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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回は北宋や南宋の社会と経済についてです。こうした宋の時代に起きた経済発展は社会にどんな変化をもたらしたのか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:宋の経済発展は社会にどんな変化をもたらしたのか?
今回の時代はここ!

商業の発展
行・作
前回は[8-1.5]唐末期~五代十国の社会・経済で扱ったように、各地で商業都市が発展しましたが、北宋の時代になると、この大規模になった商業活動が王朝の主な収入源になっていきました。
そしてこの商業都市の発展によって新たに現れたのが、同業組合である行(こう、商人)・作(さく、手工業者)でした。

SQ:なぜ商業都市の発展によって行や作などの同業組合が誕生したのか?

この問いについては[8-1.5]唐末期~五代十国の社会・経済で出てくるそれまでの市場制度と草・鎮の発生を思い出すと理解できるかもしれませんよ。
まず、それまでの市場というのは、都市の城壁内で行政から場所と時間を指定されていて、夜間営業ができないなどの規制がありましたよね。
しかし、人口増加や経済発展によって、城壁外にも交通の要衝に人が集まって定期市を開くなど、自由な商業活動が増えていきました。
それが発展してできた新たな商業都市が草市や鎮でしたよね。
そうした商業都市は自然発生的にできた市場だったので、行政からの規制もなく、自由な商業活動がおこなわれていました。


しかし、行政からの規制がないということは、逆に何を意味するでしょうか?

規制されていたけど、なにかトラブルが起きた時には守ってもらえなくということですか?

その通りです。それまでの市場は国などの行政から規制される代わりに、営業権などを保護してもらっていたんです。
その保護がなくなったことで、商人だちは自由になった分、営業権や利益保護を自分自身で守らなければいけなくなったんです。

詐欺やトラブルに巻き込まれても誰も守ってくれず、全部自己責任になってしまったんです。
そこで商人たちは同じ業種ごとにチーム(組合)を組んで、ここに営業権や利益保護をお互いに守り合う行(こう)と呼ばれる同業組合が誕生したんです。

ちなみに、現在の「銀行」という言葉は、銀の両替をしていた商人の組合を「銀行」と呼んでいたからだそうですよ。
次第に手工業者も”行”から利益を守るために同業組合を結成するようになって、作(さく)と呼ばれるようになりました。

経済発展に伴って、行政の規制のかからない自由市場が増えたことから、商人や手工業者たちが自分たちで営業を保障し合う組織が必要になったため。


同業組合は西ヨーロッパ世界でも出てきましたね。
こうした商用活動では主に塩や茶が専売とされて、米や絹などを扱う大商人が現れるようになりました。
海上交易も活発におこなわれて、絹や陶磁器、銅銭(宋銭)などが輸出されるようになっていきました。

陶磁器などは高麗青磁など、周辺諸国の文化に影響を与えて、宋銭なども貨幣経済を進展させました。


市舶司
海上交易も活発になると、交易の玄関口だった市舶司の存在が重要になっていきます。

市舶司は簡単に言うと、商人たちの出入国の手続きをしたり、貨物の検査をしたり、税金を集めたりするための役所でした。
ムスリム商人がやってきて活発な交易が始まったんですが、唐の市舶司は期間限定の役職だったので、節度使や宦官がその役割を担っていたりもしていました。

しかし、経済が発展して海外貿易がさらに盛んになった北宋では、市舶司がさらに重要な存在になっていき、経済規模の拡大にともなって、それまで開港されてきた広州だけではなくて、泉州や明州(現在の寧波)、杭州などにも市舶司が設置されて、盛んに交易がおこなわれました。

北宋の市舶司は、外国からの船の受け入れ、税金の徴収、積荷の検査などを行うだけでなく、貴重品や専売品を買い上げる役割も担っていたそうですよ。

こうした国の市舶司が海上交易を管理していたものの、唐から続いていた冊封体制は崩壊していたので、代わりに商人が交易を担うようになっていきました。
これによって東アジアの経済の中心は政府(王朝)から商人に移っていったといえますね。
江南の開発
北宋が靖康の変によって、開封を放棄して江南の臨安に南宋が成立します。
北から逃げてきた人々によって人口が増加したことで、低湿地帯に堤防を作って開墾が進められていき、江南の開発がさらに活発になっていきました。
さらにベトナムからひでりに強い占城稲(チャンパー米、早稲種)が導入されたことで、それまでの品種と合わせて二期作が可能になりました。
ひでり・・・暑い晴れの日が続き,雨が降らず,川や池・井戸などの水がかれること。
田畑拡大と新品種などの効果によって生産力も一気に増大して、江南地方は豊かな穀倉地帯へと変化していきました。

当時「蘇湖(江浙)熟すれば天下足る」ということわざができたほど、豊かな地域になっていきました。
ちなみに日本にも鎌倉時代に占城稲が伝わって生産量増大に繋がっていきました。

SQ:宋時代に進んだ都市化は生活や環境にどんな影響があったのか?
北宋から南宋にかけて、経済発展や人口増加による都市化が急速に進んでいきました。
ではそれらの都市化は生活や環境にどんな影響を与えたんでしょうか?

以下の史料を呼んで当時の様子から考えてみましょう!
むかし、開封の都の数百万の家ではみな石炭を用い、薪を使う家など一軒もなかった。ひるがえって、(近くに利用できる産炭地がない)呉・越の地(の臨安)を仮の都としている現在はというと、あたりの山林は広いものの、日々の燃料を得るには十分ではない。美しい花やみごとな竹、墳墓をおおってきた木々さえも、年月を経るうちに、すっかり失われてしまった。わずかな根っこまでことごとく掘り出されて(燃料として利用され)、新しい芽が出なくなってしまったからだ。(こうしてみると)石炭の便利さというものは得がたいものであった。

みなさんはわかりましたか?注目すべきは以下のところです。
美しい花やみごとな竹、墳墓をおおってきた木々さえも、年月を経るうちに、すっかり失われてしまった。わずかな根っこまでことごとく掘り出されて(燃料として利用され)、新しい芽が出なくなってしまったからだ。
この史料によると、北宋時代では石炭が主な燃料として使われていたようです。
しかし、南宋になってからは国内に石炭が採れる場所がなかったので、木々(薪)を燃料として使うようになり、人口増加と、経済発展による都市化によって消費量が増えて、環境破壊が起きてしまったんです。

経済発展によって人は増えて生活は豊かになったんですが、その代償が環境破壊だったということだったんですね。
なんだか現代にも通じることが当時も起こっていたんですね。
大量の人口と大規模な経済活動を支えるために、あらゆる草木が燃料として伐採されて環境破壊を起こした。

世界初の兌換紙幣
SQ:なぜ宋の時代に紙幣が誕生したのか?
公子・会子
北宋、南宋の時代に経済規模が大きくなったことで、商売の取引量が増えて、それに使用される銅銭も大量に鋳造されるようになりました。

北宋や南宋の時代に使われれいた銅銭を”宋銭”と呼んだりもします。
価値の高い金や銀も地金として使われていましたが、中心はもっぱら銅銭でした。
地金(じがね)・・・金属 を貯蔵しやすいような形で固めたもの。

しかし、商業規模が大きくなっていくにつれて銅銭の製造が追いつかなくなっていきます。
そこで貨幣の不足を補うために新たに作られたのが鉄銭でした。

当時の「金」、「銀」、「銅銭」、「鉄銭」の為替ルートは以下の通りです。
・金→銀:金1両は銀10両。※時代によってはもっと高価になる場合も。
・銀→銅銭:銀1両が銅銭1000枚程度。※経済状況によって変動あり。
・銅銭→鉄銭:銅銭1枚が鉄銭10枚程度。※経済状況によって3~10枚に変動。

鉄は銅よりも安価だったので大量生産が可能になって、不足を補うことには成功したんですが、ここである問題が起こります。
当時、薄い絹を1匹(約13m)を買うのに、約130斤の重さの鉄銭が必要だったそうです。
これは現在のg(グラム)に変換すると、
1斤=約500g
130斤=130×500g=65000g
130斤=約65㎏
なんと、13mの絹を買うのに約65㎏もの鉄銭が必要だったんです。
これではお金を運ぶだけでも一苦労ですよね。
大量の金属貨幣が流通したことで、運搬コスト(負担、不便さ)が大きくなってしまったんです。


では当時の商人たちはこの問題をどう対処したんでしょうか?
運搬の不便さを解消するために、商人たちが考案したのが、

いつでも銅銭と交換できる証明書(手形)を作れば、重たい貨幣を運ぶ必要がなくなるのでは?
その証明書を両替商に持っていけばいつでも銅銭と交換できるから便利になるはずだ!
ということで、遠距離の運搬を楽にするために作られたのが、交子(こうし)と呼ばれるいつでも銅銭と交換できる手形(証明書)でした。

いつでも銅銭と交換できるので、それがそのまま貨幣として利用されるようになっていきました。これが世界初の兌換紙幣の誕生というわけです。
経済の発展や貿易の活性化によって大量の銅銭や鉄銭の製造されたが、重い金属貨幣は運搬が不便だったため、それを解消するために兌換紙幣が誕生した。

交子は北宋時代の四川で商人の行(商人組合)が発行したのが起源で、その後政府によって発行が引き継がれて流通していきました。
南宋の時代になると、新たに政府によって会子(かいし)という紙幣が発行されて、交子・会子ともに銅銭(宋銭)の不足を補うように、銅銭と交換することができる兌換紙幣として流通するようになっていきました。

ちなみに銅銭(宋銭)は日本にも輸出されており、平安時代から鎌倉時代にかけておこなわれた日宋貿易によって大量の宋銭が輸入されて、日本の貨幣経済の進展にも貢献しました。

ちなみに日宋貿易の拠点だった博多を抑えていたのが武士の平氏だったんですよ。この日宋貿易を担っていたことで平氏は力をつけて一大勢力として歴史を名を残したんです。
日本だけでなく、宋銭は「海の道」を通って、東南アジアだけでなくアフリカ大陸でも使用されており、当時世界通貨となっていたことがわかっているんです。すごいですね。

士大夫
北宋から南宋にかけての政治の話も戻すと、体制としては科挙官僚中心の文治主義を採っていましたよね。
その科挙は男性であれば誰でも受験することができる公平な制度だったんですが、受験科目の儒学や詩文をしっかりと学ぶためには高い教育費が必要でした。

現在でも有名大学に合格するためには予備校代など高い教育費が必要ですもんね。
それだけの教育費を出せる家庭は経済的に裕福なところに限られてしまうので、自然と科挙合格者は裕福な家の出身者が多い状況になりました。
そして、当時それだけの経済力を持っていたのが新興地主層の形勢戸だったので、自然と科挙官僚も形勢戸出身が多くなっていきました。
このように宋の時代では、唐末期から衰退していった貴族に変わって、士大夫(したいふ)と呼ばれる形勢戸出身で高い教養を持つ上級官僚が、社会で高い地位をもつようになっていきました。


大地主かつ上級官僚となれば、そりゃ地元では誰も頭があがりませんよね。
ここで形勢戸と士大夫の違いをまとめておきましょう。
・形勢戸・・・新興地主層。
・士大夫・・・形勢戸出身の資産家上級官僚。

こうみると士大夫は形勢戸の上位互換みたいですね。
この資産家官僚である士大夫が、宋の政治や社会、文化を作って支えていくことになっていきました。
まとめ
MQ:宋の経済発展は社会にどんな変化をもたらしたのか?
A:宋の時代、経済の発展によって都市が成長し、大商人による同業組合などが結成されるなど商人による商業活動が活発になった。江南の開発によって人口が増加し、貨幣量の増加に伴い会子・交子にような兌換紙幣も普及するようになった。地域社会では資産家官僚の士大夫が社会の中心となって政治・文化を形作っていった。

今回はこのような内容でした。

次回は宋時代の文化についてです。宋代の文化にはどんな特徴があったんでしょうか。
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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