世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。復習や予習の際に使いやすい内容になっています。「問い」の設定や記事の最後には使用したパワポもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!※あくまで1例なので、「MQ」や「SQ」、スライド等は自由にアレンジしてください。
はじめに
前回はこのような内容でした。
今回はローマが地中海世界を征服するまでのお話です。ローマは広大な領土をどのように統治したのか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:ローマはどのようにして、広大な領土の統治に成功したのか?
今回の時代はここ!
イタリア半島統一
SQ:指導者はなぜ新領土獲得に積極的だったのか?
共和政のローマでは、指導者は常に新しい領土獲得に積極的でした。
新しい領土を獲得することで、指導者にとっては何がいいのでしょうか?
前回の[4-3.2]ローマ共和政②(身分闘争)を参考に考えてみてください。
ローマ共和政では、新しく手に入れた領土は市民(主に兵士)に分配されていましたよね。
そして共和政での指導者は、市民からの支持が必要不可欠です。
だって世論を味方につけていないと法案や政策がろくに通らないでしょうから。
なので、新しい領土の分配は市民の資産を増やすことになるので、獲得すればするほど指導者への支持に直結していくんです。
いつの時代も政治家は支持集めに敏感なんです。
ローマは平民(中小農民)で構成される重装歩兵を中心に、元老院の指示のもと、同じラテン人諸都市を征服していきました。
そして、エトルリア人やギリシア人などの異民族も征服していき、前3世期前半にはイタリア半島の統一を成し遂げます。
分割統治
SQ:分割統治の意図とは?
上記でもありましたが、ローマは獲得した領土を積極的にローマ市民に分配していましたね。
ギリシアは本国とは独立している植民市を各地に建設していましたが、ローマは市民に土地を与えて直接ローマの領土として吸収していったことろに特徴があります。
存続を許された都市でも、ローマは個別に同盟を結んで、各都市ごとに違う権利や義務を与えて統治していました。
この統治方法を分割統治といいます。
「分割して支配せよ。」が当時のローマの標語だったんですよ。
この分割統治にローマ繁栄の秘密がありました。
分割統治の分け方は以下の通りです。
「投票権のあるラテン市民権が与えられる都市」と「投票権がないローマ市民権を与えられる都市」に分けられる。
自治権はなし。
ローマに併合されて自治権を認められた都市。
市民権は一部認められ、自治権も外交・軍事・裁判以外が認められていた。
しかし、ここも「投票権のあるラテン市民権」を与えられた自治市と、「投票権のないローマ市民権」を与えられた自治市に分けられていた。
市民権と自治権のどちらも認められない都市。
外交も独自でおこなえず、徴兵も義務づけられていた。
ではなぜこのように各都市ごとに条件を変えたのでしょうか?
あなたがローマと同盟を結ぶ都市の代表だとしたら、どの条件がいいですか?
そしてそうなるために何をしますか?
やっぱり市民権や自治権はほしいです。
そうなるためにはローマに対してゴマすりや、それに見合う対価を渡すと思います。
なるほど。
「良い条件」を得るために“ローマに歩み寄る”ということですね。
この分割統治によって、ローマに支配された各都市は、みんな少しでも「良い条件」を得るためにローマに歩み寄って協力的な態度を取ったんです。
要は分割統治の意図とは、ローマに対して各都市が団結や反抗をするのを未然に防止するためだったのです。
都市Bの条件は良いな~(嫉妬心)
うちもそうなるためにローマに献身だ!
周囲には市民権だけじゃなくて投票権を持っている都市もある。
そうなるために、これからもローマとの関係をよくしていこう!
しめしめ。
これで都市同士がローマのために競い合って、反乱は起こるまい。
という感じですかね。
加えてローマはギリシアとは違って、比較的寛容に支配された人々にローマ市民権を与えて従わせていたことで、広い領土の統治に成功したといわれています。
ポエニ戦争
イタリア半島の統一を成し遂げたローマは地中海周辺にも進出していきました。
そこで、当時地中海の西方を支配し、制海権を握っていたフェニキア人植民市のカルタゴと衝突します。
ローマとカルタゴは3度にわたる大規模な衝突を起こし、これらをまとめてポエニ戦争と呼ばれています。
「ポエニ」はローマ人がカルタゴ人をそう呼称していたそうです。
第1回
ローマはイタリア半島を統一した後、豊かな穀倉地帯だったシチリア島に進出しようとします。
そのシチリア島がカルタゴの支配下であったことから第1回ポエニ戦争が勃発します。
この戦いでは、それまで海軍を持ったこともなかったローマが苦戦を強いられます。
フェニキア人たちはローマとは異なり、莫大な財力で強力な傭兵を雇って海上戦に不慣れなローマ軍を圧倒しました。
しかし、ローマは短期間で海軍を育成して、なんとカルタゴ軍を破ってローマが勝利しました。
これによってローマはシチリア島を獲得して、イタリア半島以外で初めての領土を手にしました。
この海外で支配した領土を属州と言い、ローマは元老院から総督を派遣して統治し、徴税を厳しく行うことで大きな利益を獲得することになりました。
第2回
シチリア島を奪われたカルタゴでしたが、ある人物の登場でローマを窮地に追い込みます。
その人物とはハンニバルというカルタゴ人で、将軍の父のもとイベリア半島のカルタゴ植民市であったヒスパニアで育った将軍でした。
ラテン語の「ヒスパニア」とは現在の英語読みにした「スペイン」のもとになった都市なんですよ。
このハンニバルがイベリア半島の支配を拡大して、ローマと衝突したことで始まったのが第2回ポエニ戦争でした。
ハンニバルはローマ軍の裏をかくために大胆な行動にでます。
イベリア半島とイタリア半島の間には、有名なアルプス山脈がそびえ立っていました。
ローマは、
まさかアルプス山脈を越えて進軍してくることはないだろう。
と予想していましたが、ハンニバルは大軍を率いて、このアルプス山脈を越えてローマに侵入したのです。
この「アルプス越え」は約15日間にも及び、その間に多くの兵士や馬、戦象を失ったといわれています。
無謀にもみえるこの作戦ですが、ハンニバルの断固とした態度が兵士たちの信頼を勝ち取って、その結果、兵士たちの団結を一層強固にしたと言われているんです。
アルプス越えを成功させたハンニバルは、周辺の都市を支配して反ローマ勢力を拡大させていきました。
これに対してローマは軍を差し向けましたが、ハンニバル軍の騎兵戦術によって大敗北を喫してしまいます。
ハンニバルのアルプス越えや戦術は後にフランスのナポレオンからも評価されたほどですからね。
ちなみに当時、元老院の中に逃走の準備をしていた人たちがいたぐらい、ローマは危機に陥ってしまいました。
大勝利したハンニバルでしたが、ローマへの進撃は避けて周辺の反ローマ包囲網を作ることに専念することにします。
ローマの抵抗もあって、ハンニバルはなんとその後14年間にわたってイタリア半島を転戦することとなりました。
タフですね。(笑)
そしてその後、ローマの起死回生を図って登場したのが、ローマ将軍のスキピオでした。
ちなみにスキピオは新貴族(ノビレス)出身の将軍でした。
スキピオはハンニバル軍との決戦を避けて、直接カルタゴを攻撃しようとアフリカ大陸に上陸します。
これによって裏をかかれたハンニバル軍は急遽カルタゴに戻ることになりました。
そしてカルタゴの郊外で両軍が向かいあって、おこなわれたのがザマの戦いでした。
この戦いでは、カルタゴ陸軍が傭兵だったことと、第1回ポエニ戦争で地中海の制海権を失っていたこと、スキピオの巧みな戦術などによって、ハンニバルは初めての敗戦を経験することになりました。
その後、カルタゴは講和条約によって海外領土をすべて放棄して、多額の賠償金を課せられて弱体化してしまいました。
ちなみにハンニバルは敗北後、親ローマ派に追われてる日々を送って逃亡先で自殺をしてその生涯を閉じました。
第3回
カルタゴは賠償金支払いを終えた後、勢力を盛り返します。
そして、カルタゴがローマの同盟国と争いを起した後に、ローマに対しても反乱を起こしたことで始まったのが第3回ポエニ戦争でした。
この戦いはローマ軍がカルタゴを包囲して、4年間にわたる戦いの末、カルタゴの城壁が破られてローマ軍が都市になだれ込み、都市は壊滅状態となってカルタゴは滅亡してしまいました。
地中海征服
カルタゴを滅亡させた後、ローマは地中海を制海権を手に入れて、そのままヘレニズム世界へも進出していきました。
はじめは、
マケドニアからギリシアの諸ポリスを解放するぞ!
という名目で政治介入していったのですが、次第に軍事的にも介入していき、マケドニアやギリシアを支配することになります。
このようにして、前2世紀半ばには地中海全域を制覇するまでにいたって、大国として地中海の覇権を握ることになりました。
ローマは拡大の中で、ディアドコイのアンティゴノス朝マケドニアやセレウコス朝シリアなどとも交戦していました。
SQ:なぜローマでは街道が整備されていたのか?
ローマではこのような国道がローマから地中海沿岸のブルンディシウムまで伸びていました。
なぜこのような国道が整備されたんでしょうか?
地中海征服のためにいろいろなモノやヒトを運ぶ必要があったからです!
その通りです。
戦争には大量のモノやヒトの運搬が必要になるので、それらをスムーズにおこなうためにこうした街道(国道)を建設したんです。
国道の整備については、アケメネス朝ペルシアでの「王の道」の建設などもありましたね。
世界のローマ帝国の基礎はこのように出来上がっていったんですね。
まとめ
MQ:ローマはどのようにして、広大な領土の統治に成功したのか?
A:支配した都市と個別で同盟を結ぶ分割統治をおこなったことで、都市同士の団結と反抗を予防し、比較的寛容にローマ市民権を与えたことで、広大な領土の統治に成功した。
今回はこのような内容でした。
次回は、大国となったローマでの社会変化を見ていきます。大国になると起こり得る問題がローマでも深刻になります。
いったいローマはどうなってしまったのか?
それでは次回もお楽しみに!
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男(2017) 、『詳説世界史研究』、山川出版社
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