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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回は宋の文化についてです。宋の文化にはどんな特徴があったんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:宋代の芸術と学問の特徴とは?
今回の時代はここ!

※宋代=北宋、南宋の時代
文化の中核
唐の頃は貴族中心の華麗な文化でしたが、安史の乱後あたりからそういった華麗さから離れようとする動きが出てきます。

安史の乱後に貴族が没落していって、新たに台頭したのはどんな人たちでしたか?

新興地主層の士大夫です!

その通りです!
貴族が没落していって、北宋や南宋の時代に新たに台頭したのは、新興地主層で科挙に合格した儒教の教養がある士大夫が、文治主義のもとで政治・経済・文化の中核を担っていくことになりました。

芸術
宋代の芸術は士大夫たちによって、それまでの華やかさよりも内面的な感情の深みを表現しようとする傾向が現れるようになります。
陶磁器
白色の素地に透明な釉薬(ゆうやく)をかけて高温で焼いた白磁(はくじ)や、鉄分を含んだ灰を釉薬として高熱で焼いた青磁(せいじ)などは、唐の時代に発展して宋代に全盛期を向かえた芸術作品でした。
釉薬・・・陶磁器や食器などの表面をコーティングするための素材
単色で簡素なデザインが特徴で、朝鮮や日本にも輸出されて影響を与えています。

朝鮮の高麗では独自の高麗青磁が誕生しましたね。

院体画、文人画
絵画では実は唐の玄宗の時代から専門の機関が置かれていて、専門の宮廷画家によって絵画が発展していました。
この宮廷絵画で発達したのが、花や鳥を題材にして写実(リアル)で色彩のある画風が特徴の院体画(いんたいが)と呼ばれるものでした。

北宋の皇帝だった徽宗などが代表的な人物で、徽宗は「風流天子」と呼ばれるほどの芸術の才能を持つ文化人でもあったんですよ。

それに対して、北宋の時代になると士大夫のような文人(教養のある知識人)が、仕事とは別のプライベートで絵画や書などを楽しんでいました。
そのような士大夫たちが描いた自由な絵画を文人画と言います。
文人画では主に山や水をテーマに自由なタッチで描かれているのが特徴で、代表的な人物には蘇軾(そしょく)などがいます。


蘇軾は北宋時代の士大夫で、旧法党に属して官僚としては流刑になるなど不遇な人生だったんです、その中で絵画に勤しんで文人画を確立させたと言われているんです。


文人画はただモノに似せるのではなくて、士大夫の教養や感性によって自由に表現しようとしたことに院体画との大きな違いがありますね。

詩文
詩文では唐の時代に、貴族によるルールに縛られた技術を競う詩よりも、自由に感情を表現しようとする文学ルネサンスが起きましたよね。

代表的だったのは、科挙官僚だった韓愈や柳宗元でしたね。
その自由に表現しようとする文学ルネサンスは宋代にも受け継がれていき、代表的な人物として先ほど文人画でも出てきた蘇軾や、欧陽脩(おうようしゅう)などがいます。


先ほども紹介した蘇軾は、北宋時代に優秀な成績で科挙に合格した士大夫で、官僚として活躍しながら絵画や詩文でも優れた才能を発揮した人物でした。
しかし、王安石による新法を批判するなど旧法党に付いたので、新法党によって3回も左遷されてしまい、官僚としては不遇な経歴を持つことになりました。
しかし、左遷先で三国時代の赤壁の戦いの戦場跡を回って詠んだ『赤壁の賦』は、宋代の詩文化の代表作として、人々に歌として親しまれることになりました。
欧陽脩も同じく北宋時代に科挙に合格した士大夫で、皇帝神宗に仕えながら重役を任される上級官僚でした。

欧陽脩は蘇軾が受験した時の科挙の試験委員長をしていたそうですよ。蘇軾の成績の良さに感動したとか。
仕事の傍ら、文学ルネサンスに努めたことから名文家としても知られています。
欧陽脩の王安石の新法に対しては批判的で、王安石が出世すると官僚を辞任してしまいました。

学問
宋学
学問ではそれまで後漢から続いていた、儒学についての古文の解釈を統一しようとする訓詁学が主流でした。
しかし宋代になって、訓詁学によって統一された儒学の解釈をさらに深く考えて、哲学的に宇宙万物の本質に到達しようとする宋学に発展していきます。
宇宙万物の本質・・・「この世のものは全てつながっている。」という意味
この宇宙の本質のことを「理(り)」といいます。

この宋学を簡単に言うと、「儒学の教えを使って”この世のものは全てつながっている”ということを証明しよう。」という感じですかね。
キリスト教のスコラ学と少し似ているところがありますね。
まとめると宋学とはこういうことです。
儒学の一字一句を解釈よりも、経典全体を通じて宇宙万物の正しいあり方を哲学的に探究すること。
この学問が宋代に発展しました。
北宋時代の思想家だった周敦頤(しゅうとんい)という人物が提唱して、「宋学の租」とされています。


SQ:なぜ宋代に儒学が変化・発展したのか?
ではなぜ宋代にこのような宋学と呼ばれる儒学が発展したんでしょうか?

宋の文化の中心が誰だったかを思い出せば、わかるかもしれませんよ。
宋代の社会の中心は、先ほども説明した通り、科挙官僚の士大夫でしたよね。
この士大夫は厳しい試験内容を突破したエリート集団でした。
そしてその科挙の試験内容の多くを占めていたのが「儒教(儒学)」の教養を求めるものだったんです。
なので、儒教に精通している士大夫たちが学問の中心いたので、自然と儒学に関する研究がおこなわれて宋学という形で発展していったというわけなんです。
儒教の教養に精通する科挙官僚である士大夫が学問の中心を担っていたため、宋学という形で変化・発展した。

四書
この宋学は経典を読み込むことが必要だったんですが、この経典として重要視されたのが四書と呼ばれる4つの経典でした。
・『論語』
・『大学』
・『中庸』
・『孟子』

この四書をもとに儒学は、士大夫たちが官僚として社会秩序を良くしようとする思いと合わさって発展していくことになります。
具体的には、先ほどの宇宙の本質である「理」を追い求めるのと、儒教の教えに沿って、
君臣(君主と臣下)
父子(親と子ども)
華夷(中華と夷狄)
というような、秩序を安定させるために上下関係や立場の違いをハッキリと区別しようとする動きが出てきました。

中国の華夷思想は古代からありましたが、特に北宋な南宋の時代にキタイ(遼)や金から屈辱的な和平を結んだことへの悲しみと怒りがあったから強調されたといわれています。

資治通鑑
先ほどの君臣や華夷の区別を強調した例として、司馬光が編集した『資治通鑑(しじつがん)』があります。

司馬光は科挙に合格した官僚で、王安石の新法を否定した旧法党の中心人物でした。

王安石の失脚後に宰相になって、新法をすべて否定して元に戻していたりします。
その後は中央の官僚を引退して地方の役職につきました。
そこで没頭したのが歴史書である『資治通鑑』の編集だったんです。
『資治通鑑』は、歴史上で起こった順に記述していくスタイルが特徴で、このようなスタイルを編年体と言います。

今の学校で習う歴史の教科書と同じですね。
資治通鑑は戦国時代の始まる紀元前403年から、五代十国までの起きた出来事がまとめられています。
ちなみに、それ以前は皇帝の本紀と重要人物の伝記である列伝などを項目別に記述する紀伝体が主なスタイルでしたね。
『資治通鑑』は先ほども言ったように、司馬光が生きた時代は北宋がキタイ(遼)に燕雲十六州を明け渡した時でした。
なので、異民族に屈した悲しみと怒りから、厳格な君臣や華夷の区別をハッキリとさせて、君主の模範となるような歴史上の事例をたくさん入れて、本来あるべき中国王朝の姿を示そうとしました。

ちなみに『資治通鑑』は完成まで約19年かかっていて、編集した理由としては、

それまでの紀伝体は文字が多すぎて、多忙な皇帝が読み切れる量ではない。だから読みやすいように時代順に並べて1つにまとめたのです。
みたいな感じで編集を決めたそうです。
朱子学
そして今まで説明してきた周敦頤から始まる宋学を大成させたのが朱熹(しゅき、朱子)と呼ばれる人物です。

朱熹は南宋時代の儒学者で、科挙に合格したんですが、自分の思想が受け入れられず下級官僚として過ごしていました。
そこで儒学の研究を進めてたどり着いたのが、宋学を大成させた朱子学と呼ばれるものでした。
朱子学がどんな学問なのかは以下の通りです。
以下は、わかりやすく箇条書きに編集した内容です。
「存在論」
・理気二元論:全てのものは「理(宇宙の根本原理)」と「気(物質を形成する原理)」で成り立つこと。
「倫理学」
・人間の生き方や道徳を論じる分野。
・性即理:人間の心は性(感情)と情(欲望)から成り立ち、情に惑わされず、性に従って生きることが宇宙の根本原理である理に至るという考え。
・この生き方を実践することで、聖人(理想的な人物)になることを目指す。
「方法論」
・聖人になるための具体的な方法、つまり「理」を極める説を展開。
・格物致知:「格」は至る、「物」はあらゆる物事を意味し、「格物致知」は物事の真理を究明することの意味。
・朱子は『大学』から「格物致知」の考え方を取り入れ、この方法論を展開。
「古典注釈学」
・『四書集注』で、『大学』『中庸』『論語』『孟子』の四書を儒教の新しい基本文献(四書)として指定。
・『資治通鑑綱目』の注釈で、大義名分論を強調。
・大義名分論:「父子の別」「君臣の別」「華夷の別」を説いた宋学(朱子学)の理念。
なんだか難しいですが、一言で言うと、
宇宙の本質と道徳的生き方を探求し、人間の内面と社会秩序を哲学的に体系化した儒学の完成形。

この朱子学は朝鮮や日本にも伝えられて、「どのように国家を統治するべきか。」という考えに変化していき、朝鮮や日本の統治理念として研究されるようになっていきました。

朝鮮王朝(李朝)のもとでは官僚の政治理念や生活規範として発展して、日本の江戸幕府では身分制社会の理念として発展していきました。
日本の江戸時代では朱子学の大義名分論が抜き出されて武士社会を正当化するものとして利用されました。

まとめ
MQ:宋代の芸術と学問の特徴とは?
A:芸術と学問共に、士大夫による内面の深みを表現した文化と哲学的な探究が特色である。芸術では、陶磁器の白磁や青磁が全盛期を迎え、絵画では院体画の華麗さから士大夫による自由な文人画へと変化し、詩文では感情表現を重視する文学ルネサンスが広がった。一方学問では、儒学を哲学的に発展させた宋学が主流となり、「理気二元論」や「性即理」の思想を展開した朱子学が大成された。

今回はこのような内容でした。

次回は、宋代の文化の2回目として宗教と三大発明についてみていきます。宗教や新技術にはどんな特徴があったんでしょうか。
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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