世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。復習や予習の際に使いやすい内容になっています。「問い」の設定や記事の最後には使用したパワポもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!※あくまで1例なので、「MQ」や「SQ」、スライド等は自由にアレンジしてください。
はじめに
前回はこのような内容でした。
今回からローマ時代をみていきます。世界帝国を築いたローマですが、今回はローマ共和政が誕生するまでのお話です。
いったいローマ共和政はどのような経緯で誕生したんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:ローマ初期の共和政には、どのような特徴があったのか?
今回の時代はここ!
ローマ発祥の言葉
世界帝国であったローマは、その世界観や風習が現在でも慣用句や単語として残っています。
・All roads lead to Rome.
= すべての道はローマに通ずる。
・Rome was not built in a day.
= ローマは一日にして成らず。
・When in Rome do as the Romans do.
= 郷に入らば郷に従え。
・サラリーマン
「サラリーマン」の「サラリー」は英語の「salary」(給料)という単語から来ていて「給料をもらって働く人(労働者)」を意味しています。
英語の「salary」は、古代ローマ時代に兵士へ支払われた「塩」を指すラテン語の「salarium(サラリウム)」からきているんです。
当時、塩はお金と同じぐらい貴重なものだったんですね。
現代にもその影響が残る「ローマ」。その国家とはいったいどんなものだったのか?
都市国家ローマ
建設
時代は前1,000年ごろにまでさかのぼります。
その時代のイタリア半島では鉄器時代が始まりました。
ギリシアの暗黒時代(初期鉄器時代)と同じ時期ですね。おそらく交易によって鉄器が伝来したのでしょう。
その時期になると、北から古代イタリア人が南下してきて、そのうちのラテン人がティベル川のほとりに建設したのが、都市国家ローマでした。
エトルリア人の支配
しかし、そこには先住民がいました。
エトルリア地方に住んでいたエトルリア人です。
このエトルリア人は各地に先進的な都市国家を築いており、交通の要所だったローマはエトルリアの王によって支配されてしまいました。
SQ:なぜエトルリア人は繁栄していたのか?それによるローマへの影響とは?
エトルリアの貴族のお墓には、豪華な金属器や装飾品が発見されていて、その繁栄ぶりが明らかになっています。
ではなぜエトルリア人はそれほどまでに繁栄していたのか?
まず第一にエトルリアが鉱物資源に恵まれていたことです。
エトルリア地方では、鉄や錫(すず)が豊富に採れました。
そして第二にそれを目的にギリシア人が交易に訪れて文化交流がおこなわれたことです。
これによって、エトルリアはギリシア文化の影響をうけて繁栄したんです。
そのような中で、ローマもエトルリア王によって神殿や城壁備えた都市国家へと変貌(へんぼう)していきました。
ローマの独立後も、エトルリア人の建築や土木技術、役人の服装や剣闘競技などは引き継がれて、ローマ文化の基礎を担いました。
ローマ共和政
エトルリア王の追放
都市国家ローマが造られていく過程で、有力者たちは指導者層として統治に当たっていましたが、エトルリア人の専制的な政治に対して不満を募らせていきます。
そして前509年に、そうしたローマの有力者たちによってエトルリア王が追放されてしまい、ローマは王がいない共和政へと移行していきました。
貴族共和政
ローマはもともと建国時の有力者たちの子孫(貴族)たちによって、官職が独占されていました。
なので、共和政に移行してからもそれは変わらず、貴族共和政がおこなわれました。
ローマでは主に、建国時の功績者の子孫である貴族(パトリキ)と、中小農民や商工業者である平民(プレブス)とに身分が分かれていました。
ちなみに、「パトリキ」という言葉は、建国に貢献した「父たち」(パドレス)の子孫という意味で使われるようになったそうですよ。
この貴族と平民の間には絶対的な身分差があり、貴族は大規模な土地を世襲し、奴隷を所有するとともに、官職も独占するなどの特権を持っていました。
以下に貴族が独占していた官職を紹介します。
コンスル(執政官)
コンスル(執政官)とは、行政と軍事の権限を持っていた最高官職です。主に政治全般を担っていました。
任期は1年のみで、2名が貴族から選ばれて、お互いに拒否権を持つなどの特徴がありました。
なぜこのような条件だったのかわかりますか?
一人に権力が集中しないようにするためです!
そうですね。これらの条件はいずれも“独裁者”を生み出さないための工夫だったんです。
共和政らしいですね。
元老院
そしてコンスル(執政官)などの諮問機関(しもんきかん)として、おこなわれていた貴族会議が元老院と呼ばれるものです。
諮問機関・・・行政官庁の諮問(意見を求める)に応じて意見を述べる機関。
議員数は30歳以上の300人(もちろんみんな貴族です)でコンスル(執政官)への指導・助言や、時には牽制(けんせい)する立場として、国の最重要機関でした。
元老院は終身制(死ぬまで)だったので、1年で変わってしまうコンスルよりも経験豊富な議員ばかりだったので、次第にコンスルよりも信頼がおかれていきました。
なので最終的に、実質的な支配権を握っていたのは元老院のほうでした。
なので、コンスルは元老院の様子を伺いながら政治をする必要があったんですね。
体制は違いますが、昔の「天皇」と「上皇」みたいな関係でしょうか。
天皇が行政のトップですが、実際は上皇の意見なしに政治ができない、みたな感じですかね。
なんかコンスルはストレス溜まりそうですね。(笑)
まとめ
MQ:ローマ初期の共和政には、どのような特徴があったのか?
A:貴族(パトリキ)によってコンスルや元老院などの官職が独占されていた貴族共和政であった。
今回はこのような内容でした。
次回はローマ共和政②をやっていきます。貴族共和政に対して平民(プレブス)たちはどんな行動をしたんでしょうか。
それでは次回もお楽しみに!
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男・橋場 弦(2022)、『詳説世界史探究』、山川出版社
・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男(2017) 、『詳説世界史研究』、山川出版社