を訴えたことで、自由と自治を求めてイギリスからの独立を決意するに至った。

今回はこのような内容でした。

次回は、アメリカ独立の影響と合衆国憲法についてです。独立直後のアメリカと現在とではどのような共通点と違いがあったんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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