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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回は唐末期から五代十国の社会についてみていきます。唐末期から五代十国にかけて社会はどのように変化したのか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:唐末期から五代十国にかけて社会はどのように変化したのか?
今回の時代はここ!

唐末期
SQ:なぜ唐は安史の乱後も持ちこたえていたのか?
江南地方
唐の後半は節度使の台頭などによって王朝が求心力を失って、安史の乱などによって一気に求心力を失って衰退していきましたよね。
しかし、王朝が衰退したといっても、唐はそこから滅亡までなんと約150年間も存続していたんです。

ではなぜ安史の乱後も唐は持ちこたえていたんでしょうか?

唐が持ちこたえた主な理由は、”王朝を支える経済力”があったからなんです。

まあ、国家運営は税収あってこそですからね。それが唐にはあったんですね。
均田制は崩壊していましたが、唐には他にも税収の宛てがあったんです。
それは唐の時代の一大商業圏で、魏晋南北朝の南朝時代から開発が進んでいた”あの地域”でした。
わかりましたか?
それは”江南地方”です。
安史の乱などの混乱が江南地方までは届いていなかったので、安全を求めた人々が移住して人口が増えていったんです。
塩の生産や茶の栽培が盛んだったので、絹馬貿易(けんばぼうえき)や海上交易によって繁栄していました。
江南地方が経済的に発展していましたが、政治の中心は華北にあったので、華北と江南を結ぶ大運河の重要性が増して開発が進んでいきました。


草市・鎮
また、唐の時代に農作物の生産量が増えたことで、末期には売り買いや流通などの商業が盛んになっていきました。

唐の貴族の間でクッキー(お菓子)が流行ったのも、麦の生産量が増えた影響でしたよね。
その過程でできたのが、商業都市である草市・鎮でした。
唐時代の市場は城郭都市の中に作られていて、場所や営業時間が決められていました。
しかし、唐の後半になってくると穀物生産量や人口の増加によって、城壁外の交通の要衝にも人々が集まって定期市を開き、さらに人が住み着くようになって小さな商業都市ができあがっていきました。
このような小さな商業都市は、城壁内の市場よりも粗末だったことから”草市”と呼ばれるようになっていき、宋にかけて発展していくことになりました。

そしてもう一つ、商業都市化していったのが、”鎮”とよばれるものです。
鎮とは、もともと節度使(藩鎮)が駐屯する拠点として置かれた場所でした。
藩鎮は軍事拠点として作られたんですが、行政や税の徴収も行う重要な拠点でもありました。
なので、鎮には自然と人々が集まるようになっていき、商売が盛んな商業都市へと成長していったんです。

宋の時代に節度使が解体された後は、”鎮”という名前だけが残って商業都市を指すようになったようです。

このような草市や鎮などは、城壁内の市場に比べて国からの規制が少なかったので、自由商売によって活発に商売がおこなわれました。
唐の後半は、こうした江南地方の発展や大運河などの交通開発、草市・鎮などの商業都市の発展などの経済力に支えられて持ちこたえていたんですね。
江南地方の発展や大運河などの交通開発、草市・鎮などの商業都市の発展などの経済力に支えられて持ちこたえていた。

五代十国
こうした経済力を背景に、なんとか持ちこたえていた唐でしたが、10世紀に滅亡してしまい、五代十国の時代が訪れます。
五代十国のうち、五代のうち後唐を除く王朝が首都に定めたのが開封という都市でした。
この開封は大運河と黄河と交差する地点だったことから、隋の時代から交易の中継地として栄えていた商業都市でした。
唐のキレイに区画された長安とは違い、開封は入り組んだ道が多く、城壁内に運河も作られていて、商店も場所指定されずに自由に道沿いに出店されていたような「THE 商業都市」だったんです。

要は、計画されて作られたわけではなくて、古くからあった街の周辺に市場や繁華街が追加されていってできた都市なんです。


このように五代十国時代から中国王朝の都市は、計画都市によって中央集権化するスタイルから、経済力のある商業都市を抑えて経済を盤石にして繁栄しようとするスタイルに変わっていきました。

だって、周りは敵国ばかりの群雄割拠の時代ですからね。
少しでも富国強兵するためには経済力のある商業都市を抑えるのが、一番手っ取り早いですからね。
形勢戸の出現
唐の中頃までは貴族が大きな力を持っていたんですが、武則天の時代から科挙官僚が重要視されたことで、次第に貴族が没落していきました。

なぜ武則天が科挙官僚を重視したのかについては、[2-4.6]均田制の崩壊と武則天でご確認ください。
その代わりに力をつけていったのが、”地主”たちでした。
当時、唐では均田制があったんですが、それが崩壊してしまい、新しい税制度として両税法が施行されました。
この両税法で私有地を持つことが許可されたことで、経済発展で裕福になった人たちが農地を開墾したり買い集めたりしたことで、新たな地主が現れるようになります。
その新興地主のことを形勢戸と呼びます。
この形勢戸は佃戸(でんこ)と呼ばれる小作人を使って、農耕をさせ、収穫物の約半分もの小作料を取ることでさらに裕福になっていきました。


形勢戸は経済的に恵まれていたことから科挙に合格する人も多かったので、宋では科挙官僚になった人の土地は租税などが免除される官戸と呼ばれて特権化されていきました。まあ、経済的に恵まれていましたから、高い教育費をかけられたんでしょうね。
このように唐の後半から出現した形勢戸は宋の時代にかけて、政治の中枢にも進出していき、政治・文化の中心を担っていく存在になっていきました。

まとめ
MQ:唐末期から五代十国にかけて社会はどのように変化したのか?
A:政策の崩壊と節度使の勢力拡大により中央集権が弱体化した。この混乱の中で各地に草市や鎮が出現し、地域ごとに経済が多様化した。江南や開封などの商業都市が発展し、経済の中心地として重要な役割を果たすに至った。また、経済発展に伴い、貴族に代わって新興地主層である形勢戸が台頭し、政治と経済の両面で中心的な存在となっていった。

今回はこのような内容でした。

次回は宋(北宋・南宋)の社会・経済についてです。宋の経済発展は社会にどんな変化を引き起こしたんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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