[11-5.5]啓蒙専制主義

11-5.北欧、東欧

この記事で使用したPowerPointスライドは「note(グシャケン|note)」にてダウンロード可能です。PowerPointスライドやWordプリントのダウンロードは記事の最後に貼ってあるURLから!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!

広告

はじめに

グシャケン
グシャケン

前回はこのような内容でした。

グシャケン
グシャケン

今回は啓蒙専制主義についてです。東欧の君主たちは「啓蒙思想」を取り入れながらも、絶対王政を維持し続けたんでしょうか?

それでは一緒にみていきましょう!

MQ:なぜ東欧の君主たちは「啓蒙思想」を取り入れながらも、絶対王政を維持し続けたのか?

広告

啓蒙専制主義とは?

東欧で大国となったプロイセンやロシア、オーストリアでは、啓蒙専制主義(けいもうせんせいしゅぎ)と呼ばれる統治体制によって、さまざまな改革がおこなわれました。

啓蒙専制主義とは、主に18世紀のヨーロッパで見られた政治体制のひとつで、啓蒙思想の影響を受けた君主が、絶対王政を維持しつつも、合理的な改革を進めようとしたものでした。

グシャケン
グシャケン

と、言われてもよくわからないですよね。

なので、まずは「啓蒙思想」とは何なのか?そして啓蒙専制主義の特徴についてみていきましょう。

啓蒙専制主義

「啓蒙思想」とは?

啓蒙思想の「啓蒙」とは、「蒙(くらき)を啓(ひら)くこと」という意味からきています。

つまり「啓蒙思想」とは、無知や偏見にとらわれた人たちに「正しい知識」を授けることで、物事を感情ではなく、頭でじっくり考えて世界を理解させようとすることなんです。

グシャケン
グシャケン

例えば、「なぜ空は青いのか?」と疑問に思ったときに、「なんとなくそう感じるから」ではなく、「光の散乱という現象が関係している」みたいに合理的に理解しようとすることです。

啓蒙思想は18世紀のフランスから始まりました。

ヨーロッパでは封建社会とキリスト教の世界観によって、 人々が長い間、「聖書や神の意志」や「伝統」に従って生きることが当然の社会になっていました。

しかし、ヨーロッパ以外の地域との交流が進み、科学などの技術発展によって知見が広がって、「本当にそれであってるの?」という疑問が芽生え始めて、啓蒙思想というものが誕生しました。

グシャケン
グシャケン

啓蒙思想や具体的な人物については、また別の授業で詳しく扱っていきますね。

啓蒙思想

啓蒙専制主義とは?

SQ:啓蒙専制主義の特徴とは?

そして、この「啓蒙思想」を取り入れて、国家を統治しようとしたのが東欧の君主たちでした。

君主はこの啓蒙思想の一部を取り入れて、

君主
君主

宗教観や感情ではなく、合理的に国家を運営して富国強兵を目指すぞ!

と、富国強兵のために「感情ではなく理屈での統治」を掲げたんです。

グシャケン
グシャケン

要は、効率よく富国強兵を進めるために、啓蒙思想を取り入れたんです。

君主が啓蒙思想を取り入れたことでおこなわれた改革は以下の通りです。

・君主が「理屈(理性)」に基づいて国家を改革

・初等教育の拡充

・死刑・拷問などの廃止

・宗教的寛容

・経済振興(農業・商工業の奨励)

東欧の君主たちは、このように「人民の幸福」を上げて生活を豊かにさせることで、国家が強くなると信じて改革をおこなっていきました。

グシャケン
グシャケン

生活が豊かになれば人口が増えて、税収も増え、経済力や軍事力を強化できますからね。

啓蒙専制主義の特徴とは?

しかし、政治的な主導権は市民ではなく、あくまで君主にある「上からの改革」でした。

なので実際には、それまでの「王権神授説」に代わる絶対王政による支配を正当化するための理論として「啓蒙思想」が使われることになってしまったんです。

グシャケン
グシャケン

君主による「上からの改革」なので、身分制なども問題も解決されずに残ることになりました。

結果、啓蒙思想を使って、君主が権力を維持・強化しようとする啓蒙専制主義が誕生することになったんです。

SQ:啓蒙専制主義の特徴とは?

「啓蒙思想」を取り入れて君主が理性に基づく改革を進めた「上からの改革」であり、「人民の幸福」を上げる政策などを行いながらも、政治の主導権は市民ではなく君主にあり、身分制度などの旧体制は維持されたこと。

啓蒙専制主義の特徴とは?
グシャケン
グシャケン

ではここからは、プロイセン、オーストリア、ロシアそれぞれの啓蒙専制主義について詳しくみていきましょう。

広告

プロイセン:フリードリヒ2世

「国家第一の僕」

プロイセンの2代目国王のフリードリヒ2世は、オーストリア継承戦争や七年戦争を勝ち抜いて、プロイセンを大国へと押し上げた敏腕君主でした。

フリードリヒ2世

そんなフリードリヒ2世は、自らを「国家第一の僕(しもべ)」と名乗り、啓蒙専制主義を実践した象徴的な存在でした。

グシャケン
グシャケン

自らを「国家第一の僕」と名乗ったのは、王権は神から授かったものではなく、国家と国民のために奉仕する存在であるべきで、個人の栄光ではなく、公共の利益を優先すべきだと考えていたからなんです。

この考えに基づいて、フリードリヒ2世は以下のような改革をおこないました。

・宗教的寛容の推進:カトリックやプロテスタント、ユダヤ教徒の共存を認める政策を実施。

・法制度の整備と拷問の廃止:合理的な法体系を整え、人道的な司法を目指した。

・農業改革と移民政策:荒地の開墾や移民の受け入れによって人口増加と経済活性化を図った。

・文化振興:首都ベルリンでアカデミーの復興、思想家ヴォルテールや音楽家バッハらを招いて、詩作やフルート演奏など、芸術と学問を重視。

フリードリヒ2世の啓蒙専制主義

サンスーシ宮殿(ロココ様式)

18世紀のヨーロッパでは、絶対王政を象徴する豪華絢爛ごうかけんらんなバロック様式の反動から、繊細で優美な表現を特徴とする新しいロココ様式が出てきていました。

フランスで生まれたロココ様式は、その後、東欧に伝わってプロイセンやオーストリアで発展することになります。

そして、ロココ様式の建築として代表的なのが、フリードリヒ2世がベルリン郊外に建てたサンスーシ宮殿と呼ばれるものでした。

グシャケン
グシャケン

「サンスーシ」は「憂いなし」という意味があり、王が日々の激務から離れるために平穏を求めて建設した離宮でした。ここでフリードリヒ2世は思想家ヴォルテールと議論を交わし、音楽家のバッハなどを招いて自らフルートを奏でるなどして過ごしていたそうです。

現在は世界遺産にも登録されています。

このロココ様式のサンスーシ宮殿を中心に、フリードリヒ2世は文化振興をおこなって、ベルリンを文化都市として発展させていきました。

グシャケン
グシャケン

このような文化的側面から、彼は「哲人王」とも呼ばれているんですよ。

ロココ様式 サンスーシ宮殿
バロック様式(ヴェルサイユ宮殿)とロココ様式(サンスーシ宮殿)
サンスーシ宮殿でフルート演奏をしているフリードリヒ2世

農奴制とユンカー特権の維持

しかしその一方で、農奴制の承認やユンカー(領主貴族)の特権の維持など、社会構造の根本には手をつけず、プロイセンは封建的な体制に留まることになりました。

グシャケン
グシャケン

莫大な軍事費を補うためにはユンカーの協力が必要で、貴族の特権を認めないといけなかったんですよね。詳細については[11-5.3]プロイセンとオーストリア①(強大化)をご覧ください。

経済政策でも重商主義を採用していたので、国家主導の経済農奴制とユンカーに依存した支配を基礎とした体制を維持することになりました。

つまり、フリードリヒ2世は啓蒙思想を取り入れた典型的な啓蒙専制君主でしたが、旧体制を残しながらという、改革の限界もありました。

プロイセン 啓蒙専制主義の限界
広告

オーストリア:マリア=テレジア、ヨーゼフ2世

2人の改革

オーストリアでは、ハプスブルク家のマリア=テレジアとその息子ヨーゼフによって、国家の近代化を目指す一連の改革が進められました。

マリア=テレジア
ヨーゼフ2世

・マリア=テレジアの改革

マリア=テレジアは夫のフランツ1世の死後、息子ヨーゼフ2世を神聖ローマ皇帝にしつつ、共同統治をおこなっていました。

グシャケン
グシャケン

マリア=テレジアは、息子ヨーゼフ2世の「新しいものを取り入れる」性格に不安を感じ、さらに因縁の相手だったフリードリヒ2世の啓蒙思想に影響されていたのが嫌で実権を渡さなかったみたいです。

マリア=テレジアの時代は、オーストリア継承戦争や七年戦争でプロイセンに苦い思いをしていたので、打倒プロイセンに向けた改革をおこないました。

・税制の公平化・・・貴族にも課税を行い、財政の安定を図る

・官僚制度の整備・・・中央集権的な行政機構を構築

・初等教育の義務化・・・国民教育の普及を推進

マリア=テレジアの改革 ヨーゼフ2世との共同統治

・ヨーゼフ2世の改革

そして、統治の実権を完全には渡してくれなかった母マリア=テレジアが亡くなり、単独で統治することになったヨーゼフ2世は、啓蒙専制主義の理想に基づいて、急進的な改革をおこなっていきます。

グシャケン
グシャケン

彼はプロイセンのフリードリヒ2世の啓蒙思想を理想にしていたので、合理的に富国強兵を目指す統治をしようとしました。

・宗教寛容令・・・非カトリック教徒の信仰の自由を保障

・農奴解放令・・・農民の人格的自由を認め、自作農化を促進

・教会改革・・・修道院の解散して教会財産を国有化

・死刑や拷問の廃止・・・人道的な刑罰制度へ

・社会福祉の充実・・・貧民救済、学校・病院・共同墓地の建設

・言語統一令・・・ドイツ語を帝国内の公用語に

・商工業の保護政策

グシャケン
グシャケン

たしかにフリードリヒ2世におこなった政策と共通する部分が多いですね。

これらの改革を経て、オーストリアはヨーロッパ最大人口を誇るフランスと同じほどの人口を持つことになり、税収はプロイセンの2倍ヨーロッパ最大級の陸軍を持つなど、東欧の大国を維持・強化することに成功しました。

ヨーゼフ2世の改革 啓蒙専制主義

しかし、啓蒙専制主義の理想に従って政策をおこなったヨーゼフ2世でしたが、これらの改革はオーストリア各地で反発を生むことにもなってしまいました。

SQ:なぜヨーゼフ2世の改革は反発を招いたのか?

グシャケン
グシャケン

ではなぜ、ヨーゼフ2世の改革は反発を受けてしまったんでしょうか?

ヨーゼフ2世の改革は理屈と「人民の幸福」に基づく、当時としては先進的なものでしたが、急進的でどれも君主による「上からの改革」でした。

なので、さまざまな抵抗に直面することになったんです。

農奴解放によって貴族の経済基盤の破壊修道院の解散による教会の財産没収など、彼らの特権を脅かすような政策をおこなったために、社会の支配層たちから強い反発を受けてしまいました。

グシャケン
グシャケン

人道的な政策を急ぎ過ぎたようですね。

加えて、オーストリアは多くの民族が暮らす多民族国家だったので、言語統一などの統一的な政策は、支配化だったハンガリーやベーメン、南ネーデルラントなどの他言語地域で反感を招くことにもなりました。

こうして、ヨーゼフ2世は貴族や教会などの支配層を味方に付けることができなかったことで、改革を支える力が不足してしまい、結果として、ヨーゼフ2世の死後は多くの改革が撤回されることになってしまいました。

SQ:なぜヨーゼフ2世の改革は反発を招いたのか?

急進的かつ上からの押しつけであり、貴族や教会の特権を脅かした。また、多民族国家における統一政策は各地の反発を招き、支配層の支持を得ることができなかったため。

なぜヨーゼフ2世の改革は反発を招いたのか?

音楽の都ウィーン

しかし、オーストリアは多民族国家であったことから文化融合が起こり、ハプスブルグ家も芸術活動を支援していたことから、首都ウィーンは文化に繁栄した都市になりました。

マリア=テレジアやヨーゼフ2世も音楽好きだったことから、宮廷音楽が盛んに演奏されて、モーツァルトハイドンといった音楽家たちが活躍しました。

グシャケン
グシャケン

そうした文化的発展から、ウィーンは「音楽の都」と呼ばれるようになりました。

音楽の都ウィーン モーツァルト ハイドン
広告

ロシア:エカチェリーナ2世

ロシアのエカチェリーナ2世もまた、啓蒙思想に強い関心を持ち、啓蒙思想家たちと文通を交わして影響されていました。

エカチェリーナ2世

エカチェリーナ2世がおこなった改革は以下の通りです。

・地方行政制度の整備(県制の導入)

・医療・福祉制度の拡充

・文芸・教育の振興(ロシア初の女子教育機関の設立)

このように、エカチェリーナ2世も啓蒙思想に基づいて改革を進めましたが、コサックのプガチョフが農民反乱を起こしてしまい、それ以降は農奴制を強化することになり、貴族への依存を深めていく結果になりました。

グシャケン
グシャケン

理想と現実はうまくいかないもんですね。

エカチェリーナ2世の啓蒙専制主義
広告

東欧の啓蒙専制主義

啓蒙専制主義は、確かに教育や行政、文化の面で大きな成果を上げました。

プロイセンのベルリンやオーストリアのウィーン、ロシアのペテルブルクといった中心都市は、18世紀後半のヨーロッパ文化の中心地となっていきました。

グシャケン
グシャケン

しかし一方で、以下のような限界もありました。

啓蒙専制主義の限界

・「上からの改革」で君主の意志に依存するため、持続性に欠ける

・身分制度や農奴制など、社会の根本には手をつけなかった

・市民の政治参加は認められず、自由や平等は限定的だった

このように、啓蒙専制主義は制度や文化の面では近代化が進みましたが、政治的には依然として専制的な体制にとどまってしまいました。

こうして、市民革命を経た西欧諸国とは違い、東欧では「理屈で統治する専制」が続くことになっていったんです。

啓蒙専制主義の限界
広告

まとめ

MQ:なぜ東欧の君主たちは「啓蒙思想」を取り入れながらも、絶対王政を維持し続けたのか?

A:国家の富国強兵と統治の合理化を目指して啓蒙思想を取り入れたものの、政治的主導権は手放さず、改革はあくまで君主による「上からの改革」として進められた。そのため、市民の自由や平等の実現は限定的にとどまり、啓蒙思想は専制支配を正当化・強化する手段として利用されたにすぎなかった。

グシャケン
グシャケン

今回はこのような内容でした。

次回は、近世ヨーロッパで起こった科学革命についてです。科学革命はどんな要因で起こったんでしょうか?

それでは次回もお楽しみに!

「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク

PowerPointスライドは他の記事も合わせて「note」にてダウンロードし放題!ダウンロードは下のURLから!

グシャケン
グシャケン

このブログ「グシャの世界史探究授業」に関連するリンクを下にまとめました。気になるものがあれば、ぜひのぞいてみてくださいね。

YouTubeグシャの世界史探究授業 – YouTube

noteグシャの世界史探究授業 教材ダウンロード|グシャケン

Xグシャの世界史探究授業 (@s_w_history) / X

ポッドキャスト(Apple)[聞き流し]グシャの世界史探究授業 – ポッドキャスト – Apple Podcast

ポッドキャスト(Spotify)[聞き流し]グシャの世界史探究授業 | Podcast on Spotify

11-5.北欧、東欧
広告
シェアする
mk-historyをフォローする
広告

コメント

タイトルとURLをコピーしました