[11-5.4]プロイセンとオーストリア②(オーストリア継承戦争と七年戦争)

11-5.北欧、東欧

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はじめに

グシャケン
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前回はこのような内容でした。

グシャケン
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今回はプロイセンとオーストリアの2回目としてオーストリア継承戦争と七年戦争をみていきます。プロイセンとオーストリアはどのような関係を作っていったんでしょうか?

それでは一緒にみていきましょう!

MQ:プロイセンとオーストリアの関係は、どのように変化していったのか?

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オーストリア継承戦争

マリア=テレジアの登場

18世紀前半、東欧の大国だったオーストリアのハプスブルク家に大きな変化が訪れます。

神聖ローマ皇帝を兼任していたカール6世が亡くなってしまいますが、彼には男子の後継者がいませんでした。

なので、そこで後継者として選ばれたのが、娘のマリア=テレジアという人物でした。

マリア=テレジア

本来、神聖ローマ帝国は女帝は認められていなかったんですが、ハプスブルグ家では男子の後継者が途絶えた時は女子の後継を認めていました。

なので、前皇帝だったカール6世生前に「王位継承法」を出して、マリア=テレジアがハプスブルグ家を継ぐことに対して、各国に同意を取りつけていたんです。

グシャケン
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しかし、これが継承戦争のきっかけとなってしまうんです。

マリア=テレジアの王位継承

継承戦争の勃発

一度は各国、マリア=テレジアが継承することを認めますが、皇帝のカール6世が死去すると、状況が一変してしまいます。

当時、プロイセン王だったフリードリヒ2世(大王)が、マリア=テレジアの継承を認める条件として、資源豊かなシュレジエン地方の割譲を要求してきたんです。

フリードリヒ2世
グシャケン
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フリードリヒ2世はプロイセンの領土拡大に大いに貢献したので「大王」と呼ばれています。

オーストリアがこのプロイセンからの要求を拒否したことで、プロイセンはシュレジエン地方に軍隊を派遣します。

こうして、マリア=テレジアの王位継承を発端として始まったのがオーストリア継承戦争でした。

オーストリア継承戦争 プロイセン王フリードリヒ2世 シュレジエン地方に要求
シュレジエン地方

SQ:なぜフリードリヒ2世は、他国の王位継承に異議を唱えることで、自国の領土拡大を図ったのか?

グシャケン
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ではなぜフリードリヒ2世は他国の王位継承に異を唱えて領土を要求したりしたんでしょうか?

これにはフリードリヒ2世の戦略があったんです。

①プロイセンの地位向上を狙っていた

当時のプロイセンは、まだヨーロッパの中では「新興国」の扱いでした。

しかし、父フリードリヒ=ヴィルヘルムのもとで整備された強力な軍隊と健全な財政を引き継いだフリードリヒ2世は、マリア=テレジアが王位継承する際に、

フリードリヒ2世
フリードリヒ2世

今こそ我が国の地位を高めるチャンスだ!

と考えて領土を拡大しようとしたんです。

②シュレジェンは“おいしい”領土だった

要求したシュレジェン地方は、石炭などの鉱産物が豊富で、工業が盛んな地域でした。

なので、その分人口も多く、税収も豊かな地域だったんです。

グシャケン
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シュレジエン地方を手に入れるだけで、莫大な税収(現在価値で約160億円)と150万人の人口、そして国土も1.3倍に拡大するなどの効果が期待されていました。

なので、この地域を手に入れれば、プロイセンの経済力と軍事力は飛躍的に高まることになったんです。

③「継承の正当性」を口実にできた

そして、フリードリヒ2世は、マリア=テレジアの継承に異議を唱えることで、「正義の戦い」として自国の侵攻を正当化しようとしました。

つまり、フリードリヒ2世は「王位継承の混乱」を、領土拡大戦争の“合法的な入口”にしたんです。

要は、「奪う価値のある宝石」であるシュレジエンを獲得するために、マリア=テレジアの継承を「攻める口実」にしたわけなんです。

SQ:なぜフリードリヒ2世は、他国の王位継承に異議を唱えることで、自国の領土拡大を図ったのか?

プロイセンの地位向上と経済・軍事力の強化を狙い、資源豊富なシュレジエンを獲得するために、マリア=テレジアの王位継承に異議を唱えることで戦争を正当化し、領土拡大の口実とした。

なぜフリードリヒ2世は、他国の王位継承に異議を唱えることで、自国の領土拡大を図ったのか?

経過と終結

フリードリヒ2世率いるプロイセン軍はオーストリア領のシュレジエン地方に侵攻して、主要な都市を占領してしまいます。

しかも、このタイミングを狙ったかのように、ライバルのフランスもオーストリア領に侵攻してきたんです。

これによってオーストリアは劣勢に立たされてしまいます。

グシャケン
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この間に、ハプスブルグ家以外のドイツ人が神聖ローマ皇帝に就任したことで、300年続いたハプスブルク家の皇帝位が一時的に途絶えるという歴史的転換も起こりました。

ちなみにオーストリアもイギリス(フランスのライバル)やロシア(プロイセンを警戒)を味方につけて戦いました。

しかし、プロイセンはカトリックが多い地域では住民の支持を得られず、苦戦を強いられて失速してしまいます。

その後、プロイセン軍とオーストリア軍の攻防が続きプロイセン軍が最終的に勝利したところで講和条約が結ばれ、オーストリア継承戦争は終結することになりました。

講和条約では、マリア=テレジアの王位継承が認められましたが、シュレジエン地方はプロイセンが獲得することになり、プロイセンが領土を大きく拡大させることになりました。

グシャケン
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ちなみにマリア=テレジアはハプスブルグ家の当主を継承しただけで、神聖ローマ皇帝にはなっていないので、そこは注意しておきましょう。継承戦争後、神聖ローマ皇帝には夫のフランツ1世が付いたそうです。

オーストリア継承戦争 経過と終結
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七年戦争

外交革命

オーストリア継承戦争によってシュレジエン地方を奪われてしまったマリア=テレジアは、数年後に大胆な外交をおこないます。

オーストリア継承戦争では、フランスがプロイセンを支援して、イギリスがオーストリアを後押しするという構図で戦っていました。

しかし、イギリスはフランスとの植民地戦争を優先して、軍事的な支援には消極的だったので、マリア=テレジアはイギリスに不信感を募らせていました。

そこで目を付けたのが、イタリア戦争以来、200年以上にわたって激しく対立していたフランスだったんです。

オーストリアは強大化したプロイセンに勝つためには、遠い島国のイギリスよりも陸続きのフランスと手を組んだほうが有利だと考えていました。

フランスはもとからプロイセンを支援していましたが、プロテスタントだったプロイセンとは宗教的距離があり、急速な領土拡大にはフランスも脅威を感じていました。

なので、フランスも伝統あるカトリックのオーストリアと組む方が得策だと判断したわけです。

よって、ここに長年対立していたオーストリアとフランスの同盟が成立することになりました。

このヨーロッパの覇権を争ってきたハプスブルグ家とフランス王家が同盟した出来事は「外交革命と呼ばれました。

外交革命

勃発

こうしたオーストリアの外交革命によって、ヨーロッパの国際政治は、「イギリス・プロイセンVSフランス・オーストリア」という大きな2つの対立構図を生むことになりました。

オーストリアはフランスに加えてロシアとも同盟を結んだことで、プロイセンを同盟国で包囲してしまいます。

一方、プロイセンも「敵の敵は味方」理論でイギリスと同盟を結びますが、イギリスは植民地戦争に集中していて、ヨーロッパ大陸に兵を送るほどの余裕ありませんでした。

なので、プロイセンは実質的に孤軍奮闘を強いられることになりました。

劣勢に立たされたプロイセンは有利に立つために、オーストリア領に侵攻して先制攻撃を仕掛けます。

こうして、「イギリス・プロイセンVSフランス・オーストリア」の構図で始まったのが、七年戦争です。

グシャケン
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1756~63年の7年間続いたことから七年戦争と呼ばれています。そのままですね。

七年戦争の勃発

プロイセンはオーストリア・フランス・ロシアという強大な敵に囲まれて苦戦を強いられ、一時は首都のベルリンを占領されるほどの危機に陥ります。

しかし、ここでロシア皇帝となったピョートル3世がフリードリヒ2世の熱烈な支持者だったので、ロシアが戦線を離脱することになります。

そしてフランスもイギリスとの植民地戦争に敗れたことで戦意を喪失してしまい、ここからプロイセンが息を吹き返していくことになります。

圧倒的な劣勢で始まったプロイセンでしたが、最終的にはプロイセンが勝利して、有利な条件で講和条約を結ぶことになりました。

グシャケン
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ユンカー(領主貴族)との連携や戦術など、フリードリヒ2世の手腕がすごかったそうですよ。

七年戦争の経過と終結

●もうひとつの七年戦争

・イギリスとフランスの植民地獲得戦争

この戦争は、ヨーロッパの戦場だけでなく、イギリスとフランスが世界各地で戦った戦争でもありました。

北米では「フレンチ=インディアン戦争」、インドでは「プラッシーの戦い」や「第三次カーナティック戦争」として展開されて、まさに18世紀の「グローバル戦争」だったんです。

・スウェーデンの「ジャガイモ戦争」

ちなみに、スウェーデンではこの戦争を「ジャガイモ戦争」と呼んでいるんです。

それは出兵した兵士たちが帰国後にジャガイモを持ち帰り、主食として広まったからだそうです。

グシャケン
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戦争の副産物が食文化を変えるなんて、面白いですね。

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その後のプロイセンとオーストリア

・プロイセン

講和条約(パリ条約など)では、プロイセンはシュレジエン地方の領有が再確認されました。

加えてその後、ポーランド分割もおこなったことでさらに領土を拡大して、ヨーロッパの“新興国”から“大国”として地位を確立させていくことになりました。

・オーストリア

一方、敗北を喫したオーストリアでは、マリア=テレジアがプロイセンにリベンジを果たすために、国内の財政、軍制、教育などの改革を推進して、国力を増強しようとしました。

これらマリア=テレジアなどの改革によって、オーストリアはそれ以降もヨーロッパの大国としての地位を維持していくことになりました。

グシャケン
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その中で、フランスとの連携を深めるために、ブルボン王家に嫁いでいったのが、フランス革命で登場するあのマリ=アントワネットでした。

七年戦争後のプロイセンとオーストリア
18世紀半ばのプロイセンとオーストリアの勢力図
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まとめ

MQ:プロイセンとオーストリアの関係は、どのように変化していったのか?

A:オーストリア継承戦争では、プロイセンがマリア=テレジアの継承に異議を唱え、シュレジエンを奪取し、続く七年戦争では両国が再び衝突し、プロイセンが勝利して大国化を果たした。一方、オーストリアは改革を進めて国力を回復し、両国は拮抗する強国として並び立つようになった。

グシャケン
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今回はこのような内容でした。

次回は、啓蒙専制主義についてみていきます。啓蒙専制主義とはどんな思想でどのような特徴があったんでしょうか?

それでは次回もお楽しみに!

「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク

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