世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。復習や予習の際に使いやすい内容になっています。「問い」の設定や記事の最後には使用したパワポもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!※あくまで1例なので、「MQ」や「SQ」、スライド等は自由にアレンジしてください。
はじめに
前回はこのような内容でした。
今回は劉秀(光武帝)によって建てられた後漢が混乱を向かえ、滅亡してしまいます。その経緯をみていきましょう!
MQ:なぜ後漢は滅亡したのか?
今回の時代はここです!
宦官と外戚の権力闘争
SQ:なぜ宦官は政治に進出できたのか?
光武帝の死後も前漢時代から続いていた外戚(皇后一族)の政治介入は続いていました。前漢時代には外戚の王莽が皇帝になって新を建てたりもしましたね。
皇帝が変わるごとに外戚も変わり、その都度政治に口出し(政治介入)をしてくるので皇帝もそれにうざったくなっていきます。そりゃいちいち指図されて思い通りにならないとイライラしますよね。
なので皇帝は別の勢力を使って外戚を排除しようと試みます。その別勢力が宦官(かんがん)でした。
宦官は[25]秦の滅亡と前漢の成立でも出てきましたが、皇后などや側室などの女性たちが住む後宮(こうきゅう)でお世話係をする去勢された男性です。
なんで宦官は去勢されていたんですか?
後宮には皇后などが生活し、将来皇帝の跡継ぎを産む可能性がある人がたくさんいました。宦官が誤って皇后などの間に子どもを授かれないようにするために去勢されていたんです。
当時はまともな麻酔もなかったので、施術で出血死やショック死をする人も多かったそうです。ですが宦官も皇帝や皇后をお世話することができる将来を約束された国家公務員です。それほどのリスクがあっても宦官を希望する人は多かったそうです。
男性からすると想像するだけで寒気がしそうですね。(笑)
この宦官は普段から皇后や皇帝のそばにいるため、皇帝と親密になりやすく手を組みやすかったのです。
最近外戚がうざいんだよね~。
それは大変ですね~。なにかお手伝いできることがなんなりとお申し付けください。
もしかしたらこんな会話もあったかもしれませんね。(笑)
そんなわけで、皇后や皇帝のそばで権力を伸ばした宦官たちを使って、外戚を排除しようとしたのです。こうして外戚と宦官は勢力争いを取り返していき、後漢の末期には宦官が政治の中枢を担うようになっていきます。
当時、宦官が高官に就くために賄賂なども横行したそうです。
党錮の禁(とうこのきん)
宦官たちが幅を利かせるなか、宦官を良く思わない勢力がもう一つありました。官吏(官僚)たちです。
かれらは郷挙里選(きょうきょりせん)によって地方から登用されたエリートたちです。
官吏からすれば、宦官などは正規ルートでもないのに政治に介入してくる厄介者でした。しかも官吏は儒学に精通しているので、汚い手(汚職、賄賂)をつかって権力を握ろうとするやつらは許せない存在だったんです。
その官吏からの批判に危機を感じた宦官たちが官吏を排除しようと起こした事件が、党錮の禁(とうこのきん)です。
166年に宦官たちが有力な官吏約200人を捕らえて投獄してしまいました。権力を再び我が物とした宦官は169年には100名あまりの官吏を処刑するなどの大弾圧をおこないました。
この官吏への弾圧はその後20年間にもわたっておこなわれました。まさに宦官全盛期です。
黄巾の乱(こうきんのらん)
先ほどもお話した宦官の進出は中央政府の混乱を招きました。
だってもともとは後宮に仕えたお世話係ですからね。裏世界(後宮)の人間が表世界(政府)に出てきて官吏を弾圧(党錮の禁)して幅を利かせてるわけですから、王宮内はゴチャゴチャです。(笑)
なので豪族などは郷挙里選で中央に進出して富を蓄えましたが、一方で権力闘争に夢中で政府がうまく機能しないので、ろくな経済対策も打てずに農民を中心に貧困化が進んでいきました。
そんな貧しい農民たちの不満はどこに向けられるのか?
それはもちろん後漢王朝(中央政府)ですよね。
こんな苦しい生活を強いられるのは政府のせいだー!
このような貧富の差からうまれる問題は現在の世界各地でも起こっていることですね。日本でも貧困化が進み、国の社会保障制度に不満をもっている方は多いと思います。
張角の太平道
そんな民衆たちが苦しい生活を送るなか、病気になった人々の治療にあたっていた張角(ちょうかく)という人物があわられます。
張角は自らを黄天(神)の使者として、
罪を告白してお札と霊水を飲んで、神に許しを願えば病が治りますよ。
と説いて民衆の救済にあたってしました。これが貧困と政府への不満がたまっていた民衆の心に突き刺さり、この救済法は瞬く間に大規模な民間宗教である太平道(たいへいどう)として発展していきました。
民衆は「神頼み」しか頼るものがなかったのです。
例としてはキリスト教やイスラム教も貧しい人々を吸収して拡大しています。
後漢末期の政治不安からこの太平道は勢力を拡大して、184年に後漢王朝に対して挙兵した黄巾の乱(こうきんのらん)を起こしました。黄色の布を頭に巻いていたことから黄巾の乱といわれています。
この黄巾の乱は拡大していき、後漢王朝を脅かしました。皇帝は投獄(党錮の禁)されていた官吏たちを解放して農民反乱の黄巾軍と結束するのを防ぐなどの対応をしながら、豪族の力も借りて黄巾軍を鎮圧していきました。
しかし各地で反乱がおさまることはなく、王朝への信用は失われていきました。
あの頼りない王朝のままでは国が崩壊して異民族に乗っ取られるぞ。
このように最初は協力していた豪族たちも、衰弱した王朝をみかぎって自ら王を名乗って国を建てるという事態が頻発しました。
こうして後漢王朝の権威は底をついて220年に滅亡、豪族たちが群雄割拠する時代に突入していきました。
この群雄割拠の流れは春秋・戦国と似ているものがありますね。
まとめ
MQ:なぜ後漢は滅亡したのか?
A:宦官の進出によって、官吏が弾圧される党錮の禁がおこるなど政界が混乱した。それによって民衆の貧困化が進行し、大平道などの民間宗教が力をつけて黄巾の乱をおこして王朝が衰弱した。それを見限った豪族が群雄割拠したことによって後漢は滅亡した。
今回はこのような内容でした。
この群雄割拠の時代こそ、日本でも人気のあの「三国志」の世界です。今後をお楽しみに。
次回は前漢~後漢までを含めた「漢の文化」についてやっていきます。実はグローバル社会だった漢王朝。それではお楽しみに!
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
この記事で使用した授業スライドのダウンロードはこちら↓
・『世界史の窓』、世界史の窓 (y-history.net)
・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男・橋場 弦(2022)、『詳説世界史探究』、山川出版社
・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男(2017) 、『詳説世界史研究』、山川出版社
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